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中世の世の中
中世の世の中では、なぜ武士が登場したのかが わかりません....... 詳細なわかりやすい説明をお願いします。
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平安時代までの歴史を分析することで武士が登場した理由が分かります。 一つは防人の制度です。 飛鳥時代から日本は九州沿岸を新羅の海賊に度々脅かされることになります。新羅の入寇と総称される事件ですが、主なものだけでも大化の新羅の賊、弘仁の新羅の賊、弘仁の韓寇、弘仁新羅の乱、貞観の韓寇、 寛平の韓寇、延喜の新羅の賊、長徳の入寇と挙げられています。どれも侵略であって、中には海賊といって済まされない大規模な侵攻もあったのです。ところが朝廷は穏健外交方針を堅持して捕虜に対しても、帰国を望む者は帰国させて、日本への帰化を望む者は帰化も認めるという至って寛大な措置を繰り返しました。全面戦争を回避する為に、国際問題にしなかったということです。それが新羅になめられることになった。だから一時しのぎで穏便に事を解決しても、新羅人は日本を侮って、何度も襲撃を繰り返したのです。 こういった新羅の入寇に対処する為、九州の沿岸部を防衛する為に設けられた制度が防人です。防人は農民を自衛官に臨時雇いした公務員制度みたいなものです。この防人の経験で、農民たちは自分を守るのは自分しかいない。話し合いでは問題は解決できない。最後は実力がものをいうのだ。といった事を学ぶことになるのです。また土地は朝廷から与えられるものではなくて、自分の実力で手に入れるものだという自覚が生まれる。血を流すのは誰でもなく自分です。只働きは馬鹿らしいと考えるようになります。自分の武功を正当に評価せよという要求も生まれます。それが自分の権利に対する自覚なのです。 二つは人口増大で土地不足がはっきりしてきたことです。日本は奈良時代には人口は500万規模でした。人口は土地の生産力によって規定される。米の産出量がすなわち人口なのです。水田ですから灌漑設備が必要です。人口が増大すると新たな土地の開発が必要になります。容易に開発できる土地は既に開発されていますから時代が進むほど、開墾事業は困難なものになっていくのは自然な流れです。開墾事業はより複雑化・大規模化・困難化していった。そういうなかで既得権者との利害対立も起きてきます。新しい水田に水を引いたら、元からあった水田の方に水が流れなくなってしまうといったトラブルが頻発することになります。また土地の相続争いや横領といったトラブルも頻発してきます。10世紀の平将門の乱もそもそもは一族の中の土地を巡ってのトラブルなのです。当初は私戦でもあり騒擾でありましたが、必ずしも朝廷に対する反逆であったわけではない。ところが平将門は官軍と戦うハメに陥ってしまう。それには朝廷が派遣した役人が公平に問題解決に当たらなかったという背景もありました。役所の裁断に納得できない。それで平将門は私兵を集めて官軍と戦って実力で自分が納得できる結果を求めようとしたわけです。 この2つを簡単にまとめると、農民の自覚と成長が土地を巡る問題解決に朝廷の裁定を期待せず、自分の実力行使で決着をつけるという気運を生んだということです。 これが武士の誕生です。古代には朝廷が派遣した役人である国司が問題解決に当たった。ところが事態がより複雑化・大規模化・集団化するようになって国司は解決能力を失った。すなわち朝廷の統治能力が限界を示したということです。その象徴が平将門の乱だったのです。平将門は最後はあえなく討ち取られてしまった、反乱は鎮圧された。しかし、それで万事解決とはならなかった。事件が朝廷に与えた衝撃は大きく、農民に対して与えた影響も大きかった。 国司はただちに廃止されたわけではなかったが、武士の私闘で決着した問題を事後追認するだけの役目で有名無実化していったのです。国司の形骸化は、どの法令で制度化されたわけでもないし、誰が廃止したわけでもない。時代に幅がありますし、時代の進み方に地域格差もあります。東国、西国で事情が異なっていたのもあります。それでも農民が成長して政治は朝廷たのみでは駄目なのだ。自分たちが政治の主人公だという自覚を生んだのが歴史の流れです。それが武士の誕生なのです。
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- trajaa
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大地主さんが、各地に点在する広大な自分の所有地の管理を自分自身でするのは物理的に無理なので、その所有地に住む力の強い男達に日々の管理を依頼した。 その管理人が次第に独立したのが武士。