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太平洋戦争について
私の祖父(明治44年生れ)は、海軍に行き、叔父は、(大正5年頃生れ)は、皇居近くで近衛兵として勤務したと、祖母に聞きましたが、祖父は私が幼い頃に、脳溢血で半分植物状態のようになってしまい、海軍の話を聞けませんでした。 今は、皆亡くなってしまいましたが、海軍や近衛兵の 戦時中の苦労したエピソードなど教えて頂きたく宜しくおねがい致します。
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近所の息子は.政府の宣伝に乗って.志願兵として.入隊しました。が.仕事がきつい・汚い(拷問が仕事)。それで逃げ帰ってきました。家にいるところをここのえに見つかり.大通りて゜切り殺されました。2次間ぐらい生きていました。 私の家の使用人50人ぐらい.丁稚です。私よりも若い1名を除いて.徴兵で出かけて(トラックの荷台に載せて近所をパレード.市谷まで乗せて行く)行きました。途中.交通自己を起こして.以後中止になりました。交通自己で戦争に行かなかった人間と.私よりも若い1名を除く全員は.帰ってきませんでした。 同僚が東京湾のどこかにいて.毎日潜水服を来て爆弾抱えてもぐっていました。米軍船が来たら.爆弾を抱きかかえて船底にもぐり.爆発させるためです。潜水服の作りが悪いので.毎日のように誰かが泉水病で死ぬか.炭酸ガス吸収用のソーダで肺が解かされて死にました。 同僚の一人が航空気乗りで.かなりの腕です。アカトンボのような特攻は.新平がなるもので.指名されるはずもなく呼び出しで本人は落ち着いたものです。が.ある日真っ先に指名されました。「爆弾を抱えて米軍基地付近に着陸し.基地内に進入して.爆発させて来い」という内容です。出発前日の天皇の放送があり.敗戦日となって.命を永らえました。 従兄は.新兵では仕事がきついだろうから.と.あっちこっちに金をばら撒いて.仕官として徴兵に応じました。テントの下で寝ていました。テントを狙った爆撃で死亡しました。
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- ku-ku-kan
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私の祖父のことです。 輸送艦に乗っていたそうですが 船の操縦はふだんは、新米にまかせてベテランは休んでいたそうです。 しかし、米軍機がやってくると、ベテランが交代して舵を取り、上空から爆弾を落ちる瞬間(ゴマ粒よりも小さく見えるらしい)に巧みな操縦で投下される爆弾をすんでのところで回避するのだそうです。武器や食料を満載しているので、思うように舵が効かず、一瞬の判断で、しかも間違えたら爆弾で吹っ飛んでしまいます。 祖父が、生きて終戦を迎えられたのは、そのベテランの操縦のおかげだそうです。
お礼
ありがとうございます いざとなると頼りになるのが真のリーダーですね
- akamanbo
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図書館に行けば、戦史のコーナーがあります。 当時のよもやま話の本などがありますよ。 書店にもあるし。 掲示板に書き込んでもらうのは、分量的にも 書き込める人の絶対数からも、難しいと 思いますが。
お礼
ありがとうございました。 死を覚悟していた、戦争を体験された方々の苦労に比べたら、不況でも毎日ご飯が食べられる生活を送れることに感謝しなければならないと痛感しました。