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享保年間の、江戸の米相場会所について教えてください

江戸の米相場会所は、享保15年(1930年)大阪堂島に実権が移ってからも機能していたのでしょうか。 帳合米取引も堂島だけが許可されて、江戸の米問屋や米仲買人は、大阪に後れを取ることになったと言いますが、商いは続けていたのでしょうか。

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  • ベストアンサー
  • mekuriya
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回答No.2

河村瑞賢による東回り航路の開発以来、江戸の米相場会所の取扱量は伸び続けました。このままでは大坂の没落は必至です。米を江戸の新興商人に全部持っていかれたら、大坂商人は生き残れない。そこで生き残り策として考え出したのが帳合米取引という新しい取引手法だったのです。徳川幕府も江戸への一極集中は好ましくないと考えて、大坂商人の陳情を受け入れて帳合米取引を堂島だけに許可して大坂商人の既得権益を保護しようとしました。当然ながら、江戸の米相場会所でも取引は続けられました。東回り航路が無くなったわけではないのですから。

daliya
質問者

お礼

ありがとうございました。大変参考になりました。東回り航路ですか。なるほど。 また、大阪だけに帳合米取引が許された理由もわかりました。 また、よろしくお願いします。

その他の回答 (1)

  • uzume_z
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回答No.1

1930年は昭和ですよ。 米相場は関東大震災で取引所が崩壊して無くなったと思います。