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寺山修司さんの

みなさんこんにちは。 寺山修司さんの詞なんですが、原文を避けますけれども、 「マッチをする、海には霧が深く立ちこめている、身を捨てるほどのふるさとというのはあるのだろうか」 という内容の詞があると思いますが、これの解釈がいまひとつしっくりこなくて気になっています。どういうことを言おうとしているのでしょうか?皆さんの解釈をお聞かせ下さい。

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  • imt52
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回答No.2

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。 思春期から青年期に移行する頃だったと思います。 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし  身捨つるほどの 祖国はありや」 これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。 現代語での解釈はNo.1さんのおっしゃっている通りだと思います。 ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、 解釈は確かに難しいものなのかもしれません。 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」 作者の寺山修司には、 くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあります。 きっと霧のかかる海を眺めながら、一服をしようとしたのでしょう。 孤独と不安を感じ、自分が何者かを確かめたい欲求は、 青年期には誰もが、ふとどこかで立ち止まった時、 少なからず体験しているのではないでしょうか。 そこで突然湧き上がった思いが 「身捨つるほどの 祖国はありや」 という表現になったのだと思います。 身を捨てるほどの情熱を傾けるものよ、現れてくれ・・! という彼の心の叫びだと、若い私は思っていました。 今でも、ボランティアを志願する多くの若者の尊い気持ちは、 これに近いのかもしれません。 ずっと私は、この時寺山は煙草を吸いながら涙を流していたのだ、 という情景を思い浮かべていましたが、10年ほど経った今は、 彼は静かに、ただ海を見つめていたのかもしれない、と思います。 寺山がどう思って作ったのかということより、 この珠玉の言葉が私の中で、私と共に変わっていくことを感じます。 彼の言葉がオーケストラとすれば、私はただの客ですから、 これでいいと思っています・・答えにならないですね(笑) 仕事に忙殺され、豊かな心をきっとすり減らしている今の私は、 思いがけずこの歌に出会えたことが何よりうれしく、 もうすぐ今夜も徹夜になりそうな、嫌な気分が晴れてきました。 ヘンかもしれませんが、お礼を言いたい気持ちです。 ありがとうございました。

noname#17364
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。私も昨晩はほぼ徹夜仕事でした。体を大事に頑張りましょう。 私は今自分の仕事で壁にぶち当たっているのですが、気が付くとなにとはなしに、この詩を何度も反芻していることがあります。自分の中でどういう意味があるのかも分かりませんが、何か妙に気になると同時に不思議な平静をもたらします。 私は、自分を縛り付けるものなど無いんだから、とにかく進んでいこう、という意味だと思っています。ある意味では決意、また一方で諦観に似た感情を感じています。 人によって、また精神状態によっても受け取り方が違うのがこの詩なのかもしれませんね。珠玉の言葉、わたしもそうだと思います。無から紡ぎ出された文学の偉大ささえ感じます。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

解釈がしっくりこなくて当然なのです。内容的には大した意味はありませんし、どう解釈するかは読み手の問題でしかありません。 この短歌は上句が客観、下句が主観という構成になっていて、それをくっつけた形になっています。上句と下句のずれ。それを最後の「ありや」で作者の顔がニュッと出てくる形にしたという展開の面白さを味わえばいいのではないでしょうか。

noname#17364
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 構成のアンバランスさと不安定感、そこに私もトラップされ、妙に気になっているのだと思います。 確かに解釈は二の次というか、それぞれが感じればいいことですね。私は他の皆さんがこの詩からどのようなことを感じ取っているのかが気になっていましたので、大変参考になります。 ありがとうございました。

  • honnori
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回答No.1

 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」 こういう短歌でした。寺山修司さんは詩人で劇作家でもあって、短歌も若い感性でみずみずしさがあふれていて、それでいて愉鬱桜佐を表現する徳治の世界をもっていた人です。1960年代のカリスマと言いいいのでは。でも若くしてなくなられたので、これからさらなる活躍が期待されていたのに残念です。  ではこの短歌を素直に解釈してみると・・・  <マッチを擦ったその瞬間、海には深い霧が立ちこめていたことに気づく。命を投げ出すほどの祖国というものが自分にはなるのだろうか。>  こう書いてみると前半部と後半部とのつながりがあまりないように思えてくる。作者はあらためてこの国に目を向けてみると、自分はこの国に命を捧げるかどうかと聞かれたらないと答えるかな?自分にはそういう祖国がない気がするという感じかと思っていた。  調べてみて意外なことがわかってきました。 「寺山修司は青森の国民学校の3年生のとき、天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送を聞いた。そのときのことを、「つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた」(『作家の自伝』/A新聞)とあり、 「「身捨つるほどの祖国はありや」と謳った彼は、終戦がなければ、いつかは自分も戦場に出向かなければならない、その意味はあるのだろうか、と自分に問いかけていたのだろう。」 次のホームページの中にありました。http://www.mypress.jp/v2_writers/kanon77/?all=yes 子ども頃に終戦を迎えた作者の戦争に対する考え方が述べられていると考えられますね。ここで次のような話が出てきました。寺山さんはこの短歌を盗作したと考えられているのです。確かに本歌を利用した短歌が多いようです。 「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」 修司 「一本のマッチをすれば海は霧」 富沢赤黄男 もとは俳句だったのですね。それに「身捨つるほどの祖国はありや」をくっつけてきたと言うことになります。  無理矢理つけたと言うことでしょうか。彼は戦後日本がアメリカに流されていく姿を見て安保闘争に参加こそしなかったが、日本の現状に疑問を感じ、あるべき姿はどうなのかを自問自答していたのであろう。そして「この国命をかける価値があるのか、いやないといえよう」と感じ詠んだのであろうという見方もできるということがわかりました。「霧」は日本の将来への不安をあらわしていたのでしょうか。  ともかくも、夕暮れ時の海を前にマッチをする。霧に包まれている。と言うシーンは目に浮かぶ。美しいもはかないたんかと言えよう。  解釈するのは難しいですね。 http://www.wombat.zaq.ne.jp/sugane/frame/nichi12.html

参考URL:
http://www.wombat.zaq.ne.jp/sugane/frame/nichi12.html
noname#17364
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は詩の詠まれた背景などを知りませんでしたので、勉強になりました。また違った解釈の仕方があると感じました。 わたしは、「自分を縛り付けておかなければならないほどの郷里なんて無いのだから、我が道を進もう」という意味なのかなと思っていました。なるほど、戦争という背景を重ねると、違った見え方がしてきます。 ともあれ、構成のアンバランスとそこに漂う不安感のようなものがこの詩の魅力なのかなと感じています。 ありがとうございました。