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遠江の国池田宿の“熊野”(ゆや)について
「池田の宿の“熊野”」として同じ名前で、源義朝の女、平宗盛(謡曲)の愛人、平重衡の愛人として記述されますが、この女性が同一人物とは思われませんし、同名の二人なのか三人なのかもはっきりせず、是非知りたいと思います。 一説に、池田の庄の長・藤原重徳が紀州熊野権現に詣でて授かったため“熊野”と名付けたともありますが・・・。
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源義朝の女 源範頼の母で池田宿(磐田市)の遊女 養父:藤原範季で別人 平宗盛(謡曲)の愛人と平重衡に歌を送った人は同一人物です(ただし平重衡の愛人ではありません)。 熊野(ゆや)御前 熊野(ゆや)御前は、平安時代末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、 教養豊かな美しい女性で、和歌の道にも通じ、親孝行あったことから、当時の人々に 「女性の手本」とされていました。当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、 大変寵愛されていました。平家物語や謡曲などで広く知られています。 「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」という、熊野が詠んだ 一首に心を動かし、病気の母を思う熊野に帰郷を許したということです。やがて郷里池田で 宗盛の死を知った熊野は尼になり、33歳の若さで生涯を閉じました。 行興寺の境内には、熊野が愛した藤の花が植えられ、春には「池田・熊野の長藤まつり」 で賑わいます。 朗読 平家物語> 重衡と維盛 >海道下 http://roudoku-heike.seesaa.net/article/69897083.html あらすじ 本三位中将重衡(ほんさんみのちゅうじょう しげひら)は、 一の谷で生捕りになりました(「重衡生捕」)。 梶原平三景時(かじわらへいざ かげとき)の護送で、京都から鎌倉へ送られていきます。 四之宮河原を過ぎ、東海道沿いの名所を通りながら池田の宿に入るころには日も暮れていました。 重衡は、宿の長者、熊野(ゆや)の娘から歌を送られます。 旅の空 埴生の小屋のいぶせさに ふるさといかに 恋しかるらん (こんなみすぼらしいあばら屋に泊まる貴方は、どんなにか故郷が恋しいことでしょう) 重衡の返し ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もついの すみかならねば (旅の身である以上、寂しいとは感じません。都もいつまでも住める安住の地ではないのですし) 娘の優雅さに感心する重衡に、景時は彼女の逸話を語ります。 大臣殿(おおいとの。宗盛)がこの国の守として赴任した時、彼女を見初めて京へ連れ帰りました。 ある時彼女の母親が病気になったが大臣殿は故郷に帰してくれません。そこで、 いかにせむ みやこの春もおしけれど なれしあづまの花や散るらむ (都で花見もいいですが、田舎に残してきた母が心配です) という歌を詠み、帰省を許された…と。 また東海道を登る道すがら、重衡は甲斐の白根を見て、詠みます。 おしからぬ 命なれども きょうまでぞ つれなきかいの しらねをもみつ (惜しい命ではないが、今日まで恥知らずにも生きてきたかいがあって、 今まで見る機会に恵まれなかった甲斐の白根を見ることができたよ) そうこうして、鎌倉へ到着するのでした。