技術の発展と神への挑戦
抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。
私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。
バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。
http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm
技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。
・宗教上の理由から抵抗はあったのか
・それともなかったのか
・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか
などなど・・・。
ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。
上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。
逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。
こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。
また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。
宜しくお願い致します。
お礼
回答いただきありがとうございます。 ニュートリノ実験の追試が実に楽しみですね。