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あまりに正しすぎることとは

  問う人: この世界で最も正しいこととは何か 「人の道」: それはこの宇宙である。 この宇宙は存在する。 これは絶対的に正しい。 あまりに正しすぎる。 宇宙はただ存在するのではない、絶対的に存在する。 宇宙は絶対的に存在するとは、時空間の如何なる点においても常に存在するとゆーこと。 これはつまり宇宙は無限であることを意味する。 宇宙は無限である、これもまたあまりに正しすぎる。 問う人: あまりに正しすぎることとは、宇宙は存在し、無限であるゆーこと。 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

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回答No.2

 人の道さん、『子貢問 師與商也孰賢乎 子曰 師也過 商也不及 曰 然則師愈與 子曰 過猶不及也】(過ぎたるは猶お及ばざるがごとし)というように、【あまりに正しすぎる】ことは正しくないことですね。  正しい事は正しい。それだけでしょう。  もっとも基本的なものはもっとも普通であり、根底ですね。それはもっともありふれているが故に人は少しも意識できず気がつきません。  それは正しすぎるのでなく、単に正しい。だから判らない。何の説明も修飾も、宣伝も、いいわけも論理もない。それは正しすぎるのではなく、単に正しい。   問う人:この世界で最も正しいこととは何か  上に述べたように一切の根底になっている最も普通のもの、万人、森羅万象、万物の本質でしょう。  臨済宗の古い偈:白馬(日本流やインドふうにあおばと読まないで)入蘆花  下村湖人:白鳥入蘆花  豊葦原瑞穂のまぁ蘆花ばっかりのところにすっと同じ白鳥が舞い降りて中に入ったら判らんですよ。実際。  湖人も肥前の豊葦原瑞穂の地であられたようですが、私は江戸湾、将軍家のお狩場の湿地帯で、お江戸の開拓で私の小学校時代、つまり1945年の前後の荒川や綾瀬川の河川敷は豊葦原でした。  荒川の河川敷は大きなビルがいくらも入るような広さで、北区の先から江戸湾まで続いているんです。  その河川敷には密林のように鬱蒼と葦や蒲が繁り、大きな池や沼がいくつもあり、一旦そこで迷ったら出られない。あらゆる鳥たちの世界です。いろんな生物が居るんです。  そこが真理の根源であり、そこに白鳥化したかのように人の意識と生き方が、あり方がすっと入る。  そういう風にこの世の中を真理と根底として生きていくというのが臨済宗の先の偈であり、湖人の歌です。  こういうのはつまり単に正しいのであり、もっともも糞もありません。そうでしかに。  あぁ宇宙ですか、それは意識が構成し紡いでいるだけですから、意識が無限であるだけの無限性という見え方でしかないでしょう。これはヒンドゥ的神の創造の仕方なんですね。  創造はsimulacraみたいに神がそこに自己を見るという、投射、写しですから、意識の一部を創造意識にした神の見ている映像でしかありません。  まぁその中の一客体存在の人間は無限に見えるでしょうね。

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回答No.1

「正しすぎること」とは、『正しすぎる』などとは思わないことだ。 不確定性原理により対象において、不完全性定理により認識 において、それは幻想でしかないことが明らかとなっている。 世界とは疑問自身であり、存在とは不明自体に過ぎない。