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子供の運動会での褒め方について
- 友人の子供の運動会に参加しました。子供は短距離走で1番になり、驚いたのは母親のベタ褒めでした。
- 私は簡単に褒めるというのはいかがなものかと思いました。運動神経が良い子供が1番になったことを異常に褒めることは、結果が大事という誤った認識を与えてしまいます。
- 私は努力することの方が大事だと思います。ならば練習を繰り返し結果がビリになったときでも褒めるべきです。その敗因として練習が少し足りなかったと言うことで、プロセスの重要性を知ることが大切です。
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>それでもあなたがそのように思うのはあなたが大きな努力したことがない人間だからではないですか? >それかあなたが大きな結果を出したことがないかだとふつうに私は感じました (笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑) おっかしいなぁ~ 私は、「努力していれば結果なんてどうでもいい」を「間違った認識」といったわけで、努力そのものについては間違ってるとは一切言ってませんよ? >従って結果が前提だからこそ、 から >結果の出し方として努力の方が重要なのです がおかしい。意味不明というかゆがんでる。ここをイコールで結ぶ思考回路ははっきり言って変。 まあ、 >普通に思いました >ふつうに私は感じました 自分の考えが普通だと信じてやまないあなたに伝わるか分かりませんが、もう一度だけ言いますね。 あなたの投稿した質問文は明らかに「結果を出すことより努力することが大事だ」と言っています。「努力していれば結果なんてどうでもいい」と言っています。それは大間違いだ。「結果を出せなかった努力」が「結果を出した」より上なんてことは断じてない。 どうでもいいんだけど >あなたが大きな努力したことがない人間だからではないですか? これって普通「努力なんて無駄だ」って言った人を挑発するための言い回しじゃないのかな?(笑)なんで私に向けて発せられたんだろう(笑)
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- TANUHACHI
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企業勤務と大学教育に携わる二股草鞋の立場の者です。 確かに以前の企業社会では「出し抜く」とか「機先」「勝ち組、負け組」といった比較で判断する傾向もありました。今でもごく一部にはそうした旧態依然の風潮が見られなくもありませんが、現実には減る傾向もあります。そういった発想の背景には「今あるモノ」だけで右肩上がりに商売が続くとの幻想もあります。けれども実際には「今あるモノ」だけでは永続的な仕事など到底できないでしょう。「新しいモノ」「魅力あるモノ」でなければ消費者は関心を寄せません。 企業の開発部門においては「トライ アンド エラー」の繰り返しが必然です。設計図どおりに組み立てたモノがそのまま仕様書どうりに動作するとも限らないことなど日常茶飯事です。営業畑一筋といった方々にはこの辺りの事情など全く理解出来ないでしょう。数値に表れる結果と数値に表れない結果では意味も異なります。 モノ作りの現場と人を育てる場には似た性格があります。「なぜシミュレーションどおりに動かなかったのか」「なぜ求める答と違ってしまったのか」の「なぜ~?」が大切です。そうなった原因が分からなければ対処の方法も見つける事も困難です。「結果オーライ」が通用する世界ばかりとは限りません。 むしろ短距離走で2番になった事の方に意味があると僕は思います。2番ということはもう一つの側面から見れば「まだまだ伸びる余地がある」との事にもつながります。一方「1番」は違う世界にいけば当然「ビリになる」可能性もある。狭い世界だけで満足しても意味などないでしょう。「天狗になる」ことは今の世界での成功に胡座をかき努力することの意味を忘れてしまいかねない危険性を伴います。よぼと理性的な判断のできる人物でなければつまらない自惚れに終始してしまうことがほとんどです。 陸上競技のトップアスリートが掲げる目標は常に「記録」であり、順位はそのオマケでしかありません。高いレベルで競い合っての「2番」ならば当然その選手も賞賛に値することになります。野球でも同様です。4番バッターをズラリと並べても勝率の高いチームを編成できるとは限りません。「結果はプロセスの延長線上にある」「失敗は成功の元」「急がば回れ」「百里の道は九十九里を以て半ばとすべし」との言葉もあり、結果に目を奪われる事に僕は感心しません。
- batahurai2
- ベストアンサー率12% (4/33)
普通にいい母親だと思うよ みんな競争で1番になりたいんだから、1番になった事を褒めるのが当然じゃないか。 「プロセスが結果以上に大事だったんだよ」と教えるのは子供の時期ならまだいいかもしれない でもいつか訪れる【高校受験】【就職活動】となっていくとそうも言っていられなくなる 社会に出ると、どんなに努力しても結果を出さなければ上司や世間からも認めてもらえないんだ あなたの息子がどれくらい努力したかというのは、親のあなたが分かっていても周りの 人間からすれば、それはまったく分からないし 結果だけで判断せざるおえない 親のあなた一人にどれだけ息子を認めても 周りのほとんどの人間は結局1番の人を評価したでしょ そんじゃそこらの営業マンが「結果は悪いですけど血のにじむ努力をしました」なんて言って 感心して許されると思うかい? 要するにプロセスよりも結果が大事だ! 話を聞けば幼稚園で特に練習していたわけでもないとか 家にかえって来てから練習していたわけでもないというプライベートな情報まで 誰から聞いたのかは知らないけど もともと運動神経がいいほうだから、たまたま1番になったという ひねくれた考え方はやめたほうがいい
お礼
ありがとうございます。 なぜ人は努力をするのでしょうか? 無論結果のためです あなたの意見は正しいと思います あくまでも大人の世界では結果に対して評価をします 大した努力なく評価される人もいるでしょう 受験にむけて勉強(努力)をしないでいわゆる有名大学に合格する人もいるでしょう 確かに私は勉強(努力)をするから合格することができるというひねくれた考えの持ち主です 勉強(努力)をしたのに不合格、そして浪人しても勉強(努力)をするから合格することができるというひねくれようです きっとこの質疑をみられた他の方がみてもそう思うでしょう(笑)
- dadatamame
- ベストアンサー率16% (25/148)
親っていうのはね、こんなもんなの(笑)。 これが世間でいうところの「親バカ」っていうヤツです。 幼稚園児のレベルじゃまだまだこんなもん。 お母さん、嬉しかったんだねぇ。 理屈じゃないんだわ。 納得出来ないかも知れませんが、このように思います。
お礼
すいません 補足のほうにお礼してしまいました ありがとうございました
補足
ありがとうございます。 「親馬鹿」ですね つまり馬鹿?(笑) 誰が親馬鹿なんて言葉考えたんでしょうかね ずいぶんと皮肉った言い方だけど(笑) 私はそんな馬鹿にはなりたくないですけどね 嬉しく思わない親の方が少ないんじゃない?そりゃ理屈じゃないと思いますよ? 考えたことないんでよく分かりませんが(笑) 納得もなにも理解を求められたわけでもないですけど だいたい見てればどんな頭の思考をしてるかは察しがつきますが(笑) その辺にいっぱいいる親馬鹿ってやつなんじゃないんですか?
- meg68k
- ベストアンサー率33% (1133/3386)
こんにちは。 意見の1つとして。 確かに過程を考えた上で結果をほめなきゃ、教育として「褒める」と いうことの意味が無いと思います。 ただ、教育以外なら、例えば、親がきちんと子供を愛していると意思 表現だったら当然ありだと思いますし(じゃないと練習を見ていない お祖母ちゃんが子供を褒める事の意味がなくなってしまいます)、他 に何か事情があったのかもしれません。他人の家庭を非難するほどの 事だったのかなと思って見ました。 このレベルなら、うちはうち、で良いんじゃないでしょうか。 応援者の多くが引くほど褒めてたなら、それはどうよと思いますが。
お礼
ありがとうございます。 私も愛情表現として褒めることはいいことだと思います。 非難するほどの意味は私にはありません。 他人の家庭を非難したところで私自身の子供になんら影響はでません 他人の子供だからどーでもいーです 非難するならその家庭の人間に非難しますし、 ここでその家族の名前を晒します (ここの管理者が非難、誹謗中傷しとが削除されると思いますが) でも非難してないので問題ないでしょう
- ・真 綾・(@Ma-yan_bh1011)
- ベストアンサー率30% (79/257)
そんなの人によるでしょうよ… ただ、 >私は努力することの方がよっぽど大事だと思います は「間違った認識」です。 「結果が出せなくても努力を評価する」と「結果なんか出せなくていいから努力したら評価する」の間には越えられない溝があります。 「何よりもまず結果が1番大事」かどうかは個人の価値観ですが、少なくとも結果を出すことが前提であり、それとは別に努力は努力として評価されるべきものです。 >もともと運動神経がいいほうでした 才能のある子が才能を発揮して結果を出した。それが高く評価された。これは、 >私なら練習を繰り返し結果ビリになったときでもベタ褒めすると思います なんて、「努力していれば結果なんてどうでもいい」という発想なんかよりよっぽど「正しい」です。 >そしてビリになった敗因として練習が少し足りなかったねと言うだけです >その意味はそれまでのプロセスが結果以上に大事だったんだよと知ってもらうためです 「結果が出せなくても努力していればいいんだ」なんていう「間違った認識」を子供に与えるくらいなら、正しいと断言できなくても「何よりもまず結果が1番大事」のほうがずっとマシ。
お礼
ありがとうございます。 あえていいませんでしたが 大成功してる人は努力をしています 競争社会では努力してるものに努力してないモノはあっという間に追い抜かれてしまいます 従って結果が前提だからこそ、結果の出し方として努力の方が重要なのです それでもあなたがそのように思うのはあなたが大きな努力したことがない人間だからではないですか? それかあなたが大きな結果を出したことがないかだとふつうに私は感じました 少なくとも断言できるのは大きな成果をおさもた人間なら絶対に努力を「間違った認識」なんていわないはずです。
お礼
まず、真剣にご回答くださいましてお礼の言葉を申し上げます。 ありがとうございました。 全く同感いたしました。 無論、愛情表現と教育は全く別物だと思います。 私は親が子供に対して教育するというのはとても難しいというか、そのシーンとシーンで感情(愛情)と教育を器用にコントロールすることは重要だと思います。 感情のままに叱る、褒めるは間違った情報を与えてしまう恐れがあると思います。 感情のままに叱る、褒めるでは実は教育の概念はそこに無く、叱った後になぜ叱られたという説明がない、褒めた後にもなぜ褒められたかという説明がないでは子供は勘違いすことがあると思います。 例えば、なぜガラスを割ってしまったら怒りたくなる(叱りたくなる)のは感情です。 実はガラスを割ってしまったという結果はそれほど重要ではなく、ガラスをなぜ割ってしまったのか、ガラスの破片が危ないという説明の方が重要だと思います。 褒める(教える)ときも同じだと思います。 子供が1番になったという結果で嬉しくなり、ビリになったら嬉しくないというのは親の感情で、 褒める(教える)とは違うと思います。 子供がは1番になったから喜んでもらえた、喜んでもらうために1番になるではきっかけとしてはいいでしょうが、 子供のためならない思います。 喜んでもらうためにまた1番になる…しかし次は2番だったら…喜んでもらうならなんでもいいのでじゃあもっと簡単な種目で1番になろう、テストでいい点とった時だけ、得意な科目のテスト結果だけ親に見せように…という発想のもとになりかねないと思います。 結果の重要性というのは誰も教えなくても自ずと理解するでしょう そのプロセスとして努力するということが重要であると思います。 努力無しに1番になったものと努力して2番になったもの差は火を見るより明らかでしょう。