ゆとり教育を受けた人が何故非難されるのでしょうか。
これはかなり前から思っていた事ですが、最近同年代にもこの様な意見を持つ方が多くなって来ているそうなので私も質問しました。
私は、昨今の若者を「ゆとり」として全体的な意味も含ませて批判する人に違和感を覚えます。この問題に関しては「若者=ゆとり。こんな教育を受けた若者が悪い」 「この教育制度を作った人が悪い」 この2つに意見が分かれていると思いますが、私は後者側の意見を支持しています。私も及ばずながら「ゆとり教育」に関して色々調べて見たら自然と後者側の意見を支持する様になりました。そもそも日本のゆとり教育の前身の制度であった「詰め込み教育」に課題を踏まえてゆとり教育に変わっていったそうですね。それでゆとり教育は1980年度~2014年度まで続くそうですが、様々なデータから俗に呼ばれる「ゆとり世代」は現教育を受けている15歳から一端の会社員の26歳までの事を言うかと思います。ゆとりとは、主に「融通が利かない」・「社会に対して甘い考え」などの事を指しているかと思いますが、私は非難されるべきは子供では無くこの教育制度を作った臨教審やゆとり世代を育てた人間にあるかと思います。子供は親や社会にそれを学び、育ちます。つまり子供が育った結果が社会の表れで、その集合体が社会になっていくんだと私は考えています。勿論、繰り返すようですが子供が育つには過程がありますが、その過程に親や社会があります。その過程を変えていくことが、未来のよりよい教育制度の確立に繋がると私は考えているんですが、その現教育制度で育った結果である青少年のみを事あるごとにただ非難する事だけの人間は間違っていませんか?本来、私はゆとりという言葉を使うのはこの教育を受けた人間で戒めの様にしてお互いを励まし合う事が正しいと思います。私は事ある毎にゆとりとして若い人を非難する人は何処か「韓国」「中国」と聞いただけで過敏に反応・非難する右翼に似ている所があると思います。ですが勿論、批判されるべき対象は何処の時代にもあるかと思います。それがゆとり教育を示唆すべき点では無く、ただ一人の「若者」として非難されるべきだと思います。なので私は以下を結論としています。
・俗称である「ゆとり」とは元来、若者のマイナス・批判の材料として使うのでは無く、若者同士が「こんな教育で育ったからって甘えるな」等の意味合いを込めて戒めとして使われるべきだ。
・「ゆとり」として批判するべきでは無く、以前から使われていた「若者」として言葉を変えていくべきだ。
・ゆとりとして批判するだけで終わらず、話を社会や教育制度に持って行くべきだ。
長々と持論のみを展開しましたが、私のこの意見を皆さんはどう思うかとても気になります。私は先ほど、とある傷害事件の犯人が「24歳・無職」との理由でネットで「ゆとり」とひたすらに非難する人が居たので上記の事を聞いてみたら「制度を批判するのはゆとりの証拠」と一蹴されました。その後すぐ消えてしまったので、何とも言えずモヤモヤした気持ちが続いています。この持論を見て、どんな意見でも構いませんので皆さんが率直に思った事と意見、年齢を添えてご回答いただけると嬉しいです。