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質問ですが

ニュース等で、ある特定の人物をストーカーしたり、その人の家宅にカメラを設置したり、あるいは最悪殺害したりして逮捕されるという報道を耳にしますが、こういう行為に走る人間の心理はどのようなものなのでしょうか。その被害者に対する異常な依存性というか執着心というか。ただ暇なだけなのでしょうか。あるいはやはり何らかの精神的な病気を患っているのでしょうか。幸いにもその心理を理解することができないのですが、仮に理解することができるという方がいらしたらお教えいただけませんでしょうか。また、専門的な見地から分析することができるという方がいらっしゃいましたらご意見いただけませんでしょうか。

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回答No.2

もちろん時間がないと何もできませんが、犯罪の根底に あるのは独占欲でしょう。 それは誰もが少しは持っているのでしょうが、犯罪にまで 及ぶのは、捕まらないと思っているのか、捕まえて欲しい と思っているのか、どちらか解りませんが、そういう前提が あるためでしょう。  どちらにしても、犯罪者は自分だけの論理で行動しますの で、通常者(という者がいれば)にとっては理解不能でしょう。

noname#146441
質問者

お礼

ご回答いただきありがとうございました。人格のある人間を自分の所有物と考えるわけですね。傲慢ですね。

その他の回答 (2)

noname#154561
noname#154561
回答No.3

私見に過ぎませんが・・・ 人間が「他人」を真に理解することは出来ない、と よく言われますが、本人ですら意識していない深層心理を 見抜く慧眼の人、というのは少なくありません。 それは、自分の中にも同様の心理があることをきちんと 認識している(その多くは認めるのに抵抗がある、生々しい 欲望の歪んだ姿なのですが)からこそ、表情や言葉遣い、 態度、様々な反応から「あ、これはあれかも知れない」と ピンとくる訳ですよね。 だから、このことは言い方を間違えるとストーカーの心理、 凶悪犯罪者の心理自体は、特定の脳の機能障害、或いは 精神障害と診断されるほど明確になっていないにしても、 実は多くの人に共通する性質だ、とも言えると思うのです。 人間は自分が知っていることしか理解できません。 新しいことも、既知の知識や経験を組み合わせて「あれは これと同様のことだ」とレッテルを貼り、分析してみせ、分類して いるわけです。 世界の見方、この場合は他人をどう見るかということについても その人物の、より本質を見抜いているというよりも、自分の見方で 再生成された「自分が認識しているイメージ」を見ている、と言えます。 普通の人、というのは徹底的な確信、というものを持ちません。 周囲を見回しながら、浮かないように、つまはじきになったり 攻撃されないように注意深く観察し、空気を読みながら、その都度 相手の態度が自分の予想と整合しているかを判断しながら 付き合っているわけです。 いわば、生存本能による自己防衛のために。 しかし、完全に周囲から浮いてしまい、孤独な状況下に長く暮らす ようになると、周囲を観察しながら人を読んでいき、固定的でない 柔らかな認識能力を育む、他人とのやりとりがないままになります。 精神的な新陳代謝も無く、自己防衛本能の発露だけが剥き出しで 心の表層を覆うようになると、当然、益々孤立を深めますから 他人を他人として観察しながら出方を伺う、という機能は衰退します。 他人の見方が自分の認識イメージであるということは、そういう見方を する自分を投影してみている、とも言えます。 つまり、自分の理想像や自分のアイデンティティを確立できる完全な悪、 といった虚像を他人の姿の上に投影して見ている事になりますから、 それが自分の思い通りにならない言動をする、ということは認めがたい 恐怖となります。 自覚は乏しいかも知れませんが。 自分を守り、自分の世界を築くために、他人に自分の願望をイメージ 投影しているわけですから、それが理解できない別個の存在として 動き回るということは、自分の手や足がある日突然勝手に動き回って コントロールできない驚愕を感じることになるわけです。 当然、力づくで勝手に動こうとする自分の四肢を押さえ込もうとするでしょう。 時には、切り落としてしまおうとするパニックに襲われることもあると 思います。 こうした見方で彼らの心を覗き込もうとすると、結局のところ、誰もが 自分の見方を投影して見ていること自体は同じだということに気付きます。 孤独、というものは増幅されます。 絶対的な孤独、というものは人跡未踏の荒地に一人で佇む事ではありません。 無数の人々に囲まれて、全くコミュニケーションが取れない、それが地球上での 絶対的な孤独というものです。 それに苛まれたときに、自分がどれ程脆く、壊れやすいのかを初めて 知ることになりますが、それは精神にひびが入り、崩れ、壊れることでのみ 理解されることです。 しかも、他人から客観的に、です。 そこに置かれれば、どの程度の時間で精神が病んでくるのかは、もはや 個人差に過ぎない・・・誰の心も、建物と同じように構造を持ちます。 限界を超える力を受ければ壊れます。 人間は、理解できること、知っていることでしか世界を見ることが出来ません。 だから、自分が壊れる、ということを多くの人は知らないのです。 体感的に理解することは出来ない・・・。 普通、と思っている心の中にこそ、彼らの淀んだ、或いは衰弱し、簡単に 崩壊してしまう心の弱さが見出されることに気付くとき、自分一人では 簡単に壊れてしまう心の脆さや弱さを「このままいくと私はダメになる」とか 「あの人がいるから、自分は何とか持ってる」という理解の延長として、 決して自己と同一になり得ない他者との「絆」を握る手に、ぐっ、と力を 込められるのです。 その「絆」は、時々ちゃんと握り返してくれます。 自分がどんなに欠陥だらけでちっぽけで無力かを実感し、かつ、手を握る 相手も多かれ少なかれそうなのだ、だから相手にとっては自分の手も 絆なのだと体で判れば、誰でも何とかやっていけます。 絶対的な孤独。 そんなの自分が悪いんだろうとか何とかのつまらない話ではなく、ただただ、 逃れようの無い現実としての、どうしようもない、孤独。 その中にじっとうずくまっている心を抱きしめて佇んで動けない人の、 心がストーカーや凶暴な感情爆発を起こすことを、誤解を恐れずに 言えば、私は自分の心の機微の一つとして、理解は出来るのです。 やりきれない、本当にやりきれない話です。 私は、愛することなしには、到底生きていけそうにありません。 運が良いことに、愛する人の顔色を伺ったり、その一挙手一投足に 目が離せない。 私は運良く、自分がどんなに矮小であるかを 自分を卑下するのではなく、理解できました。 まだ、重大な罪を犯していない予備軍も沢山いるでしょう。 彼らの閉ざされた心がどうすれば他人が他人であることを理解 することが出来るのか・・・優しくすれば思う壺ですし、厳しくすれば キレるでしょう。 まだ、誰も汎用的な療法の理論さえ確立してはいないようにも 見える・・・。 駄文ジェネレータ暴走です。ご一読下さって、どうも有難う御座いました。

noname#146441
質問者

お礼

ご回答いただきありがとうございました。個人的な所感で大変申し訳ありませんが、少し難解な文章でしたので、もう少し端的に纏めていただけるとありがたかったです。因みに失礼かもしれませんが「駄文ジェネレータ暴走」というフレーズは笑わせていただきました。

回答No.1

愛情と憎しみは同じものの両面です。 方向が違うだけです。 手のひらと手の甲のようなものです。 手のひらが大きくなれば、甲も同じ大きさになります。 ある人に対する愛が大きければ、それが叶わないときには 大きな憎しみになります。 +10は符号を変えるだけで、一瞬に-10になります。 +100なら-100に変わるんです。

noname#146441
質問者

お礼

ご回答いただきありがとうございました。なるほど。一線を越えてしまう人は自分をコントロールできないのですね。