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ネットの登場により「知識」に対する価値観が変わった?
- ネットの登場により、「知識」に対する価値観が大きく変わっている。ネットがない時代には、知識を得るためには多大な労力が必要であり、情報を得る手段も限られていた。しかし、ネットの普及により、気軽に情報を検索することができるようになり、知識の入手が格段に容易になった。その一方で、ネットの利便性によって人とのつながりや敬意が薄れる恐れもある。
- 20代の私たちにとっては、ネットが当たり前の存在となっているため、ネットのない時代の大変さを実感することができない。しかし、古い情報を知りたいと思った場合、ネットがない時代は聞き込みや書籍を調べるなど、手間のかかる方法を使って情報を得ていた。現代の便利さと比べると、その労力は相当なものであった。
- ネットの登場により、情報の入手が容易になった一方で、人とのつながりや敬意が希薄化する問題も浮上している。ネット上の情報は瞬時にアクセスできるが、その情報の信憑性や質には疑問が残ることがある。また、ネット上では匿名性が高く、コミュニケーションが希薄になる可能性もある。このような変化に対して、若い人たちは気づきにくいのではないかと心配されている。
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長くなってしまいましたので暇な時にでもどうぞ。 >気になってから知るまでの間に5分も掛からないでしょう。 >インターネットが無い時代のことを考えたのですが、今とは 全く違っていたのではないでしょうか? はい、全く違っていました。 ネットが誰でも手軽に使えるようになってから 約10年ですがその変化はやはり劇的です。 家に居ながら5分で情報を手に入れる方法は主に「活字」でした。 いまでは国語辞典や和英辞典すら不要なので全く手にする機会がなくなりましたが、「5分で」となったら思い浮かぶのは「本」「辞典」の類でした。 ですから、各家庭のリビングには「百科事典」というものが鎮座していました。(といっても高価なのでどこの家でもというわけではありません。) 「風邪をひくのはなぜか?」「太陽って何だろう」「ホワイトハウスの場所」などを知りたいと思ったらまずは「百科事典」で調べます。 『百科事典』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E7%A7%91%E4%BA%8B%E5%85%B8 『平凡社 世界大百科事典』 http://heibonnotomo.jp/goods+index.id+2.htm 『ブリタニカ百科事典』 http://www.britannica.co.jp/store/1_40.html しかし、百科事典は新しいことや言葉は載っていませんから百科事典を補う存在として絶対的な地位を保っていたのが『現代用語の基礎知識』をはじめとする年刊型の新語・用語辞典(ミニ百科事典)でした。 暮れになると『イミダス』『知恵蔵』とともに競うように分厚い新刊が山積みになるのは一種の風物詩でした。(なつかしー。) 「新語・流行語大賞」は『現代用語の基礎知識』から選ばれてることを知らない人も多くなったと思います。 『現代用語の基礎知識』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9F%A5%E8%AD%98 こんな画像がありました。(まさに5分で見つかります。) http://d.hatena.ne.jp/wildride31/20081210/1228928187 http://researchmap.jp/jotlmmu80-2178/#_2178 このような新語辞典の先がけが今でも現役の「広辞苑」です。 ふつうの辞書よりもアップデイトが早くて重宝されたので『現代用語の基礎知識』のヒントになったのは想像に難くありません。 『広辞苑』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91 ---------------- これらの辞典は知的ステータスシンボルの役目もあって多くの家庭に常備されて、その他にも様々な実用辞典がありました。 「家庭の医学」なんかも定番でした。 『たけしの本当は怖い家庭の医学』はそのパロディ的なタイトルなんですけど、世代によってはピンと来ないでしょうね。 このような「辞典」の黄金時代も「パソコン」「電子辞書」という「夢の道具」の登場で終りを告げました。 「電子辞書」自身も「モバイルPC」そして「スマートフォン」という真打ち登場でいずれ消えて行くのかもしれません。 >ネットが無かった時代に、それを知るために大変な労力が必要だったのではないでしょうか? 労力をかけたくないのが人間なので、上記のような辞典がよく売れたわけです。 「居ながらにしていろんなことが知りたい」という欲求は今と変わるところがないので、PC・ネットの代わりに「大きな本棚」があったわけです。 「すぐ知りたい・たくさん知りたい」という欲求が強いほど雑誌・書籍・辞典などは増えていくので「学者の部屋は本だらけ」というのが定番のイメージになり得るわけです。 >ネットが無い時代は知りたいと思ったら、聞いて回って、知っている人を探したり、本屋で書籍を探したりと大変だったでしょう。 おっしゃるとおりで、「家にある本」で解決しない場合は「5分で」を諦めざるをえません。 そんな時頼るのが「詳しい友人」や「頭のいいやつ」です。 電話という便利な道具のお陰で訪ねていく必要はありませんでしたが「聞いて回る」は現実にありました。(今ではTwitterですか?) 早さが優先される情報は「○○テレホンサービス」「FAX情報サービス」なんてものをよく利用していました。「有料・無料」でほんとうに色々ありました。(いまでも絶滅してませんよね。) ネットがない時代はこれがけっこう便利で「プッシュホン」が広く普及するにつれサービスも多様になっていって、それはそれで「情報革命」でした。 それでも分からないといよいよ「5分」ないし「すぐ」は諦めざるをえません。 TVやラジオで「放送されない情報」の場合、「本屋」あるいは「図書館」に出かけることになります。 新聞の「縮刷版」もよく利用しました。 新聞といえば「スクラップ」も情報収集の基本でした。 保存したい記事を見つけたら切り取って糊付けするわけですがさすがにそれは知ってますよね。 近くの本屋・図書館で事足りないときは「神田の古書街」「国立国会図書館」のようなところまで足を伸ばさないといけなくなります。 雑誌の図書館なら「大宅壮一文庫」が有名です。 今ではネットでアクセスできる文献も多くなったので、やっぱり手間という意味では格段に楽になりましたね。 でもその時はそれが当たり前なので「面倒」ではあっても「苦労」という感覚はまるでありませんでした。 まるでおじいさんのような言い回しですが本当に苦労だなんて思っていませんでした。 それよりも、「電話やFAX、巨大図書館と便利な時代になったものだなー。」「昔の人は大変だったろうなー。」とか思っていました。 >ネットの登場で便利になりましたが、人とのつながりが減ったり、知識を持っている人(年長者)に対する敬いの気持ちは薄れてしまうのではないかと心配です。 その心配は今に始まったことではないです。 まず、「本」や「新聞」があるのが当たり前と思っていますが、「印刷」は世界三大発明の一つと言われるくらいの革命的出来事でした。 それまでは「口承」「口伝え」が基本でしたから、広く誰かに伝えたり情報を蓄積するのは非常に困難だったので、印刷技術による情報革命が起こるとlucky_okさんのような心配をする人は数えきれないくらいいたと思います。 『活版印刷』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7 『口承』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E6%89%BF さらに、写真に映画、ラジオやテレビとそれこそ情報革命が起こるたびに同じような心配がされてきたでしょう。 それでも人間は全然変わらないんです。 日本でいえば、1,200年も前の「万葉集」の和歌にこめられた感情も理解出るし、1,000年前の「源氏物語」の男女の機微も理解できます。 世界に目を向ければ、1,700年も前の「三国志」の人間模様に心踊らせる事もできます。 --------------- 「知識の量」がその人の「権威付け」になって「尊敬の念」が起こるのは確かですが、それは逆に「知識されあれば」権威を手にできるということにもなります。 ネットの時代はそういう「知識の量で権威を手にしたいだけ」という人を「ふるい」にかけて、それ以外の部分をより明らかにできるようにもなりました。 過去の情報革命でも同じことが繰り返されてきたと思いますが、「尊敬」という感情がこの世から消えて無くなってしまわないのは、「尊敬の念」が「情報の量」だけで起こるものではないことを明確に物語っています。 ---------------- 「人とのつながり」に関しては「twitter」や「フェイスブック」が全く違う「人とのつながり」を生み出しています。 先日の震災時には良くも悪くも「twitter」が広く利用されて、過去に例のない「つながり方」が生まれました。 また、中東のチュニジアでは独裁者の弾圧の目を逃れて情報交換するために「フェイスブック」が使われ「フェイスブック革命」とも呼ばれる「ジャスミン革命(民主化運動)」が起きました。 その後、民主化運動は中東各国に広がり「アラブの春」と呼ばれる大規模な民衆運動に広がって行き現在も進行中です。 『ジャスミン革命』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%B3%E9%9D%A9%E5%91%BD 『アラブの春』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E6%98%A5 このことから分かるのは、独裁者は情報をコントロール(統制)して自分に都合の良い情報だけを流すことで「権威」を保って「尊敬の念」を持たせようとしてきけれども、そんなことでは心から尊敬されることはなかったということです。 (つづく)
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ANo.9です。 少々説教臭くなってしまいました。 申し訳ありません。 人類滅亡…うんぬんの話が言葉足らずだったなと思いましたのでまた投稿してしまいました。やはりヒマでしたらご覧下さい。 ----------- 最先端の技術が登場するとメリット以上のデメリットが生まれることへの不安が生じるのは今も昔も、そして将来も変わらないだろうな、と言いたかっただけなのですが文章が下手ですみません。。 たとえばフィルムのカメラや、アナログレコードは今や懐古趣味の代表のような存在になってしまいましたが、一般に普及し始めた100年前の世界ではともに超最先端の技術でした。ですから、それを無批判に受け入れることへの恐怖は少なからずあったろうと思います。 卑近な問題としては画家や演奏家の仕事を奪うという淘汰がありました。 しかし、一方で新たにカメラマンやレコードを売るミュージシャンも登場しました。 同じようにあらゆる分野で時代の変化とともに何かが生まれるたびに何かが消えて行くわけですが、影響を受ける当事者以外には強く意識されることはないのだろうと思います。 回答の中でiPadの話を出しましたがおそらく100年もしないうちにさらに驚きを持って受け入れられるものにその座を奪われるのだろうと思います。 とりあえずは携帯すら使いこなせない年老いた両親が「インターネット」というものを経験できたのはiPadのおかげだったとありがたく思っています。 かく言う私も若い頃は「江戸ブーム」に感化されて昔の人々に強烈な憧憬と共感を抱いていましたが、その時代をよく知るにつけ影の部分はほとんど何も知らない自分に気づいてからは熱が冷めました。単純なものです。 また、自分の人生の残り時間を意識するようになったり、友人が突然死んだりしたことで、望まなくとも自分自身が「昔の人」になっていくことを痛感してからはきちんとリアルタイムを堪能しようと思うようになりました。 それでも若い時というのは身の回りにあるのものや人がとにかく「押し付けがましく」感じるものですから人に言われて考えが変わったりはしないんですよね。 また説教臭くなってきましたのでこのへんにしておきます。
お礼
Q_A_333さん、回答ありがとうございます。 こんなに詳しく回答頂いたのは初めてです。 色々書こうと思ったのですが、本筋から外れてしまうのでやめておきます。
お礼いただきありがとうございます。 >昔の人がとんでもないと思っていたことを平気でやってしまう今の人 江戸時代の人に新幹線や飛行機に乗れといってもおびえて乗らないかもしれませんね。 >それによって悪くなることが必ずあると。失われることがあると。 (時の流れで、誰に知られることも無く消えていったものもあるのではないでしょうか?) 星の数ほどあるでしょうね。 >良い時代なんでしょうかね?実感はありません。 もったいないですね。 病気になってはじめて健康のありがたみが分かるようなものでしょうか? 「生きる」という単純なこと一つとっても「赤子がほとんど死なない」ことなど昔の人には考えられませんでした。 『乳幼児死亡率』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E5%B9%BC%E5%85%90%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E7%8E%87
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
詳しいことは忘れましたが、江戸時代の下着を 調べようと思って、図書館に何ヶ月も通ったこと がありました。 今ならネットで一発ですね。 それから、株をやっていまして、有望会社を探すのにも 図書館でした。 大変でしたが、苦労しただけあって、まだ記憶に残っています。 ネットだと、直ぐに忘れてしまいます。 人間、何かを得ると、何かを失うんですね。 人間は文字を発明したお陰で、記憶力が減退した と言われています。 無文字時代は、詩や歌で後生に伝えたのですが、 文字の出現で、そういう素晴らしい風習も途絶えました。 学校や専門家の登場で、年寄りの必要性が薄くなりました。 親の権威も無くなりました。 ネットの登場で何を失うのでしょうか。 某書道家は、日本語は象形文字である。象形文字は、基本は 絵なのだから、自らの手で書くことが必要だ。 キーボードを使ったりしたら、日本語が変質してしまう と述べています。 どう変質するか解りませんが、百年ぐらいたって、後ろを 振り返ったから、ああそうだったのか、と解るかも しれません。 ネットは私たちから何を奪うのでしょうか。
お礼
hekiyuさん、回答ありがとうございます。 私の言いたかったことが、hekiyuさんの回答の中に含まれていました! たとえば、音楽業界でいうと、音声を加工して綺麗な声にしてからCDに保存しています。 カメラでいうと、撮った写真を美人に補正しています。 これって良いの?って思います。 楽曲や写真、映像などあらゆることが”コンテンツ”として消費されている現代。 お、おそろしや・・・。
(つづき) >また、そういった変化が起きていることに多くの人々(若い人)は気づけないと思います。(世代を重ねることで変化に気づけないということが恐ろしい) 変化はいつでも気が付きにくいものです。 覚えているのは革新的な出来事だけです。 PC・ネットで言えば、80年代の「マッキントッシュ」や90年代の「Windows95」の登場、そして2000年代の「ADSL」によるブロードバンド時代への突入など、節目になる出来事と出来事の間も進化は確実にしているのに、それが少しずつなので「いつの間にか」「当たり前に」「パソコンで動画が見られるようになっている」わけです。 これもまた過去に同じようなことが度々繰り返されきたので、別に恐ろしことでもなんでもありません。 いつか人類が滅亡するようなことがあるとしても、それまでずっと同じようなことが起こって、同じように心配する人がいるのだと思います。 私はといえばiPadの登場で、小さな子供やお年寄りが何の抵抗もなくネットやPCを楽しんでいるのを見て素直に「良い時代になったなー」と感じています。 今の若い人は良い時代に生まれてとても羨ましいです。 ※不明点、間違いなどありましたらご指摘ください。
お礼
> いつか人類が滅亡するようなことがあるとしても、それまでずっと同じようなことが起こって、同じように心配する人がいるのだと思います。 変化に気づけないと、悪い方向に進んでいても気づけません。 昔の人がとんでもないと思っていたことを平気でやってしまう今の人といった感じで・・・。 恐ろしいとはそういう意味です^^ 私はいつも、メリットよりデメリットを考えてしまいます。新しい物が出てきて便利になるということは、それによって悪くなることが必ずあると。失われることがあると。 (時の流れで、誰に知られることも無く消えていったものもあるのではないでしょうか?) > 今の若い人は良い時代に生まれてとても羨ましいです。 良い時代なんでしょうかね?実感はありません。
- 藻黒 知恵蔵(@ameru1999)
- ベストアンサー率28% (624/2203)
ネットが普及する前は、辞書、百科事典など 調べるのが面白かったけど・・・ ただネットの情報も微妙なものも多くあるような気がします。 >人とのつながりが減ったり、知識を持っている人(年長者)に 対する敬いの気持ちは薄れてしまうのではないかと心配です。 ネットが普及する前に崩壊しています。 核家族、与論、世論、モラルも崩壊しています。 ちなみに情報操作されているのはネット以外にもありますので・・・ ちなみに情報を正しく認知するのが知識かなと思います。 ただここのサイトも自分で調べりゃ分かりそうなものをっていう質問が多くあるので 調べ方が下手になっていく感じもありますね 若い人とか区別も・・・分別がある人ない人は年に関係ない気がします。
お礼
ameru1999さん、回答ありがとうございます。 今は「●●を知ってるなんて通だね、あんた!」という会話ができないと思います。 ちょっとネットで調べれば何とでもなるので。
- samotorakeno
- ベストアンサー率45% (85/186)
ネットがない時代は本や新聞、TV、ラジオといったものに頼っていました それもない時代はクチコミや立札といったものがありました ただ「知識」と「情報」は密接な関係であり 私たちはしばしば、それを混同しがちです ネットは情報の選択肢を格段に増やしてくれましたが そもそも「情報」は流動的で新しい、古いでも変化したりしますよね そして「情報」は操作されます 「情報」から得た「知識」は正しいのか、間違っているのか それを判断するむずかしさは今も昔も変わりません 年長者=知識がある人ではなく、経験値がある人であって その経験値は全てに通用するものではなく、その方の人格によっては 害をなす場合があります 戦前の教育では年長者の言うことは唯々諾々と従うべきであり たとえ正しくとも、反論など許されませんでした その結果が開戦であり、敗戦です ネットのおかげで縁もゆかりもない方と、こうして意見を交換できるようになりました 20代の方がこんな風に考えている、と知るのは面白いですね 人間関係が希薄になったのではなく、いままでとは違う繋がりが増えたのだと思いますよ 「知識」の価値というより「情報」の価値が変わってきているのでしょう
お礼
samotorakenoさん、回答ありがとうございます。 学生がネットで世界中のことを調べて、行った事も無いのに何もかも知っているように話しているのを聞いたことが本質問を投稿した一つの要因だったりします。
- t78abyrf9c
- ベストアンサー率47% (3029/6402)
「1960年に放送していたテレビ番組が知りたい」 上記の様な事を調べるのは然程苦労した覚えがないのですが、実際にその番組を見聞きしようと思ったら、以前は非常に苦労しました。 ネットが無い時代は、当時の先端メディア(テレビ、ラジオ、書籍も含まれます)がネットの肩代わりを担ってましたので、私自身は以前と今を比べても劇的な変化を感じてません。 ですが、ネットは「時間」と「エリア」の問題を(大方)開放してくれたので、その影響が多大だと思ってます。 当時は、リアルタイムで放送されていた番組でも、居住エリア外であれば見聞き出来る手段が殆どありませんでした。 あったとしても、高額な手段しか無かったです。 それが、ネットの登場で一気にエリア外や新旧の番組が(ある程度)気軽に見聞き出来る様になりました。 私自身、以前に比べますと人との繋がりが減ってますが、それはネットの普及とは無関係です。 また、自分より下の世代と接しても、敬いの気持ちが薄れているという印象は余り持ってません。 その辺は、個々人の程度問題であって、世代で括れる話ではないというのが実感です。 寧ろ、私としては、昔を知らない世代が新しいユニークな発想で世の中を変えてくれるのを期待したいです。 後半は、質問の趣旨から外れたかも知れませんが、お許し下さい。
お礼
t78abyrf9cさん、回答ありがとうございます。 旅行に行った時、観たこと無い番組がやっていたりしました。 個性があって面白いと思います。
- tourisuga
- ベストアンサー率24% (62/255)
例えば学問的知識で言うならば 基本は本を探すのがメインだったでしょうね。 それがまた大変なのが、どの本に求める内容が書いてあるのかがわからない。 調べるのに非常に時間がかかりました。 副次的には調べていた内容以外の知識も入ってはきましたけどね。
お礼
tourisugaさん、回答ありがとうございます。 本で探すとなると大変ですね。
40代後半です。 昔は新聞やTVといったメディアの力が今と比べてもずっと大きかったので、新聞社や放送局に問い合わせたほうが手っ取り早かったです。 データベースみたいなものが整備されてたみたいで、時間はかかっても信頼性のあるデータが手に入りました。 あとは、やっぱり図書館ですね。 その他、業界誌とかがずっとたくさん出てましたし、同じ趣味や知識を持つ人たちのサークル活動なんかも今よりもずっと活発だったので、そういうつてを使ったりもしました。 読者投稿欄とか文通希望欄とかがあるのも当たり前で住所とか電話番号も公開されてて、それでもトラブルになったりすることもなかったので、そういった所から人脈をひろげていって知識を得ることもありました。 のどかな時代だったのかもしれません。でも、人と人との信頼関係っていうようなものが強かったですね。 情報のスピードはゆったりしてましたけど、逆に、信頼関係があるんで質は高かったと思います。今はネットの普及で便利にはなってますけど、何か質的にとんでもないものも多いですよね。
お礼
PureEdgeさん、回答ありがとうございます。 > 読者投稿欄とか文通希望欄とかがあるのも当たり前で住所とか電話番号も公開されてて、それでもトラブルになったりすることもなかったので、そういった所から人脈をひろげていって知識を得ることもありました。 私も、作者の住所と電話番号が記載されている本を読んだことがあります。
お礼
Q_A_333さん、大変詳しい回答ありがとうございます。 今回偶然思いついた質問だったのですが、知らないだけで昔とは激変している事象がたくさんあるのでしょう。 「昔の人は・・・」とか言いますが、昔と今では感覚が全く違ったのかもしれません。 明治時代とか昭和初期の日本はどうだったんだろうと思う今日この頃です。 『たけしの本当は怖い家庭の医学』には気づけませんでした。