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「悔いはない」という概念
オリンピックで金メダルを取ることを目標としていた選手が、惜しくも破れ銅メダルを手にした後、インタビューで 「やり切ったので、悔いはありません。」 ワールドカップでベスト4を目標としていたチームが、決勝トーナメント1回戦で破れ、ベスト8に終わり、帰国後のインタビューで 「悔いはありません。」 「悔いの残らぬように」とは、いぶかしい概念ではないでしょうか。 彼ら、彼女らは悔しくないのでしょうか。 人間、敗北すれば悔しさや無念さがこみ上げてきます。 まして彼ら、彼女らはスポーツ選手です。 自分が命を懸けていることで、自分の目標が達成できなかったとき、「悔いはない」という発言が出てくるということが、私には理解しがたいです。 「悔いはない」というフレーズが、敗北した際の、決まり文句のひとつになっているのかな?と思います。 はっきりと「悔しいです。」と言うべきではないのかな?と思うのですが・・・ 「悔いはない」という人は、どういった気持ちでその発言をしているのでしょうか。 お手数ですが、意見いただけたら嬉しいです。
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- littlekids
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後悔と未練とは違うでしょう。
- bari_saku
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いい回答がたくさん出ていますので、蛇足にしかならないかもしれませんが、かのイチローも 「僕はいつも一生懸命プレーしていますが、今日はよい結果が出なかった。でも、だからといって後悔もしていないし、恥ずかしいとも思っていません。 なぜなら、できる限りの努力をしたからです」 と言っております。
- TANUHACHI
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質問内容を読んでいるうちにブロードウェイ・ミュージカルの一つ『A Chorus Line』の光景を思い出しました。主役の後ろ側で主役を際立たせるために踊る「その他多勢」のダンサーを選考するオーディションの物語です。ドラマの終盤で歌われる「What I did for Love」は「愛した日々に悔いはない」との邦訳が付されています。 プログラムにはたった一行、配役名と自分の名前が記されているだけかもしれないけれど、ショービジネスの世界に生きることに憧れて自らの人生の全てをなげうち一心不乱に努力してきた。今回のオーディションでは残念な結果にはなったものの私はこの結果を真正面から受け止める覚悟ができている。なぜならば「自分の持てる最高のパフォーマンス」をこの場で示すことができたのだから。として「次のチャンス」を求めるため、既に準備も覚悟も出来ていることを「評価する側」と「自ら」の双方に示し、そうすることで更なる高みへとチャレンジする意思表示をしている。 もしアスリートやチャレンジャーに対して「あなたがこの世界で目指すモノは何?」と尋ねるならば、「その世界での頂点に立つこと」と答える人もいれば、「この世界の中に自らを置くことで自分にできる最高のパフォーマンスを見せることが出来ればそれで満足」という答え方をする人もいる。 質問者様は「何が何でも一番でなければ意味はない」と考えているかもしれないが、それは「海鼠を歴史上で最初に食べた人と天体望遠鏡を発明した人物ではどちらが“偉いか”」との取るに足らない問題に等しいと僕は思う。昨年のノーベル賞でIPS細胞による再生医療への応用で日本の学者とそのグループによる受賞が有力視されていたけれど、当の本人は未だ研究途上の内容であることとそれが盤石な成果ではないことなどの点から世間の噂など何処吹く風、の冷静な立場を貫いていたことを憶えているだろうか。 ラグビーには「ノー・サイド」の言葉もある。試合が終わったらフィールド上の両チームのフィフティーンそれを支えてきた二本目・三本目と呼ばれる選手達そしてジャッジや観客、更には運営に当たって会場の整備や広報など競技を支えてくれたスタッフ全員に対しての「感謝と敬意」を示す言葉でもある。 単に評論家的な立場の視線で見るよりも、自らがその舞台に立ってみることが必要だと思う、「あなたには果たしてアスリート達と同じ結果を残す自信と自負があるのか」と自問自答していただきながら。
- hekiyu
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#1 さんの指摘がズバリだと思います。 自分の極限まで頑張った人でないと、そういう ことはなかなか理解できないでしょう。
- resistance400
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テレビのインタビューでスポーツ選手は競技の前にやけに、自分らしく。という言葉を連呼していました。 おそらく、自分らしくが敗北したときの慰めや言い訳になります。自分らしくできたからそれでいい…と。 私心を捨てる。とか無我の境地。とかの逆なのが面白いです。
お二方に全て言い尽くされてしまっている感なので、補足的に。 高野進によれば、トラック競技の競技者としてのピークは30歳だとか。肉体の力だけなら20代前半で終わりなんだそうです。でも技術にはその先がある。30まで体を維持し育て続け、技術を磨くのには、「人格が要る」と高野は言います。 人格と言って思い起こすのが、カズ。彼の人格はサッカーへの愛情と感謝だけで練り上げられているんでしょう。行動だけが、心を証明する。誰よりも深い、サッカーへの愛情と感謝。 これが「悔いはない」に至るプロセスです。 ご質問は、完全にアスリートの魂を見誤ってますね。 さらに日本文化の精髄をご紹介しておきましょう。 それは「全身全霊の一刀」というものです。 真剣で対峙をした場合、一刀は生死を分けるものです。この一刀をどのような一刀にするのか、それが武士道の本質です。 その場限りの力みで、その一刀をはしらせるのか? 違います。 日々の稽古の全てが、その一刀、生死を分かつその一刀に乗るのです。 稽古から「全身全霊の一刀でなければ意味がない」のであり、一挙手一投足が全身全霊でなければ、そのような一刀にはなりえず、 一挙手一投足は生活の全てで磨かれるものです。 こうして磨き上げられた「全身全霊の一刀」でも敗れる時は必ずあり、敗れるときは死ぬ時です。 その死に際に 「悔しい」 と思うようなら そこまでの人生だったと言うことです。 「悔いはない」 そんな人生を歩みたいものですね。
- kusa-mura
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スポーツは相手との勝負だけではないでしょう。楽をしたいという自分との戦いでもあるのだと思います。推測すれば、――やれるだけのことはやった、しかし負けてしまった。ライバルの方が、才能があったということかもしれない。しかし、自分は自分の持てる才能を最大限に引き出したと思う。勝負には負けたが、自分自身の戦いで負けはしなかった。これで負けたというのなら、諦めがつくというものだ。と、いうことなのかなと思います。 悔しいと思うのは、まだやれるからだと思うからで、悔いがないと思うのは、もう自分の限界が見えているという諦めがあるからだと僕は解釈しています。諦めが格好悪いと思う向きもあるかもしれませんが、自分の限界が分かるのも、大人にとって大切なことだと思います。誰もが最高のポテンシャリティをもっているとは限りません。自分の限界の中で最大限やれたと思えば、たとえ一位でなくても、胸を張ってもいいように思うのです。 一言でまとめると、相対評価ではなく、絶対評価で自分自身を図っているのだろうと僕は思います。しかし、自分のポテンシャリティを見極め、絶対評価するというのは、一切の甘えがなく自分を客観的に捉えるということですから、そうそう普通の人ができることではないと思えます。
お礼
なるほど、相対評価ではなく、絶対評価で自身を図っている。確かにそうですね。 限界を突破するほど努力しないと、この感覚は分からないでしょうね。 ありがとうごぁいました。
- cyototu
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人事を尽くして天命を待つ。 人事を尽くしたことのない未熟な輩にはこの基本が理解出来ないのでしょうね。だから、理屈を言う。貴方も、人事を尽くした経験をお持ちになってから、そして目から鱗が落ちてから、改めて、もう一度この問題に返って来て下さいね。そして、幸せになるとはどう言うことかを、その経験をしてから解るようになれることを、お祈り致します。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、やはり私のような若造には分からない、人事を尽くしたものだけが立ち入ることの許される領域というものがあるのですね。 とても参考になりました。
お礼
なるほど。 かなり興味深いご意見です。 「悔いはない」 そのためには絶え間ない努力と気力が必要になってくるのですね。私はまだまだ未熟者です。 回答ありがとうございました。