花押を据えるという行為
花押を据えるという行為はどの程度の労力と時間を要する行為なのでしょうか。
山室恭子さんの『中世のなかに生まれた近世』を読んで上記の疑問が湧きました。
自らの筆運びで花押を据えるという行為に比べて印判で済ませるのが薄礼であり、当主個人の人格を感じさせない印判状が事務的な文書の大量発給により適合的であるという論理はよく分かるのですが、前掲書の中で、印判状の導入によって文書の大量発給の“物理的条件”が整ったかのような書き方をされていたのが気になったのです。
素人目には、花押(それも書き慣れた自分の花押)を据えるという行為が、印判を押すという行為に比べて大量発給の妨げになる程労力や時間のかかる行為とは思えないのです。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教示頂ければ幸いです。
もしくは、前掲書に対する私の理解が誤っているようでしたらご指摘下さい。
お礼
有難うございました。