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進化の過程で苦しまずに死ねる機能の理由と重要性
- 進化の過程で苦しみを感じずに死ねる機能を持つ生物の理由や重要性について考えてみました。
- 生物が進化の過程で苦しみを感じずに死ねる機能を手に入れた理由やその重要性について探求してみました。
- 進化の中で生物が苦しまずに死ねる機能を獲得した経緯やその意義について考えてみました。
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mrsamamaです。 いつも、大変ごていねいなお礼をありがとうございます。 これはもはや回答ではないので、読み流してください。 お礼もお気遣いいただきませんように。 HPを見てくださったとのことなので、 これから先、ご縁があればメールも使えるでしょう。 あなたのお礼のトーンが微妙に変わったように感じました。 ヨロイが一枚、薄着になった感じがして… どちらが、という並べ方にあまり価値はありませんが、 私の方が教えていただくことが多いと思っていましたし、 それがトーンに出てきた感じがして、 あ、なんか関係がおさまりよく落ち着いた?みたいな印象。 オピオイドってのは、まったくよくわからないです。 でも、大学の臨床医などは「末期がんにはモルヒネが効かないんだよ」と よく言っています。 (「だから鍼」って、本当、ゴーマンだよあんたたちは、と思うけど。 実際、彼らはどこまでも「ねじ伏せる発想」の医療ですよね)。 もうひとつ、内因性に対して外来物質になるんだろうけど、 アヘン類は幻覚が違って、不快なネタなんだそうですよ(出所曖昧情報だけど)。 内因性ってことは、コントロールタワーである脳が 準備の上、承認の上の、いわば「末期対応チーム」の1パーツですよね。 でも、外来物質として投与されたものは、脳の予定外。 受容体も化学物質も同じで作用が変わってしまうとしたら、 臨死体験(の幸福感)の本質は脳が作り出すものであって、 オピオイドは仕事をやりやすくする導入剤に過ぎないんでしょうね…。 心(脳)の準備がないところにアヘンを入れても、 心の不安を反映した、いやなネタの幻覚になってしまう、ということかな。 こういう話は、私が「見たもの」を見たまま評価するから出てくるので、 ある意味、いーかげんです。 ただ、論理的にウラを取ろうとすると、 一気に情報が増えて、しかもバイアスがかかり、枠組みが狭まる。 ウラが取れればそれに越したことはないけど、 本質は直感で見た方がやりやすいんです、もちろん大間違いもするけど。 傲慢という言葉が、お礼の中に何度も出てきて(私が書いたせいもあるけど) 私もかなり傲慢です。人を蔑むし、見下したりもするし。 ただ、自分が「ともすれば傲慢さを忘れてしまう」ということを 自分で知っているのと、考えもしないのと、差ってそこだと思うんです。 医者が傲慢になるのは、これもう仕方ないことで、 「まるで学ぶ気がない患者」ばっかりと対峙してるんだから、なおさらです。 ある人が、歯医者で「口の中を無菌にして歯周病を予防する」といわれ、 無保険でマクロライドのシロップで朝晩のうがいを勧められたそうです。 呆れてモノが言えません。耐性菌増やすなんて、知ったこっちゃない。 誰でも同じ、医者に限らず善人もいるしクズもいる。バカも利口もますよね。 「自分の小さな箱から出る方法」というようなタイトルだったと思いますが、 自己啓発モノでありながら、うーん、と唸らせられた本があります。 箱とは「傲慢」のこと、「保守」のことなんだな、と、今言葉になりました。 フロイトが見つけた「防衛」―――測り知れない人類の泣き所。 思う、ゆえに我がある。 でも、動物は「自意識(我)がない」と言われているのに、やっぱり「在る」。 アイデンティティだってもっている。 現代の、目を覆いたくなるような退廃が、 全部「我、《思う》」ところから始まってきたとしたら…。 我、思うけど、我利はなくなった、でないといけなかったんだなー、 なんて思ってしまいます。 パスカルの時代も人々は勝手だったのだろうけど、 さすがに地球レベルで食い潰す憂慮までは、彼は考えなかった。 「結局のところ、」といえる現代、我利のある我、は致命的な気がします。 たった4%の「現実」で、科学が勝負している…っていうのは、 うーん、やっぱり数字(科学)って、モノゴト端的にわかりやすく説明しますね。 4%かぁ…少ないな、と思います。 HPからジャンプするネットマガジンの連載の最終回が 新しい本の最終章からの抜粋です。 トップページのリンクを貼っていないので、 ネットマガジンに入ってから、バックナンバーで跳ばないと出てきません。 ここに書いたことは、もうまったく空想のアソビなのですが、 でも96%(+ダーウィンとアインシュタインで1%ずつ)は 直感的に「見えるもの」だけで考えると、こうなるなー…という話です。 「たからじま」というタイトルで掲載しています。 慈悲や同情。 それは辛いですよね。 なんていうのかな、「殴られる辛さ・他人が殴られるのを見る辛さ」 どっちもどっちも…。 介入して「オレ、いいやつだ!」と 喜びのオブラートでも持ってないと、とても耐えられない。 小室哲也は、私はチャイコフスキーだと思ってました(笑)。 よく知っているわけでないし(何しろ何年もテレビを見てない) 「わかりやすく、親しみやすく、軽いメロディをどんどん作れる」 バレエ曲なんか聞いていると、チャイコフスキーってそういう才で、 小室哲也もコレだなー、なんて思っていました。認識、改めますです(笑)。 利益が優先すると、天衣にハサミ入れて飾り立ててしまうのでしょうかね… もったいないなぁ、現代人すぎたんでしょうね。 漫画は手にするまでにしばらく時間がかかるかもしれません、ごめんなさい。 でも、描いている人たちも医者と同じ、バカも利口も、善人もクズもいる。 最後にスローな雰囲気で回答書けて、よかったです。 多くは、あなたのおかげだと思います。 私はこんな風に、思って、スグ言ってしまう人間なので、 言葉は薄っぺらで、底が浅いといつも思っています。 それでも、そういう見方でいくつかは真実をそのまま見ていると思うし、 真偽の見分けがつかないから一緒くただけど…大事にしたいです。 終始、ご丁寧な対応をしてくださいまして、ありがとうございます。 また、お会いしましょう。互いの健闘・奮闘祈りつつ。
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- mrsamama
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mrsamamaです。 やはりすべてお分かりになっていらっしゃったのですね… まったく軽々しく口開くもんじゃないよ、と冷汗しきり、という感じです。 私は仏陀の言葉はしらないのですが、 キリスト教でも「苦しいときは神が近くにいる」と言いますよね。 「そばで励ましてくれているから頑張れ」という意味だと思っていたのですが、 「神が目をかけた者の道は険しい」という意味なのかもしれないな…と そういうことを「わかってきた」と言うのか、 「なんでも都合よく、自分の言い訳に使う」と言うのか、よくわかりませんが。 励ましてくれているというのは、万人向けの解釈で、 その中の一握りに、本当にこの言葉を向けられた人がいるのだろうと思います。 ずっと前の方のやりとりに、「動物は殺されることがわかっている?」 という話が出ていましたよね。 私は、生命が脅かされているとき、感じ取らない方が不思議だと思います。 それをどの器官が、どういう機序で…と言い始めると すごく狭い「人智百科事典」に頼るしかなくなって答えも見つからないけれど。 転じて、 受精卵が胚に成長するごく初期の段階で、脳の元となる神経管が形成されるので、 今「記憶のストック場所」とされている大脳辺縁系は その時点ですでに、とりあえず元基という形でできてきています。 赤ちゃんが泣いておさまらないときに、母親の心拍音を聞かせると落ち着く、ということは、 赤ちゃんには胎児時代の記憶があるということですよね。 こういう時点の記憶は、純粋な感覚記憶であるに違いないので、 快感・不快感、のような漠然とした印象を、胎児も持つわけです。 生物にとって生命の危機が最大唯一の危機なわけだから、 胎児が恐怖(?)と言っていいのか、とにかく危機感を感じるのは 当ったり前じゃないか!…と私には思えます。 人間がいかに意識的に「意識や思考」を取り払って洞察しても、 どうしても「動物は死を《察知》し、《覚悟》しているかのように見える」 と記述してしまうし、それを読むとまたさらに「思考の賜物」的印象を得てしまう… 「ひざまづく」という言葉を想起した時点で、 どれほどたくさんの印象やイメージがその人の記憶から引き出されているか、 結果としてどれくらい「ニンゲン臭い」イメージを創り上げているか、 文字で伝える情報っていうのは、とてもリスクの高いものだと思います。 脳は最近のマスコミと同じくらい、純粋さを失ってるのかもしれません(笑)。 と、同時に、「ひざまづく」行為がどう発祥してきたのか、 動物が自然にやる動作を、人間があとから意味づけして 「敬意」という形式にしてしまったから、「動物がやるわけないでしょ」 ―――となってしまったようなことって、他にもあるのかもしれませんよね。 どれほど自らが「思考」に毒されているか気づかずに定義や議論をするのって、 私はずいぶんヒトって無神経で、悪気ないけど傲慢だよな、って思います。 改めて質問を読んでみると、 「苦しまずに死ぬことは進化に必要なのか?」ということがありましたよね。 ウミガメの産卵なんか見ていても、ツルっと埋めそうなのにえらく大変そうな様子で、 産卵、出産には、たぶん「何がしかの助け」が必要だったのではないでしょうか。 進化しようとする本能を本能として奔放に進め、広げていくとしたら、 ネックになる「産みの苦しみ」を取り去る必要があった? もしかしたら、オピオイドの始まりは「出産報償」で、死ぬときも利用するのはオマケかな。 私は2度の出産で、ほとんど痛い思いをしたことがないんです。 あの時点で気づいていれば、医師に「採血してオピオイド濃度を測ってくれ」とか 言えたのにな…私は、かなり動物的な部分が強く残った、直感型なのですよ。 だから「だって、わかっちゃうんだもん」という視野もあります。 ただ、そういう考え方は、現代の価値観ではまるで評価されません。 実際、ほとんどの医師と話していると、彼らの科学擁護は強迫観念的にも思えます。 彼らはツールとして医学(科学)を使うので、 コトバひとつでその信頼性を崩されることを、本能くらい深層で拒むのでしょうね。 しかし本にしてしまった―――かなりのバッシングも覚悟の上ですけど、 医師はダメでも生物学の先生たちはけっこう乗ってくれるところが やっぱり医者って、単なる商売に過ぎないなぁ、と感じます。 私が、お金や人間関係を取り上げられて、代わりに天から預かったものとは、 感性を表現するための「言語表現力」なのかもしれません。 超自然とカテゴリーされる種々雑多なもろもろは、ある指摘によれば 「感性を持つ人は表現力がなく、表現が出来る人は感性がない」 ゆえに、いつまでも市民権を得られない。 感性を持ち、なおかつ意味づけと表現できる言語力が必要だ、と読んだことがあります。 私の役目はそれなのかな…?と思います。 あなたのような方に興味をもっていただいたのは、大変ありがたいことです。 しかし、細かい論証をバサバサ切り捨てた思考の遊びと言われかねない雑文が、 あなたくらいの洞察や知識に耐えるかどうか…はなはだ心許ないものですよ、実際。 8月の予定でしたが、装丁に時間をかけたいらしく、刊行は9月になるようで、 三五館という出版社のHPを見れば、9月の新刊で出るでしょう。 「とらんすがいあ~ぜ」がタイトルになると思います。 出版社の意図で、地震災害や生活の見直しという色が多少ついてしまいましたが、 同じタイトルのHPを持っているので、こちらは純粋に私もので公開しています。 そこからヤフーアドレスですが、メールコンタクトもできるようになっています。 この本は私が東洋医の立場で書いたものですが、HPから 別のネットマガジンで連載した内容がごらんいただけます。 興味をもっていただけたのは大変嬉しく感じておりますが、 ガッカリさせてしまう気もして、どうかな?と思いつつ、お知らせいたします。 何度も何度も、余計な口をはさんでしまい、失礼をいたしました。 ご縁がありましたことを喜んでいます。これが価値あって発展しますように…。
お礼
<やはりすべてお分かりになっていらっしゃったのですね… これは私に対してですか? 有難うございます。しかし全てを分かっていると自分で思い込んでしまうと傲慢になってしまいます。成長とは基本的には過去の自分の否定です。ですのでこの言葉は嬉しく思いますが、その気持ちだけ頂いて、これからも自分を鍛えていく所存です。 <「神が目をかけた者の道は険しい」 かわいい子には旅をさせないといけませんね。教育者としても見込みの無い人には厳しくしません。疲れるだけですので。そういう意味では厳しい人生を送る方が神に愛されている、とも解釈できそうですね。 <「なんでも都合よく、自分の言い訳に使う」 誰かを積極的に苦しめるのではなく、自らを助ける言葉ならば都合よく使って良いと私は考えています。 神がもし私達を敢えて谷底に落としているのならば、これ位の都合の良さ、言い訳ぐらいは多めに見てもらえるでしょう。 <ずっと前の方のやりとりに、「動物は殺されることがわかっている?」という話が出ていましたよね。 私も第6感で感じ取っている、というのがあると思います。宇宙はダークエネルギーが74%、ダークマターが22%、可視物質が4%の割合で構成されていると言われています。逆に言えば現代の医学は4%の可視物質についてしか研究していません。ダークマター、言い換えて暗黒物質はそもそも充分に観測できていません、ダークエネルギーも同様です。と、いうことは現代の学問はたった4%のデータを基に全てを決めようとしているとも言えそうですね。正直、ソクラテスの無知の知を覆せる程の学問は私は知りません。あ、「われ思う、故にわれあり」位でしょうか。よって科学信仰、学問信仰の現代は(?)と思う面もあります。学問は基本的には「芸術」ですので。絵で何かを完璧に教えられないように、学問でも全てを完璧に分かることは無理ではないでしょうか。正直言って私は生物を生物たら占めているのはダークエネルギーやダークマターだと思っています。生物は物とは違います。可視物質が生物の身体を構成していても、魂はダークエネルギーやダークマターだと思います。あなたのホームページに霊の話がありましたが、霊などの魂が宇宙の残りの96%と私は考えています。ちなみに私の敬愛する本多信一氏が死の床で不思議な光景を見ました。傍に飾られていた花と医者・看護婦の身体が輝いていたのです。彼は嘘を書く人ではありません。詳細は彼について調べてみてください。彼の著書は名著ばかりです。私も非常にお世話になりました。ですので、生物はその様に気があると私は思います。 <ほとんどの医師と話していると、彼らの科学擁護は強迫観念的にも思えます。 <彼らはツールとして医学(科学)を使うのでコトバひとつでその信頼性を崩されることを、 <本能くらい深層で拒むのでしょうね。 彼らは自分に受け入れられないものを否定して、自らを肯定しているのです。医者は大変です。医者になるまでの学習量は膨大です。(私もそれをやったので知っています。本当に大変です。)しかも医者は医学部で、同年代の若者が遊んでいるのを尻目に必死に勉強しています。いえ、医学部に入るまでも他人が遊んでいるのを尻目に勉強の日々だったはずです。そうなれば彼らが自分を肯定するために他人を否定するのも頷けるとは思いませんか? <やっぱり医者って、単なる商売に過ぎないなぁ、と感じます。 病気についてしっかりと説明しないで薬だけ出すのが普通ですからね。しかし医者は医者なりに色々と大変です。研修も大変ですし、最近は専門医制度まで導入されました。医者の世界もどんどん厳しくなってきています。知人の医者でも自殺した方もいます。医者は奴隷だと私は考えます。それ程、厳しい仕事です。 <文字で伝える情報っていうのは、とてもリスクの高いものだと思います。 確かにそうですね。一方で丁寧に伝えれば相手に伝わりやすい良い道具とも思います。 <私はずいぶんヒトって無神経で、悪気ないけど傲慢だよな、って思います。 傲慢になることで自分を肯定して自分を守って、自分の心を慰めているのでしょう。自分が立派と思えば、自己肯定感が育まれて心の傷が減るでしょうから。この世は苦しみに溢れています。仏陀の言うとおりです。この苦の娑婆ならば、人間が醜くなるのも当たり前だと私は思います。 <私が、お金や人間関係を取り上げられて、代わりに天から預かったものとは、 <感性を表現するための「言語表現力」なのかもしれません。 私にそれを適応するならば「慈悲」や「同情」だと思います。 <あなたくらいの洞察や知識に耐えるかどうか…はなはだ心許ないものですよ、実際。 私が洞察や知識を沢山持っているかというと私は分かりません。逆に自分の洞察や知識が優れていると思うと、そこが傲慢の始まりになってしまいます。だから常に謙虚に生きて生きたいと思っています。しかし何度も褒めてくださって有難うございます。 前のお礼から色々と調べました。オピオイドが死後の幻覚を作っているかどうか。モルヒネやアヘンなどによって引き起こされる幻覚について調べても、実は大した幻覚ではありません。モルヒネやアヘンなどもオピオイド受容体に作用します。もし、死後の幻覚がオピオイドによって引き起こされると仮定した時、モルヒネやアヘンを大量に摂取すれば同等の幻覚を見るはずです。しかし私の知る限り、その様な記録はありません。そもそも人体は幻覚が簡単には起こりません。アイソレーション・タンクや刺青クリスチャンという本を参照しても、せいぜい「幻聴」や「人の姿を見る」にとどまっています。と、なるとオピオイドだけで臨死体験ほどの幻覚が発生するのは疑い深いです。もし、死後にオピオイドが大量に出たとしても、オピオイドだけでは身体の防御反応で臨死体験ほどの幻覚は見ないと思います。 ホームページ、拝見しました。モーツァルトが疲れない、という記事で成る程と思いました。私も小室さんが売れた理由に同じものを感じています。小室哲哉さんの歌、たとえば「恋しさとせつなさと心強さと」を考えて見ましょう。(もし知らなかったらyoutubeで聞いてみてください。名曲です。私が人生で一番好きな曲です。)その曲はバックの音楽がうるさいだけで、メロディーラインは非常に単純です。楽譜を参照すると「単純」と言ってもいいかもしれません。しかし彼の旋律も自然で自己主張していません。むしろ、日常会話とかけ離れていません。「恋しさと~」と口ずさめる感じです。今思うと、彼の歌も素直でしたね。ちなみにベートーベンは私は尊敬しています。彼は苦労人だからです。しかし苦労しているからこそ曲にその苦労まで現れてしまったのかもしれません。 <このスナオさこそ、天衣無縫ということなのかもしれない。 テニスの王子様という漫画ではラストで最強のテニス選手を「天衣無縫」で「楽しむテニス」の主人公が破っています。テニスの王子様の42巻、お勧めです。世間では割とたたかれることもありますが。漫画も勉強に使えます。バガボンドなどは非常に真理を付いています。お勧めです。あとはスラムダンクの完全版でないほうの8巻もお勧めです。安西先生、いい人です。 <何度も何度も、余計な口をはさんでしまい、失礼をいたしました。 余計どころか、どの回答も非常に含蓄が多く、とても学ぶべき所がありました。ホームページも本当に色々と勉強になりました。この度は何度も示唆に富む回答、誠に有難うございました。 <ご縁がありましたことを喜んでいます。これが価値あって発展しますように…。 私も嬉しく思っています。しかし今、親戚がごたごたしているので人付き合いをしている暇が無いというのも事実ではあります。悲しいのですが……。80年代は良い時代でしたが、今は色々と大変です。しかしこの言葉、有難うございました。
- mrsamama
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mrsamamaです。 もう、出ておいでにならないかと思っていました。チェックしてよかったです。 わかりにくい書き方をしてすみません。 翻訳ものばかり読んでいたので、比喩や飛躍が多くて、 原稿も編集に真っ赤にされています(笑)。 あなたが42に書かれたお礼の中に、 >そして。歳を重ねるたびに叶えられなかった夢が増えていきます。歳を重ねることは想像以上に残酷 です。私自身の場合は 出生:普通の身体で生まれたかった 幼年時代:普通の家庭環境で生きたかった 少年時代:普通の人間関係を持ちたかった 青年時代:善に生きて大いに損をした 中年時代:家族を持ちたかった 老年時代:こんな人生は嫌だった と苦しみが増えているのです。本当に善に生きればこうなります。これでもあなたは善に生きますか? とあったのを読んで、あの回答を書きました。 悔いと失意が回顧を染める日々、来る日も来る日も、同じ回顧。 良し悪しに関係なく、そういう思いを同感できたからです。 私は自分でもどうにもできないクソマジメで、 これさえなければ、私を尻目に「上手に」泳いでいく人々のようになれたのに… 自分の頑固さ、生真面目さ、開き直れない剛直さをもてあましました。 善に生きることしか出来ない人は、どうやってもそれしかできないのだと思います。 それに対して、得そこなったものを数えれば、不幸ですよね。 あのとき、ああしていれば…あれさえなければ…私もよく考えました。 私ごとですが、普通の人なら一生出遭わないようなことが何度も来ました。 ストーカーに家を放火されてすべてを失うとか、 警察官の「おーきなお世話」によって、家庭が壊れかけるとか。 一体何なの、この運勢?私が普通にしていても、あっちからやってくる。立て続けに。 そうなって考えるのは、「これは、なにかある」ということ(人間、弱いッスね!) であり、前世の因果だ、誰かののろいだ、墓参りしないからだ…とか、とか、とか。 でも一つ僥倖だったのは、「他の面」にも気づいたことでした。 お金だけはありました。もちろん、十分ではありません。 うつ状態になって仕事を1年もできずにいても、何とか食べていられました。 不思議なことに、「これでアウト」というときになると、 何かのお金が、必要最低限だけ手に入るのです。 それらは政府の支給だったり、保険の還付金だったり、いろいろでした。 ―――なんとか、生活だけはできるようになっているらしい それはちょっと不思議でした。 「生きるだけは面倒見てやるから、《すべきことをやれ》」と言われているように思えました。 あなたにお伝えしたかったことは、 >普通の体、普通の環境、普通の人間関係、普通の家族、そして自らの善意の充足感、 あなたがもし、これらすべてに恵まれなかったとお考えであるなら、 あなたが喜びを得られるものは、他にあるのではないですか?ということでした。 または、これら、あなたの苦しみとなって積もったものの中に、 違う視点から喜びが見出せるのかもしれません。それは別にして、 もしも私が、裕福に遊んでいる人々と自分を比べることに終始していたら、 おそらく私は不幸感につぶされてうつ病で終わったと思います。 今、私が僭越にも他人様にこんなことを書いていられるのは、 「そういうことではない《なにか》をするべきなんだ」という自覚があるからです。 ひとつには、先般回答に書いた本を書きました。 これも、私にとって不思議でしたが、なぜか書いて、なぜか出版社の目に留まりました。 私は人にも徹底的に恵まれませんでしたが、急所では必ず、 致命的(命を落とす方じゃなくて、救われる方)な人との出会いがありました。 そういうものを一つ一つ数え上げていくと、 お金とか人とかに恵まれない、社会でチャンスを得られなかった、と思う自分が、 何かに確かに支えられていると感じ、ならば何を成すべきなのか?と考えました。 してみると、恵まれなかった人間関係(家族、友人、師、上司…)から学び取ったものがあり、 私に不幸をもたらした彼らは、実はテキストを運ぶ郵便屋であったように思えました。 >年を重ねるごとに、叶えられなかったものばかりが増えていく…確かにその通りです。 しかし同時に、年を重ねるごとに、学びも増え、 諦めることによって、欲があっては踏み込めない道に入っていける気がします。 「そうか…願うものが間違っていたんだ」。 あなたがもしも、善を成し、裏切られ、それでも善を踏み外せない人であるなら、 あなたは、大多数の人が持っていない素質―――善を成せる―――希少な才があるのでしょう。 どんなものにも、99%の有象無象と、1%の誠があると思います。 目を覆いたくなるような、現代日本の姿の毒気など意に介さず、視点を遠くに据える―――。 あなたには、成すべき何かがあり、ゆえに善行の才がある。 気づくべき何かがあり、ゆえに智をもつ。 そういう意味で、「逝くまで流されないでほしい」と書きました。 こういう考え方が、私の「諦めのための苦し紛れ」なのかどうか、わかりません。 そして私は「世界観」に目を向けました(これは私の勝手な方向性なので書きませんが)。 この方向がどうであるかはともかく、 私はまた、恐らく死ぬまで維持できる「生きがい」に出遭ったのだと思います。 不条理、悪意…それらからいかに目を反らし、自らの道を見続けられるか、 いまだ悪態をついたり、敵意をもったりしながらも、前を向いています。 こういう出会いも、もしかしたら意義ある一つかもしれません。 そう思って、こんな僭越なことを書きました。 あなたの魂に触れればいいな、あなたの魂が動くといいな…そう思います。 ますます伝わりにくかったらごめんなさい。
お礼
これ程に心がこもった回答を頂くのは恐れ多いです。本当に有難うございます。 私自身も馬鹿真面目と言われます。それも真面目で良い人、ではなくて真面目すぎて馬鹿、と言われる状態です。それで駄目と言われます。人には。私は世間話や無駄話が一切出来ない人間です。自分の性質にはほとほと困っています。 そうですね。得られなかったものを数えたら不幸の極みです。しかし年を取って色々と勉強すると、もしそれらが得られたとしても幸福ではなかっただろうとと感じます。身体が弱いですが、だからこそ身体を労わって、何とか今でもやれています。幾ら身体が劣っていても、歩けますし、走れますし、自転車にも乗れます。そう考えると幸福という気がします。私を越えて泳いで行った先には滝つぼがあったりします。昔の同級生は現役で東大に入っても若くして自殺してしまったり。泳がずに浮かんでいた方が安全と今は考えています。 家庭環境は滅茶苦茶でも苦労できたので人を見る目が出来たと思えば不幸ではありません。 人間関係を持てなくても1人で考え事をする時間を沢山持てました。孤独というのは悪い印象がありますが、それ程悪くなく、平和で良かったと思います。 善に生きて損をしても、後で考えると得だったと思います。世間一般の得であるお金や地位などは私は得とは思いません。有名になれば忙しくなって寿命を縮めますし、事件に遭えば悲惨です。底辺に這い蹲れば、楽しみが無くても平和で幸せと思っています。エピクロスが隠れて生きよと言ったのでなるほどなと思っています。 家族を持てなくても上述の通りです。他人の幸福を見るのはだいぶ辛いですが。イマニュエル・カントの様に長生きできると思って自分を慰めています。 しかし私はそれでもさびしく感じることがあるのです。人間ですので仕方ありません。 私の尊敬する小野田少尉の父も『食べていければ充分』という考えを持っていました。私も食事には困ることが無かったので、そう考えれば幸せといえば幸せかもしれません。 <あなたがもし、これらすべてに恵まれなかったとお考えであるなら、 <あなたが喜びを得られるものは、他にあるのではないですか?ということでした。 有難うございます。ちなみに私は矢張り不幸な人生で良かったと思っています。幸福な人生で色々と楽しみたかったですが、不幸ならば人に優しくなれ、善意と供に生きやすいです。逆に無意味に幸福では傲慢になって困った人間になったと確信しています。今の自分が素晴らしいとは言えませんが、それでも人並みの人生を送るよりは人格が磨かれたとは思っています。 <私に不幸をもたらした彼らは、実はテキストを運ぶ郵便屋であったように思えました。 私も不幸で一番学んでいます。と、いうよりも恵まれないことや失敗や苦労が一番今の自分を作っていると確信しています。幸福は自分に喜びをもたらし、不幸は自分を成長させてくれると思っています。 <諦めることによって、欲があっては踏み込めない道に入っていける気がします。 そうですね。無欲でこそ成り立つ道があります。 <あなたがもしも、善を成し、裏切られ、それでも善を踏み外せない人であるなら、 自分が悪によって苦しめられたからこそ悪にはなりたくありません。 <あなたには、成すべき何かがあり、ゆえに善行の才がある。 <気づくべき何かがあり、ゆえに智をもつ。 素晴らしい言葉を有難うございます。 そう善に生きても楽しみの無かった人生に後悔することもあるのですが、人生は仏陀の言うとおり、苦しむ場所と自分を慰めて生きています。それでもこの歳まで生きられれば幸福なのですが……。 本当に色々と有難うございます。とても心に響く言葉ばかりでした。もし、プライバシーなどが大丈夫でしたら、出版する本を教えて下さい。是非読んでみたいです。
- mrsamama
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mrsamamaです。 Jagar39さんと質問者さんのやりとりがメインになっているところで 質問にも関係なくてすみません。 42のお礼を見て感じたことは、悔いや不満のまま 逝くまで流され続けてしまわないことだと思います。 私も途中までは、似たようなものだな…と思いました。 このままでは悔しいので、逆手にとってそれをテキストと考えることにしています。 でも、普通の家庭、普通の体…であったなら、というのが痛いほどわかりました。 なかった可能性を考えてしまうこと、私もありました。 私もアグレッシブにアドレナリン全開で「闘うしかない」と思ってきた時期があるし、 でも、そうやって守ってきたものの中身が腐ってると気づきもして、 慌てて襟を正してみた…染み付いたものはナカナカ落ちないけど。 誰も、他者を批判なんてできないですよ、自分がわかればわかるほどそう思うのが大人です。 そのくらいはわかるようになりました(笑)。 当然、自分含め、人間の知性なんて底の知れたものだと思っています。 口げんかはかなり練達して、こきおろすのなんて絶対負けないくらいになったけど、 あとで思えば浅はかだったなー(笑)と。 自分と価値を異にする意見に出会うことが、議論の最大の意義かもしれないのにね。 すでにこういうことはお考えになったとは思うけど、 天性の才を持つ人は、時間(長生き)に恵まれず、 お金のある人は、人に恵まれなかったりしますよね。 お金も才もある人は、心や愛をつかめなかったりする。 体、環境、善意を尽くす満足…あなたは多分、 それらが不可欠でない人生を歩いていらっしゃるのでしょう。 では何があるんでしょうね?そっちに入っていくべきじゃないですか? 努力も穴埋めじゃなくて、積み上げる努力ならもっと楽しい。きっと。 あまりこういう根拠ない幸福論みたいのは好きじゃないんですが、 あなたのお礼を見ていて、足場変えたら視界変わる気がして、 自分のやり方を書いてみました。終始一貫、一方的言い放ちですが。 初めにたわごとだと申し上げた通り、価値観はかなりズレてますから、 一般の方にすんなり入るものじゃないですよね。 太陽系最高の知性だって、まだ若輩もいいところなので、 何が真理なんて、誰にもわからないわけだし。 少なくとも言葉で遊ぶ愚は避けようと思っています。 もうひとつ、人間が作った枠にとらわれることも。 あなたの受け皿の広さに乗っかってしまった形ですが、 1000行の手紙でも、一行受け容れて役に立てればラッキーですものね。 老婆心ってやつかしら? あと、話が宗教の方に行ってるみたいだけど、 アインシュタインの興味深い言葉がありますよ。 「あらゆる宗教上の天才は、この感情に象徴される」 この感情というのは、宇宙(自然力?)に対する信仰(と言ってるけど、畏怖みたいなものでしょうね) 結社または商社としての宗教をやってる殆どの人を別に、 創始者などの天才は、ある感情を共有しているということです。 このあたりの印象を、心霊主義というカテゴリーと切り分け出来ないのが、 現代人的、あるいみ「知的(らしい)」価値観なんでしょうね。 宗教については、開祖とそれ以降の人は別に考えるべきだと思います。 また、口はさんじゃって…。 お礼とか気になさらないで、議論集中しててください。
お礼
確かに他者を簡単に批判できるものではありません。批判されるべき人も様々な苦しみを抱えてそういう状態に置かれています。普通より清く正しく生きているが故に批判していいのではないかと傲慢になってしまうのが人間です。世の中には利己的、自分が良ければそれでいい、と振舞っている人が非常に多いのですから。一方で清く正しくという『自分のルール』を他人様に当て嵌めようとする自分の傲慢さは矢張り良くないと思います。まさかお坊さんのルールを当て嵌めるわけにはいきませんし。善という言葉で自らを正当化し、自分の気に入らない価値観を悪として排斥する。私はそれも良くないと思っています。どんな価値観でも大事だと思います。 知性といいますか、人間の知性など大した物ではありません。多くの情報を持っているだけです。 <体、環境、善意を尽くす満足…あなたは多分、 <それらが不可欠でない人生を歩いていらっしゃるのでしょう。 <では何があるんでしょうね?そっちに入っていくべきじゃないですか? <努力も穴埋めじゃなくて、積み上げる努力ならもっと楽しい。きっと。 すみません。このあたりの文脈が意味が読み取れませんでした。もし宜しければもう少し分かりやすく教えていただけると嬉しいのですが……。
Jagar39です。 「我々は人為淘汰されているのか?」という問題について。 人為淘汰というのは、「動植物の個体群の中から、人間の役に立つ形質をもつ個体を選んで交配し、その形質を一定の方向に変化させること」というのが一般的な定義です。 ><我々は何者かに生殖を「管理」されていますか? >管理されております。 もう一度よ~く考えてみてください。 我々が家畜に対して行っている「人為淘汰」は、ある一定の形質(形でも性格でも)に達しない個体については、「これは繁殖には供しない」と"決定"し、実際にその個体から子を取ることはしません。黒毛和牛などは舌や腹の毛が白い、という理由だけで登録できなかったりします。つまり、これら"基準から外れた"個体から仮に子を取っても、その子は「黒毛和牛」とは認められない、すなわち「黒毛和種」という品種から排除されます。 これを「人為淘汰」というのです。 現在の社会の中で、年収が低い者は結婚しにくい(子孫を残しにくい)、お上に逆らうと大変、などということは、全て「人間が作った社会の中で起きている自然淘汰」です。 サルでも採ってくるエサが少ない個体は繁殖しにくいです。また、ボスザルに逆らうと大変です。これらを「サルはサルによって人為淘汰されている」と言うのですか? >実際は年収300万円を境に結婚率がガクンと変化するようです。これも一種の人為淘汰では? 自然淘汰そのものです。 先の回答にも書いたとおり、「年収300万以下の者は結婚してはならない」という法律ができて初めて「人為淘汰」の第一歩になるのです。 >大体は婚姻を拒否されるはずですから これが求婚された本人の自由意志に基づくのなら、「自然淘汰そのもの」です。 「建前」であっても階級制度がなくなった、ということが重要なのです。 江戸時代の武士と農民の夫婦と、現在の富裕層と貧困層の夫婦、どちらが多いかは(もちろん人口あたりに換算して)調べてみるまでもないでしょう。 自分たちが作った社会の中で生きやすい個体と生きにくい個体の格差が生じる、というのは生物学的には自然淘汰そのものです。チンパンジーだって下位の個体は苦労しているわけです。 「人為淘汰」というのはそんな甘いものではありません。 足の遅いチータは足が速いチータより「子孫を残しにくい」でしょう。でもそれは自然淘汰ですよね。 でも、何者かがチータの「足の速さに関する基準」を作って、足の速さがその基準より遅いチータは「子孫を残さない」と決めて実行すれば、それが人為淘汰です。まあ決めても100%遂行されるとは限らないので、実際に足の遅い遺伝子も直ちに絶滅するわけではないのですが。 ですから人間社会で起きていることを「人間は家畜化されて人為淘汰されている」というのは、文学的な表現として使うのは別に良いのですが(それでも私はそのような使用法を好みませんが)、生物学的な考察としては間違っています。 例えば、じこかの国家がオリンピックの短距離走を自国走者で支配しようと考えたとします。 そのため、例えば「国内選手権の男女それぞれ上位50位以内の記録保持者」を"選抜"して、彼らに無理矢理結婚させて子供を作らせ、その子らを短距離走者として訓練し、その世代でもさらに上位50位以内の記録保持者を選抜して結婚させ・・・ということを繰り返せば、おそらく数百年の内にオリンピックの決勝レースを自国走者で独占できるくらい、他国とはかけ離れたレベルを作ることができるでしょう。 その選抜から漏れた走者は一般社会に落として、そこで彼らは勝手に結婚して子供を作ってもかまいません。それは「短距離走者の遺伝子プールを作出する」こととは関係ないので。いわばシェパードの選抜から漏れた犬がよそで勝手に繁殖しても、その子は「雑種」なのでシェパードには何ら関係がない、というのとまったく同じです。 そういうのを「人為淘汰」というのです。 現在の人類社会が「自由経済社会」であるということは、「経済力」が生存力及び子供の養育能力を示す直接的な指標になってしまっていることは否定できません。 その社会で、「年収300万以下の人は婚姻率が低い」というのは、自然淘汰そのものなのでは? むろん、この現状が「正しい」と言っているのではありません。それは生物学的な事実とは直接的には無関係です。 「人為淘汰」というのは人間が「ある単一の目的のため」に選抜淘汰しているのです。乳牛なら牛乳をたくさん取るため、シェパードなら警察犬や軍用犬にするため、サラブレッドならレースで速く走るため。 それは彼らの「生物としての健全性」には寄与しません。というよりはっきりネガティブな影響を与えています。ブルドッグなんて自然分娩では子供を産めないまでにしてしまいましたし、サラブレッドだって野生化しても生きていけないほど「速く走る」ことだけに特殊化されてしまいました。 なんにせよ、「特殊化」と「遺伝的多様性」は相反するのです。 「年収300万以上か否か」という問題は、人為淘汰とは異なって単一の形質によって決まるわけではありません。芸術家として成功して稼ぐ人もいるでしょうし、科学者として成功する人、役人を大過なく勤め上げる人も、それなりの「年収300万の多様性」は確かにあります。 そういう意味では、仮に「年収300万以下の人は子供を作ってはならない」という法律ができたとしても、それが直ちに人為淘汰を意味するのかは微妙なところです。ある特定の遺伝子を選択するわけではありませんし、自然淘汰の方向を人為的に推し進めただけ、という見方もできますから。 それでも、ある特定の要素で生殖の可否が顕著に異なる、ということは、一緒に有用な遺伝子も切り捨てている可能性が多分にあるわけです。 不利な遺伝子を持っている人も、同時に有利な遺伝子も持っている可能性が高いですから。 自然淘汰の概念は、「有利な遺伝子を持つ固体はその対立遺伝子を持つ個体よりも、大きな集団と長い世代数で見れば、平均して残す子孫の数が多い」ということだったでしょ? 「有利な遺伝子とその対立遺伝子」の組み合わせは、1種類だけではなく無数に存在するのです。だ から、ある1個体を見れば、その個体は「有利な遺伝子」も「不利な遺伝子」も両方とも、多数持っているのです。 ある特定の遺伝子について、淘汰圧が強くなれば、その遺伝子が選択される傾向は強くなりますが、同時にその他の遺伝子は有利なものであっても選択されるとは限らなくなります。 ですから、年収300万で生殖率に明確な差があるのならば、それは好ましくない状況であるとは思います。 ですがそれを「人為淘汰されている」というのは生物学的には間違いです。それとこれとは別です。
お礼
色々と有難うございます。論理面を鍛えることを教わったことは私にとって僥倖でした。論理面を鍛えることも続けていきます。
補足
人為淘汰と自然淘汰について丁寧に説明してくださって有難うございます。 人為淘汰は特別な規則を作った上での淘汰。もっと言えば特定の遺伝子だけを残す為の淘汰なのですね。勉強になりました。 自然淘汰はまさしく自然な淘汰。特別の遺伝子を残したりしない淘汰。 現在、社会では地位や資格などで縛っています。しかしそれだけでは特定の遺伝子が残るとはいえないでしょう。あえていうとしたら制度、社会の真実を見ないで利己的に振舞う遺伝子が残るでしょうか。 現代社会は利己的な人間によって複雑になっていますが、それによる特定の遺伝子の受け継ぎはなさそうですね。自然淘汰といえそうです。 何度も丁寧に丁寧に有難うございます。そして時には失礼な言動もしてすみませんでした。
Jagar39です。 >そもそも100パーセントはなど存在しない。それが世界五分前仮説の最も言いたいことだろう、と。 そうでしょうか。 そもそも100%が存在するか否かは科学も言及していません。むしろ100%はない、ということを最も強調して言うのは科学者です。別に哲学からわざわざ言ってもらうほどのことではありません。 世界5分前仮説の要点は、世界が5分前に"できた"と仮定することによって、「全ての証拠」を受け入れることを拒否することができる、ということでしょう? 仮に、私があなたを激しく殴りつけたとします。あなたには殴られた痛みと歯が折れているといった肉体的損傷が生じています。 そしてあなたは私に殴られたことをはっきりと記憶しています。さらに防犯カメラにもあなたを殴る私が映っているとします。目撃者も多数いるとしましょう。これで十分ですが、さらに私の拳に付着した血痕の遺伝子型があなたと一致したとか、他にどれだけでも「証拠」はあっても良いです。 これだけの証拠にも拘わらず、世界は5分前に作られたので、私はあなたを殴っていない、という主張が可能になるのが「世界5分前仮説」です。(もちろん私があなたを殴ってから5分以上経っている時点での話です) 世界ができたとき、あなたは最初から歯が折れていて激しい痛みを感じており、私に殴られたという「偽りの」記憶を持っていた、というわけです。もちろん私にもあなたを殴った「偽りの記憶」を持っており、目撃者も同様に偽りの記憶を持っている。 私の拳には都合良くあなたの遺伝子型と一致する血痕が、世界ができたときに付着しているわけです。 防犯カメラのデータも、都合良く「あなたを殴る私」の偽りのデータが刻まれているわけです。 つまり、どれだけ証拠を積み重ねても、例え100%の証拠を提出しても、それは問答無用で「拒否」できる、というのが世界5分前仮説です。 >逆に言えば科学は哲学をもってすれば無意味になってしまうのでは? ですから、私は個人的には哲学が無意味な学問だと思ってますけどね。世界5分前仮説なんて、現実を見ようとしないガキの屁理屈そのものだと思っています。 >宗教で『発生』という単語が使われるのは恐らくははじめて見ました いや、この「発生」という言葉は、質問者さんの、 >ニュージーランドでキリスト教が発生したのではありません という文から引用したものなのですが。私も宗教に「発生」は違和感は感じたのですが。「成立」かなぁ、普通に使うとすれば。 別に言葉尻をあげつらうとかではなく、質問者さんが使っていた言葉をそのまま使う方が意味が通りやすいと思ったまでです。 >日本は国家神道の影響が濃かったが故にキリスト教を受け入れることが出来ませんでした それは人口的にはごく一部の階層の人間だけだったのでは?大多数の「庶民」は今現在でも形式上は仏教徒ですし、宗教観はどこにでも何にでも神がいるといった「八百万の神」に近いのでは。 日本にキリスト教が根付かなかったのは、時の支配者がキリスト教の布教を妨げたという、ほとんどこの一点に尽きるのでは。 現在キリスト教が根付いているヨーロッパの国々は、たいていが(きちんと調べているわけではないですが多分全て)キリスト教を歴史的にとこかの時点で「国教」にしていますよね。 >キリスト教の様に砂漠生まれの元々が戦闘的な宗教 キリスト教にも「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」というように、攻撃的ではない側面を持ちます。 日本人も一向一揆に代表されるように、必要とあらば攻撃的になれる側面もあります。一向一揆など、そこに至る経緯などを無視して宗教としての性質だけに着目すれば、核となる宗教は浄土真宗ではなくキリスト教でも成立し得たでしょう。 「攻撃的な」と言われるキリスト教も、世界中の日本と同じような穏やかな自然や風土を持つ国でも受け入れられているわけですから、日本に定着しなかったのを日本の風土だけに帰すのは偏った見方であるように感じます。 そもそも宗教は、「団結力を劇的に向上させる」効果があるものですから(それが私が科学がどんなに進んでも宗教はなくならない、と思っている理由でした)、どんな宗教でも「攻撃的に」なり得ます。 日本の「国家神道」だって攻撃的になった時代があったのですから。 ですから逆に、「どんな宗教が根付いているか」で、国民性が変わり得る、と思うのですが。 >と、いうよりもなぜ江戸時代がここで出てくるのか不思議でなりません >そもそもそこに限定していません。いつから期間が限定されたのですか? これは、質問者さんの、 >現代日本という環境は日本人の努力で『獲得した』と思いませんか? >そして社会の変化に従って残っていく遺伝子も変わっていきます。 >戦後すぐの日本では優しい遺伝子が残りました。昔は優しい人がいい人と言われていました。農村でも真面目に働くのが良しとされました。現代のようにサービス業が大多数を占めてはずる賢い遺伝子が残っていきます。 という文章からです。これはNo.43のお礼文です。 社会の変化はスパンが短すぎるので、何かの遺伝子を選択することはできない、という意味で、これらの文を書いた次第です。 ><その人間の「雰囲気」は、「選択淘汰の基準」に何か影響しますか? >矢張り雰囲気は大きいと思います。日本人の女性は配偶者に求めるものは (後略) これ、私の続きの文を読んでいただければ判ると思いますが、「犬の話」ですよ。 現代社会で我々は「人為淘汰されているのか?」という問題については稿を改めます。
お礼
補足欄ですみません。 正直な所、ここでのやり取りで得られる物が今は少ないと感じていて、これ以上やり取りをしても私の将来にプラスにならないと感じています。色々と学べて嬉しかったのですが……。質問しておいて我侭かもしれませんが、予想以上にやり取りが多くなってしまいました。これからも、こちらのお礼や補足は0にはなりませんが、積極的には投稿しなくなりそうです。と、いうよりも殆ど0になるかもしれません。 何はともあれ色々と教えてくださって本当に有難うございました。あなたにも深く深く感謝しております。 ちなみにこの質問は締め切りません。私が更に成長した時や何か環境が変化した時などには再びお礼・補足を始めることがあると思います。身勝手で本当にすみませんが、ご容赦を願います。 色々と有難うございました。
補足
また色々と勉強になりました。有難うございます。 <世界5分前仮説なんて、現実を見ようとしないガキの屁理屈そのものだと思っています。 私自身は大人も醜いと思ってしまうのですが……。利己的な人々。それが大人です。割とガキは無邪気で優しいので私は好きですね。同様に無邪気だからこそ残酷な面も持っているのは周知の通りですが。現実を理解して尚且つ弱者を切り捨て、矛盾を無視して利己的に生きる。それならば私はガキとして生きたいと思う位です。私は他人を踏み潰してまでのし上がりたいとは思いません。屁理屈といったらこの社会構造も屁理屈と思ってしまいます。底辺の人々を引き上げる。それこそが上の人間の成すべき行為です。お互いの足の引っ張り合いは一番醜いのです。しかしえてして上では潰し合いが横行しています。気にされたらすみません。特定の誰かを責める意志に立脚した意見ではありませんので悪しからず。 >キリスト教の様に砂漠生まれの元々が戦闘的な宗教 勘違いさせて済みませんでした。上の文は『元々が』の前に『発祥の地の人々が』という意味です。キリスト教が戦闘的、という意味ではありません。すみません。 <現代社会で我々は「人為淘汰されているのか?」という問題については稿を改めます。 そちらでは有難うございます。現代社会はどちらかというと自然淘汰と思います。よく分かりました。
- thegenus
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EBMが言葉遊びと言ったのは、EBMの取り組んでいる内容が、言葉遊びに過ぎないということではなくて、EBMを持ち出した人が、言葉遊びしているという意味ですよ。だってEBMと言っただけで、EBMに基づいた肝心の説明をしていないんだから。 (No.46) >「人間が「家畜化されている」=「人為淘汰されている」というのは、文学的な比喩としてなら別に止めはしませんが、生物学的な認識としてはまったく的外れです。」 まずパクリの話題ばっかりです。「文学的な比喩」とか、いいから、自分の発言責任に注意シナよ。終わりにすると言ったのはうやむやか。その他のトンデモ科学発言も。 大学卒業したんでしょ。頼みますよ。人間は非常に管理されているでしょう。 産めとか、結婚しろとか、子供手当てとか……(笑) 学会費とか(笑) 主体性のない人には主体性が分からないのです。管理されている自覚がないのです。その民度の低さが「管理社会」を作ったのです。家畜的な人生の自覚がないから、もっと管理をしてくれなんですよね。それが管理である事もピンと来ない。日本人に自我、シナ人に人権みたいな価値でしょう。有ると権威がきめれば自分には有ると思っている主観。肩書き主観。 無教養すぎますね。学会は、自分の研究の仕方を教えてもらうところじゃないですよ、獣医先生。気の毒に。上等な研究指導も受けられなかった人なのでしょう。なるほど、獣医師と自己顕示するはずですわ。 生物学的認識として「性格」が正しいのかよ(笑) 繁殖に有利不利をつくる管理社会じゃないのか(笑) 自分の性欲が動物的なだけじゃないの?ルソーも動物的だったな。 人間社会を自然にするなよ! ”家畜は、家畜化されている自覚がないんですよ”家畜化されたサラリーマンもそうです(笑)典型的な中流意識ですね。 知識と肩書きがあれば人間のつもりなのでしょう。家畜的に繁殖しておきながらね。 遺伝子支配と主体性の問題が恣意的ですねえ。その自覚もないのです。賢い人ではありません。 すべて無自覚。パクリの自覚もないというのは韓国の捏造研究者かね。 科学原理主義的なこの手のおばかさんには家畜的なヒトが多いのです。自分の言葉がないのです。おうむがえしですね。 『自然選択の意味が分かってるのですか?』Jagar獣医師大先生。 動物と人と、自然と人間文明が、ぐっちゃぐっちゃですよ。 やはり動物学系は、啓蒙されていないね。 ルソーは啓蒙主義ではないからね。自然に帰れって、自分の欲望が自然に帰っていただけのトンデモ先生ですから。同じ倫理観のトンデモ信者が評価と分類をしている愚昧ですね。自然科学も同様です。獣医師いわく、心理学が生物学とか(笑)あきれるね。 (No.46) >「むしろ現在は「人為淘汰」的な淘汰圧はほとんどなくなった時代と言えるでしょう。」 で、自然淘汰の方が昔と変わらないのですか(笑) 次から次からトンデモ認識、きりないよ。半分以下のレス数しかしていない私一人では、これでも、ほんの一部しか指摘できていません。気付かない傍観者が多いということでしょうか。いつになったら終わりにするという発言の責任をとるんだろう。 (No.45) >「 いずれにしろそれは中世ヨーロッパ限定の話であって、普遍的な話ではないと認識しています。 まあ、政治や社会制度そのものが宗教に立脚していた時代では、全てが宗教と結びついていたので、科学も宗教の補強となっていたことは否定はしません。」 "まあ"「否定はしません」(笑)否定できるかどうかを教えて欲しいね。 宗教に支配されていたと言いたげですが。分かっていない人だなあ。先入観が強い。馬鹿は決め付ける。まさに二元論者ですよ。対立していたわけではないのですよ。いわば学会が宗教界の内にあったのですよ。いつの時代も学会は宗教的なんだよ。宗教嫌いの学会好きというはお子様ランチです。 科学と宗教は対立関係じゃないですよ。そして宗教権威を補強する気がないのに仕方なく補強してしまうことになったという成行きでもないの!宗教がなかったら「今の科学」なんてないよ。おっさん的無教養だな。そういう学のない人のお布施が学会費だろ。ありがたい、ありがたい、という衆生の集まりでしょ。 次の大矛盾も、私以外に指摘する人がいないのでしょうか。 (No.45) >「 今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、進化的に多数派にはなれないのでしょう。 > なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。」 (No.45のお礼)この意見に対して、質問者さんが。 >「説得力があります。」 なぜ説得力があると一致したのでしょう。この獣医師の意見は、ドーキンスと最も反対の考え方なのですよ。ドーキンスとは反対意見だから説得力が出たんじゃないの? どうしようもないよ。ドーキンス並の思考力を得られたかのような口ぶりの獣医大先生は、ドーキンスと反対意見じゃないか(笑)なぜか?自分で考えた話だから、ジが出た(笑)ドーキンスを信仰して、反対者を非難して、著書を読んで、人にも勧めて、絶賛して……いるのに、考え方が正反対です。?倒錯型ですね。盗作だし。 私は、前から指摘し続けているでしょ。引用している部分が科学者ふぜいで、本性は宗教的な思考だと。 当たり前ですが、著者の意見の引用している時だけなんですよ。分かります?だから権威を手放せないわけ。中身がないから。 宗教活動は遺伝子に規定されているんですか?宗教集団は競争力で生き残りが決まるんですか?どっち? 話がバラバラです。引用して得られた、既製の単品の中でしか、まとまらないひとなのです。自分の思想を完成させる能力も習慣もない専門家業者です。 お子さんに罪はありません。親を選べません。何も教えずに、黙って「利己的な遺伝子」を勧めるのがいいですよ。間違いが遺伝しないで済みます。 (No.45) >「それらの知見が蓄積すれば、ビルの「正しい形」を導くことができる、ということです。」 そう思うのも信仰です。トンデモ先生は導けたと主張する傾向があります。 やはり全ての科学者が科学者ではないということですね。その肩書きが信用できるほど、確率的に高くないね。むしろリスクだよ。 質問者さんの伝えている事が分かっていないのですよ。それが分かるでしょ、質問者さん。 お山の大将にも分かるようにざっくり言うと、観測しかできないということですよ。その一面的な観測を正しい立体形と言っているのが、獣医師先生なのです。常設査読委員らしいのです。素晴らしい雑誌になるでしょうね。これでは第三者的査定能力もなく、結論先にありきで、その形が正しいと権威にすがって決めているのです。説得力不在。それとも同業者はもっと酷いのかね。酒飲んで政治している馬鹿ばっかりで、毛が2、3本少ないお山の大将が下読み担当技官に大抜擢ですか。動物学界はエデンの農村だな。賢者のいない小世界。 (No.45) >「 口蹄疫の殺処分でも人間は相当な緊迫感を持ちます。事実、人間にとっても危険ですから。宮崎で30万頭近くの殺処分をする中で重大な怪我人が3人ほどで済んだのは僥倖と言って良いくらいです。」 戦場という比喩は危険な作業場ということではありません。それは文学的にも止めてほしいね。危険ならば戦場……命が一番、死にたくないから、戦争反対という幼稚な心理を感じますね。戦争は死ぬかもしれないという幼稚な出来事ではないのです。戦場の雰囲気などと、よく言えますよ。大した場って。 牛を殺して戦場というのは、兵士たちに失礼です。死んだ人間にも失礼です。戦死者と殺処分を並べているのが非常識です。さすが獣医です。そういう人格に日本政府は独占的な資格を与えて保護しています。 家畜と人が同じ次元になっている。やばいです。 戦場のたとえを使う前提は、人命を奪うかもしれない作業を、人が人に対して行っている場合です。それでこそ、たとえが中身を伴ってくるでしょう。戦場と言ってしまえるのは、イルカと魚を同一視するレベルの短絡的観察者です。そういう専門家の報告です。 牛の死から、他の牛の心理や、戦場にまで飛躍するのは、動物物語です。視聴率がとれます。今の日本は、平和ボケを越える動物ボケ社会ですね。その宗教的社会の中ではインチキ坊主が支持を得られるのです。人畜が同じなわけないだろ。文明の退化だね。ますます違ってくるべきだろ。 戦争が起きて、医者不足になったら、獣医が人を治療し始めるのでしょうか。それは最悪の「戦場」ですね。 (No.44) >「自分の中で緻密な論理構成ができていない話では当然他人を納得させることはできませんが、それ以前にその話はたいていの場合「科学的に間違っている」可能性が高いです。」 説得力があります。
お礼
<EBMを持ち出した人が、言葉遊びしているという意味ですよ。 そういう意味でしたか。たまには言葉遊びも必要と彼女は考えたのでは? ただの議論ではなくて道草も必要、と。 <ルソーも動物的だったな。 そういえば彼も散々子供を作って孤児院送りにした問題人間でした。少年時代に性犯罪で逮捕される人などそうはいません。 <で、自然淘汰の方が昔と変わらないのですか(笑) 日本では乳児の死亡が殆ど無くなり、病気と言う自然淘汰はほぼ無くなったと言えそうです。 (No.45) >「 今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、進化的に多数派にはなれないのでしょう。 > なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。」 (No.45のお礼)この意見に対して、質問者さんが。 >「説得力があります。」 <なぜ説得力があると一致したのでしょう。 <この獣医師の意見は、ドーキンスと最も反対の考え方なのですよ。 <ドーキンスとは反対意見だから説得力が出たんじゃないの? そうですね。彼の上の発言は自然淘汰ではありません。利己的な遺伝子という自然淘汰ではなく、宗教による人為淘汰を示していますね。 <宗教活動は遺伝子に規定されているんですか? <宗教集団は競争力で生き残りが決まるんですか?どっち? 回答NO.13「信仰心を生むような精神構造は遺伝子によって規定されているでしょう。」だそうです。一方で宗教を持った人が生き残るとも書いています。卵が先か鶏が先か。 <質問者さんの伝えている事が分かっていないのですよ。 <それが分かるでしょ、質問者さん。 何となく分かる気もします。 <それとも同業者はもっと酷いのかね。 酷くなくて立派な方もいますが……。ただ、基本的に彼らは本当の意味での挫折を知らないとは思います。獣医というのは偏差値的からみてもエリートといえます。その様なエリートの人、大学教授という、大学院まで出られた人達。官僚にしろ音楽家にしろ、大体の人間は普通の人生に比べたら幸福です。獣医学部に入れるような環境を持っている人がそもそもどれ位いるでしょうか。大学院まで行ける富裕層はどれ位いるのでしょうか。音楽を幼い頃から学べる富裕層も限られるでしょう。楽器も楽譜も基本的には高価です。楽器や楽譜は中古でも値崩れしません。よって上流の人々が苦労を普通よりも知らないのは仕方ないですし、それによる悪影響があるのも仕方が無いと思います。以前、新聞でどこかの教授の人生体験を読みました。海外に留学したものの日本に帰ってきて希望する研究を出来なかったのを『挫折』と書いています。私はそれで悲しくなりました。挫折と言うのは親がいなかったり、自己破産したりしたり、不治の病だったり、事故に遭って半身不随になったことを言うのです。ホームレス中学生のようなものを挫折と言います。そもそも留学するほど恵まれた環境の人間がどれ位いるでしょうか? 以前、70歳の牧師が「なぜこんなに良い人達が刑務所にいるのだろう」と書いていたのを読んでも悲しくなりました。逆に彼はなぜそのことも分からないのでしょうか。なぜ受刑者の気持ちが分からずに70歳まで生きられたのでしょうか。不思議です。牧師というのは神学校を出なければいけません。私自身色々な牧師に会っていますが、殆どが富裕層出身です。私は彼らを責められないとは思っています。その環境ですら仕方が無いのですから。 <牛を殺して戦場というのは、兵士たちに失礼です。死んだ人間にも失礼です。 そうですね。『気を抜くとすぐに自分が死ぬ』のが戦場です。自分の危険度が圧倒的に違うと思います。そして牛を殺すのは自分の命が助かるのが前提ですが、戦場ではむしろ逆で『自分が殺される』のが前提となってきます。そういう覚悟で臨む場が、戦場です。小野田少尉も書いています。『ああ、自分の命も20歳までだったか……』と。 <戦場のたとえを使う前提は、 <人命を奪うかもしれない作業を、人が人に対して行っている場合です。 そして気を抜くとすぐに問答無用で自分が死ぬと言うことです。そして死を前提にするのが普通の戦場です。自分の死が前提にならない牛の処分は戦場を考えるなら甘いといえます。
Jagar39です。前回は1本にまとめることができたのに、また2本になってしまいました。 >新明解国語辞典は多様な解釈が出来るように、あえて誤魔化しています そんなのは「辞書」ではありません。辞書は言葉を定義するために存在するのですから。 日本語は主語や述語が曖昧なのではありません。それらは明確なのですが、主語や述語の相互関係を崩して記述する自由度が高い言語、というのに過ぎません。また、英語でも崩して記述することはできます。 つまり、日本語でも英語でも厳密に書くことも曖昧に書くことも可能ではあります。 日本語に曖昧な表現が多いのは、日本人が曖昧に表現することが多いため、「曖昧に運用しても通用する」形になっているのに過ぎません。言語自体の性質が曖昧なわけではないのです。 日本語そのものが曖昧で英語そのものが厳格ならば、日本語で論文を書くことはできなくなりますし、そもそも日本語をネイティブにする日本人から科学者は出ないことになります。日本語自体が曖昧な言語なら、日本語で思考する日本人は厳格な思考ができませんから。 日本語で科学論文を書くのはけっこう苦労しますが、それは我々が日本語の文法を曖昧に適用することに馴れてしまっているからというだけの話です。 オバマ大統領の、「Yes, We can.」なんて鳩山さんの「最低でも県外」より曖昧なセリフだと思いますが。 英語も日本語も、厳格にも曖昧にも記述できる言語です。要は曖昧に記述するか厳格に記述するかだけの話です。 そして辞書は「言葉を定義するために存在するもの」ですから、曖昧に読んで良いという代物ではないでしょう。 少なくとも、自然の音や鳥の声が「音楽」であるというのならば、「心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術」の主語には「自然」や「鳥」が入り得るのか?ということは論述しなくてはならないでしょう。 >洞窟の音楽や水辺の音楽というのもありますが、あれは物理現象に過ぎない音と大して変わらないと感じます それは人間が、それを狙って作っているだけでしょう。 >鳥も音楽を楽しんでいますし、異性を鳴き声で呼び寄せる動物もいます 鳥が音楽を楽しんでいるという証拠はありますか?それは人間の(もっと言えば質問者さんの)主観に過ぎないのでは? 異性を呼び寄せる鳴き声は、音を単なる情報伝達の手段として使っているので音楽とは呼べません。 >しかし彼らは楽団を作っていません。『音楽を楽しんでいる=楽団を作らないとおかしい』というのはやや論理に無理がある気もします 音楽は辞書の定義にもあるとおり、「聴者に感動を与える」ために音を出すこと、ですから、ひとつの社会的なコミュニケーションツールとして機能するものです。 その音楽の楽しみを集団で共有するためには、複数の個体で「共演」をするようになる、というのは極めて自然な成り行きです。 質問者さんも言われているとおり、「音楽を楽しむ」敷居は非常に低いです。何かを叩いて音を出すだけでも良いのですし、声を出すだけでも「音楽」は成立させることができるのです。だとすれば、複数の個体で声を出し合ったり、叩いて出す音と声を同調させたり、といった「複数による演奏」を楽しむまでに至るというのは、極めて自然で、そうならないのがおかしいくらい自然でしょう。何も様々な楽器を発明してオーケストラをやれ、と言っているのではありません。 それぞれの動物にとって「心地よい音」や「不快な音」は当然あるでしょう。それは生き延びるための情報源でもあるわけですから。 でも、その「音の情報源としての由来」を離れて「音そのものを楽しむ」ことは、人間以外の動物がしているという証拠はない、と思います。 >擬人化でなくとも、音楽と考えれば音楽と言えます 音楽と考えているのは「人間」です。それは主観で考えているのです。 ヒト以外の動物が「音楽と考えているか」というのはまた別の問題です。 >正気を失った人間と共にいれば牛も矢張り正気を失うのではありませんか? >もしくは、牛も(ただごとではないな)と緊張するのでは? >それで牛も自分も『死ぬ』と思うのでは? 牛にとって人間がどれだけ死のうが、自分の死と結びつけて考える必然性はありません。結びつけるためには、「牛が死を知っている」ことが条件になります。緊迫感といった漠然とした感情は察知するでしょうが、それを「自分の死」と結びつけるのは、「死」を知っていないとできないでしょう。 そもそもこの話は、質問者さんが「牛が死を知っている」という「質問者さんの仮説」の証拠として提出したわけですから、「牛が死を知っていないと成立しない論理」に陥っている時点で循環論法になってしまっています。 口蹄疫の殺処分の現場は牛から見れば、白い服を着た多数の人間が異様な緊迫感で自分たちを取り囲み、現に仲間の牛たちがバタバタ倒れていく、という状況です。 この状況で、「自分の死」を察知しないのであれば(現に察知していた証拠は見いだせませんでした)、戦場でどれだけ人が死んでいようと、察知するだろうと考えることはできません。 質問者さんは、自分の住む街に野犬の大群が侵入してきて、勝手に互いに殺し合っている状況と、野犬の群が直接自分たちを襲いだしている状況では、どちらが「自分の死」をより強く感じますか? 音楽の話もそうですが、「人間の目から見た主観」に支配されすぎていると思います。 >臨床の場を通して自分の考えが正しいかどうかを見ている、ということです 医者でもない人が十分な例数を見ることができますか? 目で見える臨床像そのものは複雑な要素が絡み合った現象ですが、それらを「切り取る」ことができるデータを直接見ることができていますか? >実際に彼らの論理では主流の学説よりも圧倒的に良い臨床結果を残しています それらはきちんとした「手順」を踏んで出されたデータですか?というより、それを質問者さんが判断できるのですか? 少なくともこれまでのここでの議論を見る限り、失礼ながら質問者さんにはそれを判断する力はないと感じています。 >手順を踏めば万全、というのは個人的には疑問を感じる面も否定できません 万全、ではなく、「判断ができるか否か」という問題です。 「彼ら」が主張していて質問者さんが信じていることが何なのか、具体的に述べられていない今の状況では、彼らの主張そのものが妥当なのかどうなのか、私には判断することができませんし、質問者さんが妥当な判断をしているのか否かも判りません。まあここでは具体的な話には進まない方が良いとは思いますが。 でも、世の中には千○説やホ○○パシーのような、提唱する方もする方だが、こんな荒唐無稽な話を信じてしまう人もいるのか・・・と愕然とするような話を信じてしまう人もたくさんいるんですよ。ま、生理学や薬理学の専門書を読み潰している人なら、こんな失笑モノの話に騙されていることはなかろうと思うので安心して極端な例を挙げたのですが。 でも、論理的な思考ができないと、他人の「論理の嘘」を見破ることができません。 現在の医学や生物学が全て正しいなどとは言いませんが、専門書にも論理的に破綻していて後の世では「あれは"トンデモ"だったね」などと言われかねない話も、おそらくいくつか堂々と書かれているでしょうし、それ(いわゆる"主流")から少し外れたところでは、それこそ魑魅魍魎の世界です。いくつかは後の世では新たな定説になるものもあるでしょうし、最初から見る人が見ればトンデモ、というものも多数あるでしょう。 ですから、それらの魑魅魍魎の中から何が笑止で何が妥当かを判断するためには、「論理的な思考力」と「物事を立証していくためのルール」を知ることが必要なのです。
Jagar39です。 急にどうしたんでしょうか。私程度の人間なら理系の職場にはゴロゴロいますよ。 >然しながら世界五分前仮説は全ての物事のあやふやさを示しています。よって科学自体もあやふやではない か、ということです 違うと思います。 世界5分前仮説が示していることは、「どんなことでも人間は信じない(もしくは信じる)ことができる」ということだと思います。 5分前仮説は、全ての証拠が何者かに捏造されている、というのが成立するための必須条件です。この条件を受け入れる限り、仮に科学が完璧であってもその証拠を拒否することができます。 つまり、人間は100%の証拠があっても信じないことができるし、証拠がゼロであっても信じることができる、ということを示しているだけの話でしょう。これは「科学の仮説」ではなく「哲学の説」ですから。 >よってニュージーランドの最大の宗教がキリスト教であることは風土的には大した意味を持たないと考えます それを言うなら、ヨーロッパも同じですよね。 キリスト教が"発生"したのは現在のイスラエルですから、世界の他の地域全ては「持ち込まれた」ものに過ぎません。 宗教は政治的な、支配者がその支配を確立するためのツールとして用いられた例が非常に多いですから、それを言い出すと宗教と風土を結びつけること自体が怪しくなります。アジアでも仏教国、イスラム国、キリスト教国がモザイクのように入り乱れています。これらの国々の「風土」にさしたる違いはないはずですが。 日本にもニュージーランドにもキリスト教が布教されたのに、日本では多数派とはなり得ずニュージーランドで多数派となったのは、「風土」より政治史の方が影響が大きいでしょう。 それと、江戸時代から明治時代~大戦、戦後を経て現在に至るまでのほんの数世代の短期間では、日本人の遺伝子的な特徴が変化しません。 自然淘汰によって集団の遺伝子頻度が変化することを「進化」と言うのですが、それには数千から数万世代の長い長い時間が必要です。人間の平均世代年数を15~25年あたりの幅で考えても(今現在は女性の平均初産年齢はほぼ30歳に至っていますが)、数千年では「進化」するには短すぎます。 江戸時代末期から現在に至るまで、日本人の気質は目まぐるしく変化しているように見えますが、それは遺伝子の変化によるものではなく、元々遺伝的に持っているどの性質を発揮して生きるか、ということに過ぎません。 犬の場合は事情が違います。 犬は人間によって「人為淘汰」されて育種されています。人為淘汰というのは、自然淘汰より圧倒的に「淘汰選択の効率」が高いのです。 自然淘汰は、このQ&Aで私が何度か述べたように、有利な遺伝子と不利な遺伝子は、「十分大きな集団と長い世代数で見ると、平均して有利な遺伝子は不利な遺伝子より子孫を多く残す」程度の差でしかありません。 それに対して人為淘汰は、有利(人間が有用と認めた)な遺伝子を持つ個体と持たない個体の「繁殖率」の差を、ほとんど無限大に近い差まで設定することが可能です。シェパードで言えば、「攻撃的な個体」は100%子孫を残せるが、「温和な個体」はただの1頭も子孫を残せない、ということが理論的にはあり得ます。 実際は、有用な遺伝子は1つではなく、また有用な遺伝子と不要な遺伝子が同居している個体も特に育種初期では多く存在するので、0対100のような極端な淘汰率にはならないのですが、それでも自然淘汰と比較すれば圧倒的に高い淘汰率になります。 それが何を意味するかというと、「進化の速度が圧倒的に速い」のです。 犬が家畜化されてたかが1~2万年、犬種によっては本格的な育種が始まってからわずか数十年でここまで多彩な犬種を育種することができたのは、「効率的な人為淘汰」のおかげです。 人間は「人為淘汰」されずあくまで自然淘汰によって進化しています。アフリカ人とそれ以外の世界中の人々が分かれた(生殖的に隔離された)のは、せいぜい10万年前です。ヨーロッパ人とモンゴロイドが分かれたのは、最大限見積もっても8万年より昔にはいきません。 そのくらいのスケールで、ようやくヨーロッパ人と日本人の遺伝的な差違のようなものが見えてくるので、日本人の中で戦後と現在(たった3世代ほど)では、日本人の遺伝子構成はまず何も変化はしていないでしょう。 人間が「家畜化されている」=「人為淘汰されている」というのは、文学的な比喩としてなら別に止めはしませんが、生物学的な認識としてはまったく的外れです。 我々は何者かに生殖を「管理」されていますか?優しい人が不利だとか言うのは、単なる自然淘汰であって人為淘汰ではありません。「年収3000万以下の者は子供を作ることを禁止する」というような法律でもできれば、それは人為淘汰の第一歩になるでしょうけど。 人為淘汰というのは、生殖できる個体に基準を設けて、集団の生殖活動を何者かが「管理」することを言います。 ま、そういう意味では階級制度が存在して階級を越えた婚姻が認められなかった時代は人類史上長かったですから(それでも正式な婚姻外の生殖活動はいくらでもありましたが)、むしろ現在は「人為淘汰」的な淘汰圧はほとんどなくなった時代と言えるでしょう。これまで保たれてきた「人種間の生殖的隔離」も急速に取り払われつつありますし。 >しかし風土によって人間の雰囲気が変わってきませんか? その人間の「雰囲気」は、「選択淘汰の基準」に何か影響しますか? 訓練方法と選択の基準は、シェパードならドイツで作られて育種されてきています。日本でもシェパードの訓練はドイツの方法に倣っています。 まあ、日本人とドイツ人の基準の適用の仕方は若干異なるかもしれません。 その結果、日本とドイツのシェパードの持つ「性格」が多少異なってくるのなら、それは「性格は遺伝する」証拠の補強になりこそすれ、否定する根拠にはなり得ません。 日本とドイツのシェパードの性格に違いがないのなら、「性格は遺伝する」ことを否定する根拠になると思いますか? なりませんよね。 「シェパードとラブラドールの性格が違う」ことが何より強力な「性格は遺伝する」根拠に既になっているのです。そしてその証拠は1つではなく、ほとんど犬種毎に証拠立てができているのです。 日本とドイツのシェパードの「性格」に違いがないのなら、それは日本もドイツも訓練方法と選択基準は概ね同じなので、両国のシェパードの性格に人間の「雰囲気」はほとんど影響しない、という結論が出るだけです。僅かな違いがあっても検出できないのなら、訓練するのが日本人だろうがドイツ人だろうが、同じマニュアルに従って訓練する以上、犬に与える影響もほぼ同じだというのは妥当な推測ですから。 つまり、「性格は遺伝する」ことを論証するのに、日本人とドイツ人の「風土の違い」は、考慮する必要がない、ということです。考慮して調べてみて、どういう結果が出てきても結論に違いがないのですから。日本とドイツのシェパードの違いを調べてみて、どういう結果が出てくれば「性格は遺伝する」ことを否定することができると思いますか? 何かを取り出して論証しようとする場合に、細かな要素をどこまで考慮すればいいのか、というのはそうやって決めるのです。この要素で切り出したときにこういう成績が出れば、これまでの結論が覆る可能性があるのなら、そのデータは取らないといけませんが、「この切り方ではどちらに転んでも結論は影響されない」のであれば、その要素は考慮する必要はありません。 まあ、別の話でそこに注目することはあるでしょうけどね。日本人とドイツ人の訓練の仕方で、シェパードはどのように違うのか、を調べる意義はあります。その場合は、「犬の性格の違い」、「訓練方法の詳細な違い」等をもっと細かく分類する必要があるでしょう。
お礼
<Jagar39です。 何度も有難うございます。 <急にどうしたんでしょうか。私程度の人間なら理系の職場にはゴロゴロいますよ。 色々と感傷的になっていました。あなたに鍛えてもらって有難いな、としみじみ思っていたのです。 <つまり、人間は100%の証拠があっても信じないことができるし、証拠がゼロであっても信じることができる、 私は逆だと思うのですね。ソクラテスの無知の知という考えがある様に、そもそも100パーセントはなど存在しない。それが世界五分前仮説の最も言いたいことだろう、と。 <これは「科学の仮説」ではなく「哲学の説」ですから。 逆に言えば科学は哲学をもってすれば無意味になってしまうのでは? そもそも哲学的に考えた時に科学が簡単に否定されるのならば、科学はそれ程立派なものなのでしょうか? それは利己的な遺伝子説も同様かもしれません。 <キリスト教が"発生"したのは現在のイスラエルですから、 キリスト教は単発的に発生したのではありません。ユダヤ教から変化していったのがキリスト教です。ユダヤ人のユダヤ教がイエス・キリストによってキリスト教へと分裂した、と解釈すればほぼ正しいと思います。何事もポンと発生はしないかと思います。歴史でも発生するまでの背景は様々です。宗教で『発生』という単語が使われるのは恐らくははじめて見ました。 <それを言い出すと宗教と風土を結びつけること自体が怪しくなります。 このあたりは納得しました。一方で宗教自体も国によって違ってきます。同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントはだいぶ違います。同じ宗教でも風土によって少しずつ変化する、というのはあるでしょうね。 <アジアでも仏教国、イスラム国、キリスト教国がモザイクのように入り乱れています。 <これらの国々の「風土」にさしたる違いはないはずですが。 キリスト教国家に占領されて宗教が上塗りされてしまったからでしょう。上塗りされた宗教だけを見てはもともとの風土や国民性は見えてこないと思います。上塗りされれば、元の色などそう見えるものではありませんから。 <日本にもニュージーランドにもキリスト教が布教されたのに、日本では多数派とはなり得ずニュージーランドで多数派となったのは、「風土」より政治史の方が影響が大きいでしょう。 これは違いますね。日本は国家神道の影響が濃かったが故にキリスト教を受け入れることが出来ませんでした。政治的に神道や天皇崇拝が濃かったと言えども、そこに至るまでの国民性は矢張り風土が重要になってきます。水に恵まれて危険な病原体が他国に比べて少なく、台風によって他国の侵入からも守られる閉鎖的な風土。他国に侵入されることがほぼ無い故に、島国根性と言われる平和を求めて何事も曖昧に誤魔化す日本人像が出来上がりました。それと同時に散り行く桜に風情を感じるという『余裕』も生まれたのです。何故なら、他国の脅威がほぼ無かったからです。その様な平和な国ではキリスト教の様に砂漠生まれの元々が戦闘的な宗教が根付かないのはむしろ当然でしょう。神道は天照大御神という女性の神様ですが、キリスト教では『父なる神』という男性の神様を敬います。女性の神様を敬う平和な日本が男性の神様に助けてもらう戦闘的なキリスト教を受け入れられないのはある意味では当然です。国民性は政治史よりも風土に影響されます。上述からでも政治史よりもむしろ風土の影響によってキリスト教が根付かなかったことが見えてくるはずです。 <江戸時代から明治時代~大戦、戦後を経て現在に至るまでのほんの数世代の短期間では、日本人の遺伝子的な特徴が変化しません。 私は元々、江戸時代の話をしていたのではありません。もっと長い目で見た時に遺伝子的な変化が起こるよね、という意図を持って話していました。と、いうよりもなぜ江戸時代がここで出てくるのか不思議でなりません。 <犬が家畜化されてたかが1~2万年、犬種によっては本格的な育種が始まってからわずか数十年で <ここまで多彩な犬種を育種することができたのは、「効率的な人為淘汰」のおかげです。 こういうのはあまり知りませんでした。犬の話はとても勉強になりました。有難うございました。 <人間は「人為淘汰」されずあくまで自然淘汰によって進化しています。 人間社会は基本的に人為淘汰ではありませんか? と、いうよりもどう考えても人為淘汰と言えるはずです。西洋ではキリスト教を用いた人為淘汰がはびこっていました。日本でも同様にお上に逆らうと大変です。どの様な国でも人為淘汰が主流で自然淘汰はそれほどでも無いと思います。逆に自然淘汰がどの様に人間を淘汰するのか教えて下さい。 <日本人の中で戦後と現在(たった3世代ほど)では、日本人の遺伝子構成はまず何も変化はしていないでしょう。 そもそもそこに限定していません。いつから期間が限定されたのですか? <我々は何者かに生殖を「管理」されていますか? 管理されております。逆に管理されていないのですか? 直接的には管理されていませんが、現在、貧困層の人々は簡単に結婚できません。現代は『管理社会』と言われますが、制度が複雑になって見えなくなっているだけで、確実に管理されていると言えます。 <「年収3000万以下の者は子供を作ることを禁止する」というような法律でもできれば、それは人為淘汰の第一歩になるでしょうけど。 実際は年収300万円を境に結婚率がガクンと変化するようです。これも一種の人為淘汰では? 人為淘汰というのは、生殖できる個体に基準を設けて、集団の生殖活動を何者かが「管理」することを言います。 <ま、そういう意味では階級制度が存在して階級を越えた婚姻が認められなかった時代は <人類史上長かったですから(それでも正式な婚姻外の生殖活動はいくらでもありましたが)、 これは今でもそう変わらないでしょう。普通の男性が朝吹真理子氏に求婚しても大体は婚姻を拒否されるはずですから。逆にお嬢様は苦役列車の著者の西村賢太氏と結婚したいとは殆ど思わないのでは? (私は朝吹さんよりも西村さんの方が好きなので書いていて西村さんに対して申し訳なく思ってしまうのですが)その様な階級制度が無くなったというのはあくまでも建前であり、実際は階級制度は今でも存在しますよ。 <むしろ現在は「人為淘汰」的な淘汰圧はほとんどなくなった時代と言えるでしょう。 それは早計かと思います。現在では日本でも格差が広がってむしろ人為淘汰が広まっていると言えるでしょう。 <その人間の「雰囲気」は、「選択淘汰の基準」に何か影響しますか? 矢張り雰囲気は大きいと思います。日本人の女性は配偶者に求めるものは『優しさ』です。欧米の女性は配偶者に求めるのは『強さ』と感じています。雰囲気によっても選択淘汰の基準に影響します。もし雰囲気が影響しなければ、恋愛本が存在しないはずです。恋愛本では雰囲気についても教えるものです。雰囲気が影響しなければそもそも恋愛講座など存在しませんし、服の流行も存在しないのでは? <訓練方法と選択の基準は、シェパードならドイツで作られて育種されてきています。 <日本でもシェパードの訓練はドイツの方法に倣っています。 そうなのですか。知りませんでした。勉強になりました。有難うございます。 今回も色々と教えてくださって誠に有難うございました。論理的に鍛えられているのを実感しています。あなたに論理面を教えてもらわなければ大変でした。本当に感謝しています。
Jagar39です。 >科学の立脚点は宗教の補強なのです。科学史、勉強しましたか? >科学は神学のはしため、は有名な言葉です。 その言葉、「哲学は神学のはしため」だったのでは?? いずれにしろそれは中世ヨーロッパ限定の話であって、普遍的な話ではないと認識しています。 まあ、政治や社会制度そのものが宗教に立脚していた時代では、全てが宗教と結びついていたので、科学も宗教の補強となっていたことは否定はしません。 ですがそれは「科学の"起源"は宗教の補強」というべきであって、立脚点はその時代ですら科学と宗教では異なります。 宗教の立脚点は「神の言葉」とその解釈です。神の言葉は多くの場合は直接聞けないので、「神の言葉」は「神の代理人と称する人間の言葉」と同義ですが。その点は一神教でも土着的な多神教でも変わりません。シャーマニズムが原点でしょう。 科学の立脚点は「事実とその解釈」です。その解釈は論理によってなされるところも宗教とは立脚点を異にするところです。 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC >↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか? これも哲学の話で、少なくとも科学の議論ではありません。 「証拠」が全て捏造され得るという議論には反論することができません。このような反証不可能な議論は「科学」ではありませんよね。ついでに言えば、この「世界5分前仮説」を立証することもできません。 これは単に「科学がそこまで進んでいないから」ではなく、どのような証拠があろうが「そのように作られた」と言い張れば済むので、「本質的に反証不可能」な議論です。 ですから「証明されていないようです」というのはおかしいです。「証明も反証も不可能」な形をわざわざ考えているわけですから。 もし仮に全ての証拠が捏造されているのだとしても、全ての証拠がある推測を導くのなら、我々はその推測をするだけでしょう。つまり、「そんなことは我々の知ったことではない」ということです。 ><宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、 ><人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。 >そのような時代は本当に来るのですか? 来ないと思います。 今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、進化的に多数派にはなれないのでしょう。 なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。 >はい、成立しないと私は考えます ここの下りですが、実は「私が提唱した「性格は遺伝する」という議論」の反論になっていないどころか、全面的に支持するものです。 >たとえば日本人は和を大切にして、和を乱すような問題人は排除されます これはつまり、「和」を大切にしたり乱すという性格に「遺伝子」が関与している、ということですよね?私が主張していることを全面的に支持していただけるのですね? また「風土と遺伝子」も、非常に単純化している話ですよ。環境の全てが「風土」なので、それらを1つ1つ分解して考察しないと「幅広い視点」にはならないでしょう。日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、それはどのように説明しますか? それと、そういう意味では、犬にとっては「人間」が最大の「風土」です。気温や標高などはあまり関係ありません。 ブルドッグなどはあの短い鼻のおかげで極端に熱さには弱いのですが、それは飼い主たる人間がカバーするのですから。そもそもブルドックはあの頭の大きさから自然分娩がほとんどできません。現在のブルドッグは大半が帝王切開によって生まれているのですが、人間なしには「風土」云々以前にそもそも絶滅する運命の犬種です。 つまり、家畜たる犬にとっては「人間」が最大の影響を与える「風土」なのです。標高や地域などは犬にとっては微々たる問題です。 その「犬に対する人間」に着目したわけです。 「警察犬になる訓練」、「軍用犬になる訓練」、「盲導犬になる訓練」は、その国がどこであれ何国人がその訓練をするのであれ、訓練の方法は大差ありません。 >食虫植物は虫を食べます。その食べる為に虫を食べるのでは? これは意図とはいえませんか? 言えないでしょう。 「意図」というのは判断や意志といったものを伴う「精神活動」です。植物は精神活動ができません。そのための器官を持ちませんから。 車が通ると開くETCゲートは、「車を通そう」という「意図」を持ってやっているのですか? >『音楽……心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術。』 「託す」のは誰ですか? 「聴者の感動を求める」のは誰ですか? この文章では「感動を求める」存在と「託す」存在は同一の"省略されている主語"ですよね。 自然が「感動を求め」ますか?自然は「託して」音を出すのですか? この辞書の定義では、自然の音は「音楽」ではありません。 自然の音を「音楽」と認識するのは、いわば「自然の擬人化」によってなされていることなのでは? 単なる情報伝達のための音(鳥やカエルの鳴き声など)、単なる物理現象に過ぎない音(風や川の音)と区別するために「音楽」という言葉があるのではありませんか? 鳥の声を「美しい」と感じたり風や川の音を「楽しむ」のは、人間の主観です。 ホームレスは人類の中の1つの階層に過ぎません。 チンパンジーに楽団がない、というのは「チンパンジー社会のどこを見ても楽団は絶無」という事実を指しています。 では人類はなぜ楽団を作るのですか?「音楽を楽しむ」からではないのですか?ちょっとした歌遊びの延長に楽団があるのではありませんか?その「延長線上」のそれぞれの段階に定着した形式がありますよね?ソロ、デュエット、トリオ、カルテット・・オーケストラ・・と。 ではチンパンジーが「音楽を楽しんでいる」のなら、彼らはなぜ楽団を作らないのですか?楽団を作ることができるだけの知能と社会性は彼らは持っていますよ。 >小学生の喧嘩といわれましたが、あなたがそう思う理由を教えて下さい どこでそんなこと言いましたっけ??記憶にないのですが・・・あまりに大量のテキストを書いているので、失念しているのかもしれません。 人生の目的、真実は、誰か他人に規定されるものなのですか? もし質問者さんがそう思っているのなら、人生の未知に目的はあるのかもしれませんし、真実は1つかもしれません。 でも、現に私は他人に規定されるものではない、と思っているのですが、それは明らかに間違っていますか? 間違っていないのなら、人生の数だけ目的も真実もあって然るべきでしょう。 >フジテレビのビルは見る角度によって違って見えます それぞれの「見る角度」ごとに「形」は1つしかありません。 それらの情報を結集して、「本来のビルの形」を推測するとき、「正解」は1つしかありません。 私が、「科学の命題とは自然を切り出している」と書いたのは、ビルを「ある角度」から見ることに等しいです。 それらの知見が蓄積すれば、ビルの「正しい形」を導くことができる、ということです。 >殺処分と戦場は決定的に違います。あなたは戦場について研究したことがありますか? その人間の緊迫感を牛が「自分の死」と結びつけて受け取る義理があるのか?ということを言っているのです。 口蹄疫の殺処分でも人間は相当な緊迫感を持ちます。事実、人間にとっても危険ですから。宮崎で30万頭近くの殺処分をする中で重大な怪我人が3人ほどで済んだのは僥倖と言って良いくらいです。私が7日間働いただけでも、私自身「あの時は危なかった・・・」と肝を冷やしたことが何度もありますから。 その緊迫感は、「牛の死」と直結しています。牛を殺すための作業なのですから。 その緊迫感は牛にも伝わります。そりゃ白装束を来た人間が数十人もやってきて片っ端から牛を連れ出し、その牛たちが次々と倒れていくのですから、どれだけ牛が鈍くても異様な雰囲気は感じて当たり前でしょう。 でも、牛たちはその緊迫感を「自分の死」と結びつけて受け止めた形跡はないと感じました。 本と現実は違います。 >そのような本がすなわち現代の医学界の問題とされる分野の本なのです。私自身に迫害が及ぶので一応、ここでは書きません。これはすみません。ただしその本を書いた人達は皆が医者です。内部告発の本です。彼らはしっかりと手順を踏んだ上で意見を主張しています 医者であればまず間違いなく、何らかの「学会」には所属していると思いますが。 また、それらの本が「しっかりと手順を踏んでいる」ことが、どうして判るのでしょうか? 失礼ながら、質問者さんは「しっかりとした手順の踏み方」を未だご存じないように思えます。これまでの議論からはそう見えますね。 と、きついことも書いてみましたが、再反論をお待ちしています。
お礼
<Jagar39です。 何度も有難うございます。あなたにはかないません。あなたのように賢い人と議論できて私は幸せです。お世辞ではなく、本当に。それに私は楽しませてもらっています。 <その言葉、「哲学は神学のはしため」だったのでは?? その通りです。私が間違えていました。 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C% … >↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか? これも哲学の話で、少なくとも科学の議論ではありません。 <「証拠」が全て捏造され得るという議論には反論することができません。 科学の証拠が全て捏造されている、とは言いません。然しながら世界五分前仮説は全ての物事のあやふやさを示しています。よって科学自体もあやふやではないか、ということです。 <来ないと思います。 <今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、 <進化的に多数派にはなれないのでしょう。 <なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、 <「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。 説得力があります。 <日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、 <つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、 <それはどのように説明しますか? ニュージーランドのキリスト教は欧米の人間が持ってきたものでしかありません。ニュージーランドでキリスト教が発生したのではありません。よってニュージーランドの最大の宗教がキリスト教であることは風土的には大した意味を持たないと考えます。風土によってキリスト教が生まれたわけではないのですから。 <現在のブルドッグは大半が帝王切開によって生まれているのですが、 そうなのですか。驚きました。勉強になりました。有難うございます。 <その「犬に対する人間」に着目したわけです。 その部分を切り取った、ということですね。 <「警察犬になる訓練」、「軍用犬になる訓練」、「盲導犬になる訓練」は、 <その国がどこであれ何国人がその訓練をするのであれ、訓練の方法は大差ありません。 しかし風土によって人間の雰囲気が変わってきませんか? 白人と黄色人種では矢張り雰囲気が違うと思います。 <植物は精神活動ができません。そのための器官を持ちませんから。 普通はそう思います。また、私はこれに反論するほどのものを持ち合わせていません。 >『音楽……心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術。』 <「託す」のは誰ですか? <「聴者の感動を求める」のは誰ですか? 新明解国語辞典は多様な解釈が出来るように、あえて誤魔化しています。言葉を厳密に定義するというよりはより広がりを持って定義しているようです。英語のように主語・述語・目的語がハッキリしていないのがそもそもの日本語の性質です。日本語は曖昧な言語です。日本語に厳密性を求めたら、大変です。厳密性を求めたら、政治家はどうなりますか? 『最低でも県外、出来れば国外』などと言った鳩山さんの言葉があります。これも『何が県外?』『誰が移動する?』などは全て不明です。このような文はいくらでもあります。日本語ではこのあいまいさが却って普通と私は考えています。それが日本語です。そういう意味では新明解国語辞典は日本語に即した正統派の辞書と私は思っています。曖昧だから日本語は小説に向いています。 <この文章では「感動を求める」存在と「託す」存在は同一の"省略されている主語"ですよね。 そのような所は曖昧です。同一とも限りません。 <この辞書の定義では、自然の音は「音楽」ではありません。 <自然の音を「音楽」と認識するのは、いわば「自然の擬人化」によってなされていることなのでは? 擬人化でなくとも、音楽と考えれば音楽と言えます。 <単なる情報伝達のための音(鳥やカエルの鳴き声など)、単なる物理現象に過ぎない音(風や川の音)<と区別するために「音楽」という言葉があるのではありませんか? <鳥の声を「美しい」と感じたり風や川の音を「楽しむ」のは、人間の主観です。 逆に音楽はそれ程自然と変わるのでしょうか? 洞窟の音楽や水辺の音楽というのもありますが、あれは物理現象に過ぎない音と大して変わらないと感じます。音楽といっても静かな、単純なものならば、単なる情報伝達や物理現象に過ぎない音よりも音楽はもっと単純とも思います。それ程区別できないのでは? <ではチンパンジーが「音楽を楽しんでいる」のなら、彼らはなぜ楽団を作らないのですか? <楽団を作ることができるだけの知能と社会性は彼らは持っていますよ。 音楽を楽しんでいるからといって楽団を作らなければいけない、ということではありません。鳥も音楽を楽しんでいますし、異性を鳴き声で呼び寄せる動物もいます。しかし彼らは楽団を作っていません。『音楽を楽しんでいる=楽団を作らないとおかしい』というのはやや論理に無理がある気もします。 <人生の目的、真実は、誰か他人に規定されるものなのですか? かもしれないと思うことはあります。人ではなく、神や天という思想を持ち出した時には。 <現に私は他人に規定されるものではない、と思っているのですが、それは明らかに間違っていますか? 他人に人生が規定されたら大変でしょう。人知を超えた存在に規定される、という考えを持ち出した時には間違っていると言えるかも知れません。とはいっても人知を超えた存在、いわゆる神の存在は科学的ではないとも言えます。また、現代の一般的な価値観では矢張り神や天という思想は馴染まないかもしれませんね。 <間違っていないのなら、人生の数だけ目的も真実もあって然るべきでしょう。 現代人ならそう考えるでしょうし、それで良いと思います。 <それぞれの「見る角度」ごとに「形」は1つしかありません。 <それらの情報を結集して、「本来のビルの形」を推測するとき、「正解」は1つしかありません。 しかし『ある方向から見たビルの形』を推測する場合、正解はいくつも現れます。また、本来のビルの形、とありますが、ビル自体が常に『動いています。』ビル全体が常に空気の酸素で酸化しています。ビル自体が常に地面と共に僅かに動いています。また、ビルの構成原子の中の電子は常に移動していて一定ではありません。ゆえに電子の場所を推察するシュレーディンガー方程式があるのです。よって、厳密には正解は1つではありません。 <それらの知見が蓄積すれば、ビルの「正しい形」を導くことができる、ということです。 厳密には正しい形は無理ではありませんか? その形もあくまでも『大体』の厳密性しか持たないのではありませんか? 正しい形とは厳密に言えば素粒子ひとつひとつの場所まで規定することでは? <その人間の緊迫感を牛が「自分の死」と結びつけて受け取る義理があるのか? 人間の緊迫感どころか、人間が正気を完全に失います。戦場では体中ががたがた震えて、訳のわからない言葉をブツブツ言うほどに追い込まれます。正気を失った人間と共にいれば牛も矢張り正気を失うのではありませんか? もしくは、牛も(ただごとではないな)と緊張するのでは? それで牛も自分も『死ぬ』と思うのでは? <宮崎で30万頭近くの殺処分をする中で重大な怪我人が3人ほどで済んだのは僥倖と言って良いくらい 戦争で敵の30万の兵隊を殺すとしたら味方も30万近く殺されます。10万倍以上も死ぬ確率が高い、というのは矢張り緊迫感が違います。 <本と現実は違います。 そうですね。名言です。 <また、それらの本が「しっかりと手順を踏んでいる」ことが、どうして判るのでしょうか? 臨床の場を通して自分の考えが正しいかどうかを見ている、ということです。このあたりは私が判断するのは良くないでしょうけど。一方で現代の主流の論理が致命的に間違っている、ということを彼らは述べていますし、臨床の場でもそれを確かめています。実際に彼らの論理では主流の学説よりも圧倒的に良い臨床結果を残しています。私はこれで充分だと思っています。手順を踏めば万全、というのは個人的には疑問を感じる面も否定できません。 <失礼ながら、質問者さんは「しっかりとした手順の踏み方」を未だご存じないように思えます。 <これまでの議論からはそう見えますね。 <と、きついことも書いてみましたが、再反論をお待ちしています。 その通りですね。私などまだまだです。きついどころかあえて厳しいことを書いてくださって嬉しく思います。あなたに鍛えられて成長しているのを実感しています。愛の鞭を有難うございます。何度も色々と教えてくださって嬉しいです。本当に有難うございました。
補足
<年間降水量も平均気温もあまり差がない とあります。しかし年間降水量という、年間の降水量の総和と年間の平均気温だけを見ては不十分ではありませんか? 季節による降水量の変化、年間の気温の変化まで見なければいけません。 手元にある『Dorling Kindersley World Reference Atlas』によると 平均気温: 日本は一番暑い時が30度、一番寒い時がマイナス2度、ニュージーランドは一番暑い時が21度、一番寒い時が6度です。 ニュージーランドは一年を通して涼しいようです。日本は寒暖の差がニュージーランドよりも大きいようです。一年を通した平均気温が同じでも、その変化は違ってきます。平均気温だけにとらわれてはいけないのではないでしょうか。 降水量: 日本は一番多い時が240ミリ、一番少ない時が50ミリ、ニュージーランドは一番多い時が130ミリ、一番少ない時が90ミリです。 ニュージーランドは一年を通して降水量は大して変わらないようです。日本は夏と冬で降水量が大幅に変わります。日本は寒暖の差だけでなく、降水量の差もニュージーランドよりも非常に多いといえるでしょう。 以上のことより <日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、 <つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、 <それはどのように説明しますか? 日本とニュージーランドの風土があまり違わないという前提自体が間違っています。 昔のアトラスが役に立ちました。またアトラスを読み直して楽しんできます。アトラスを使う機会を与えてくださってまことに有難うございました。
このところ一度に2本ずつ書くのが定番になってしまっているのはまずいなと思ってはいるのですが・・・ 1本ずつは少しずつコンパクトになってきているので、もう少しかな。 >私は科学が完全な形になり、それが信仰と一致しないならば信仰は砕かれてしまうと思います。最後は科学はそこまでいくと私は考えます。 人間は矛盾するものを共に心に抱えることができる精神構造を既に獲得しています。ですから科学がどこまでいってもそれによって宗教が砕かれることはないでしょうし、そもそも科学と宗教は立脚点がまるで異なるので、それを科学の指標にするべきでもないと思います。 単に知見だけで言えば、科学は既に宗教を砕くところまで達しています。 ヒトは神によって"神に似せて"土から創造されたのではなく、類人猿から進化してきたことを示す証拠はもう十分あります。ヒトが神から「地上の管理者」を委託された特別な存在なのではなく、他の生物と何も変わらない、たまたまこの数百万年の間で著しい成功をした生物種の一つに過ぎないことも、「証拠」はもう十分です。 つまり少なくとも、キリスト教の「全能の神」は存在しない、という証拠はもう十分挙がっていると思いませんか? そのことによって宗教が砕かれないのは、科学が不完全だからではなく、ヒトが無慈悲な自然を受け入れたくないから、ではないでしょうか?受け入れたくないから部分的には科学を受け入れつつ、でも不完全ながら十分な証拠が挙がっているのは横に置いておいて、「科学がまだ不完全だから」というセリフを逃げ口上にして、科学と宗教の矛盾を抱えているのでは。 宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。 宗教が人類に与えてくれたものを科学が与えてくれないのは明白ですから。 >丁寧な議論では反論の足がかりすら与えないはずです。 手の内を晒せば晒すほど、その論理構成のそれぞれのステップに異論を提出することができます。 逆に「あんたの言うことは科学的には間違いだ」と一言で済ませると、反論のしようがないでしょ? それぞれのステップに反論を試みて通用するか検証して、それで初めて著者が主張する結論が「どれくらい妥当か」を判断できるのです。 また、その結論を修正するための、あるいは補強するための「論理」を読み手が展開させることができるのです。 質問者さんはどうしても「結論(すなわち知識)が正しいか否か」を最優先させて考えがち、というよりそれのみに価値を見いだしがちですが、大切なのは論理です。論理が正しければ結論は自ずから妥当なものになりますし、論理が間違っていれば必然的に結論も間違っているものです。 先に、「科学の未知は命題に対する真実の答えは1つ」と書きました。 でも、その「命題」はたいてい現実からは乖離しています。 なぜなら、現実の自然界は無数の要素が絡み合った現象なのですが、複雑な現象を複雑なままで論じることも理解することもできませんから、1つずつ分解しながら理解を進めていくしかないわけです。 ですから、「性格は遺伝する」ことを「犬の性格を人為淘汰によって定着させてきた」という事実を論拠として論じる場合も、他のあらゆるパラメータは無視します。というより正確には「無視できる形を作って議論する」わけです。それは実験系ならもっと意図的かつコントロールされた状況下で行われるわけです。 そうやって命題が真か偽かを論理によって推測するわけですが、そのは命題そのものが現実の自然そのものではなく、ある形で「切り出された」自然であることを意味します。でもそれは自然そのものではないから現実的には意味がない、のではないのです。複雑な現実の自然でも、どこかで生きているシステムであるわけです。 その、「命題そのものがどのような「切り出し方」をされているものなのか」、「その命題が真であるとされた論理構成」を理解しないと、目の前の現実の中でそれがどのように生きているのかを考えることができません。 再び相対性理論を例に挙げると、特殊相対性理論は「現実の自然」を非常に思い切った形で切り出した命題です。つまり「等速直線運動」に限るという前提付きなわけですよね。 そこの前提から1つずつきちんと理解を進めないと、「双子のパラドックス」なんてカビの生えた話を持ち出して、「相対論は間違っている」などという誤解をしてしまうわけです。 これだけ解説書が何冊も出て丁寧に説明されていても、まだこれを持ち出して相対論がおかしい、という人は後を絶ちません。 それは「相対論が科学として不完全だから」でしょうか? そうではなく、受け手の問題なのではないですか?最初から1歩ずつきちんと理解を進めていけば、こんな初歩的な誤解はしないものでしょう。結論(高速で運動する時計は遅れる、運動は全て相対的なものである)だけをさくさくと読んで理解したような気になっているから、そんな誤解をするのではありませんか? >また、この言葉尻を取り上げるのは大事なのでしょうか? 言葉尻を取り上げたつもりはありません。そのように受け取られたのならお詫びします。 ただ、私にとっては「専門書」にそのような定義の使い分けは必要ありません。 というのは、 >しかし論文を書けなくても専門書、即ち総論に対する突っ込んだ各論は書けますし、事実、私はそのような本も持っています 職人のための技術書なら話はまた別ですが、「科学分野の専門書」は不可能です。第一研究者としての実績がない人には「専門書(いかなる定義でも)」の執筆依頼が来ないでしょう。 そのような本をお持ちとのことですが、何という本なのでしょうか。その著者は研究者ではないのですか? 学会に入ったところで何かに縛られるわけでも自由が奪われるわけでもありません。 議論も「他人をねじ伏せる」ためにするのではありません。科学的な「真実」に近づくためにするのです。自分の中で緻密な論理構成ができていない話では当然他人を納得させることはできませんが、それ以前にその話はたいていの場合「科学的に間違っている」可能性が高いです。 また、例えば「エベレスト頂上での水の沸点」という「未知のこと」を知るのに、それこそwebで調べれば5分で知ることができます。これも確かに「未知の探求」です。 でも、それより自分で、それを知るためには何が必要か考えて実行し、自分で推定する方が楽しいと思うのですが? また、その成果を世に問うことで、さらに精度を高める方法(天候の変化による気圧変化を補正すればもっと精度が向上するよ、とか、単になんとなくグラフを描くのではなく回帰式を出した方が良いよ、とか)を教えてもらえるかもしれません。 そういう経験があるのとないのでは、同じ本を読んでも読み方ががらりと変わってくる、ということを言いたいだけです。
お礼
このところ一度に2本ずつ書くのが定番になってしまっているのはまずいなと思ってはいるのですが・・・ 1本ずつは少しずつコンパクトになってきているので、もう少しかな。 <ですから科学がどこまでいってもそれによって宗教が砕かれることはないでしょうし、 その考えは興味深いです。 <そもそも科学と宗教は立脚点がまるで異なるので、それを科学の指標にするべきでもないと思います。 科学の立脚点は宗教の補強なのです。科学史、勉強しましたか? 科学は神学のはしため、は有名な言葉です。 単に知見だけで言えば、科学は既に宗教を砕くところまで達しています。 <ヒトは神によって"神に似せて"土から創造されたのではなく、類人猿から進化してきたことを示す証拠<はもう十分あります。ヒトが神から「地上の管理者」を委託された特別な存在なのではなく、他の生物<と何も変わらない、たまたまこの数百万年の間で著しい成功をした生物種の一つに過ぎないことも、 <「証拠」はもう十分です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC ↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか? <つまり少なくとも、キリスト教の「全能の神」は存在しない、 <という証拠はもう十分挙がっていると思いませんか? クリスチャンに失礼ながら、私もそれに同意はするのです。 <そのことによって宗教が砕かれないのは、科学が不完全だからではなく、ヒトが無慈悲な自然を受け入<れたくないから、ではないでしょうか?受け入れたくないから部分的には科学を受け入れつつ、でも不<完全ながら十分な証拠が挙がっているのは横に置いておいて、「科学がまだ不完全だから」というセリ<フを逃げ口上にして、科学と宗教の矛盾を抱えているのでは。 このあたりは非常に鋭いです。有難うございます。 <宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、 <人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。 そのような時代は本当に来るのですか? <宗教が人類に与えてくれたものを科学が与えてくれないのは明白ですから。 そうかもしれません。 <「結論(すなわち知識)が正しいか否か」を最優先させて考えがち、というよりそれのみに価値を見い<だしがちですが、大切なのは論理です。論理が正しければ結論は自ずから妥当なものになりますし、 <論理が間違っていれば必然的に結論も間違っているものです。 そうですね。未だに知識にこだわっている自分がいます。もっと論理を大切にします。そしてあなたとのやり取りでも論理面は少しずつ鍛えられています。有難うございます。 <先に、「科学の未知は命題に対する真実の答えは1つ」と書きました。 <でも、その「命題」はたいてい現実からは乖離しています。 <なぜなら、現実の自然界は無数の要素が絡み合った現象なのですが、複雑な現象を複雑なままで論じる<ことも理解することもできませんから、1つずつ分解しながら理解を進めていくしかないわけです。 <ですから、「性格は遺伝する」ことを「犬の性格を人為淘汰によって定着させてきた」という事実を論<拠として論じる場合も、他のあらゆるパラメータは無視します。というより正確には「無視できる形を<作って議論する」わけです。それは実験系ならもっと意図的かつコントロールされた状況下で行われる<わけです。 <そうやって命題が真か偽かを論理によって推測するわけですが、そのは命題そのものが現実の自然その<ものではなく、ある形で「切り出された」自然であることを意味します。でもそれは自然そのものでは<ないから現実的には意味がない、のではないのです。複雑な現実の自然でも、どこかで生きているシス<テムであるわけです。 <その、「命題そのものがどのような「切り出し方」をされているものなのか」、「その命題が真である<とされた論理構成」を理解しないと、目の前の現実の中でそれがどのように生きているのかを考えるこ<とができません。 このあたりは非常に興味深く、楽しく読めました。有難うございます。私は相対性理論に限らず全ての理論は鵜呑みにはしていません。それぞれについて考察をしてはいます。 <言葉尻を取り上げたつもりはありません。そのように受け取られたのならお詫びします。 <ただ、私にとっては「専門書」にそのような定義の使い分けは必要ありません。 謝らせてしまって申し訳ないです。本来ならそのような曖昧さは私が控えるべきでした。すみません。 <そのような本をお持ちとのことですが、何という本なのでしょうか。 <その著者は研究者ではないのですか? そのような本がすなわち現代の医学界の問題とされる分野の本なのです。私自身に迫害が及ぶので一応、ここでは書きません。これはすみません。ただしその本を書いた人達は皆が医者です。内部告発の本です。彼らはしっかりと手順を踏んだ上で意見を主張しています。 今回も色々と教えてくださって有難うございました。
お礼
そうですね。私は人の縁には恵まれな人生だったので人に対して壁を作ります。鎧とも言えます。あなたのホームページなどを拝見してあなたの人柄などが分かって安心しました。割と迫害されてばかりの人生で、人が怖かったりするのです。私はバガボンドの主人公と割と似ていると思います。 そういえば西洋はねじ伏せる医療ですね。これは参考になりました。人体のフィードバックはまだ10パーセント程度しか研究されていません。(by標準生理学第6版)よってアヘンなどの外因性では体内のオピオイドと微妙に構造式や受容体の種類や作用も違うと思います。そのあたりももう少しくわしく調べると面白そうですね。ひとつ官能基がつくだけでも変わってしまう所が科学の奥深い所です。 私も傲慢ですね。色々と欲深くもあります。確かに己の醜さ・弱さを自覚しているか否かは大きな違いと思いますね。自分の悪を知らないか。自分の悪を知って反省するか。悪と知って、更に悪を犯すか。人間は3種類に分かれそうです。 <誰でも同じ、医者に限らず善人もいるしクズもいる。バカも利口もますよね。 私は人に順列やその様なラベルを貼るのは好きではありません。クズと思われる人も差別しないで、立派な人間に育てよう。そういう姿勢が私は大事だと思います。バカだったら色々と教えてあげれば良いと思っています。こちらのホームページでも。私だって苦労する前はわがまま放題のクズ人間でしたし、勉強する前はバカで仕方がなかったと痛感しています。私自身は誰も責められないと考えております。このあたりは少々価値観が違っているのかもしれませんが……。 慈悲と同意。そうですね。一方でかわいい子には旅をさせないと、とも考えています。昔、成る程と思ったやり取りがあります。「お前は死神とどこが違う。」「死神はお前に終焉をもたらす。私はお前に道を作ってやることができる。あとは自分で歩くが良かろう。」たとえ可哀想でも心を鬼にして鍛える、不幸に耐えさせる。そういう態度は大事だと思っています。自分自身も不幸で色々と鍛えられました。不幸は道を作ることも多いと思っています。 小室さんは私も最初は派手だと思っていました。しかし彼の歌の楽譜を手に入れる機会があって、それらを熟読したら(意外と単純なメロディー)と驚きました。シンセサイザーがうるさいだけで、メロディーラインはいい意味でシンプルでしたね。 こちらこそとても勉強になりました。昨日、産経新聞で衝撃的な内容が書いてありました。どうやら東北大震災に連動した大震災が関東・伊豆半島などで起こるのが確実だそうです。お互いに地震対策を万全にして生き残りましょう。そちらは都心に近いので、どうかお気をつけて。足袋よりも靴を履いてください。脱げない靴をはいてください。浮き輪は火の粉で溶けてしまいます。防火金庫ですら火災に1時間しか耐えられません。家や不動産はあきらめて体ひとつで逃げましょう。防火シートは「燃やして」処分します。防火シートでは不動産は守れません。私はそうします。川に飛び込むと深みに足をとられて溺れてしまいます。公共施設に逃げてください。公園では火の粉にやられてしまいます。子供という弱者を守れる小学校へ逃げてください。荷物は出来るだけもたないで逃げてください。命が大切です。荷物は後でどうにでもなります。 お互いに生き残りましょう。また何らかの機会であなたとの縁があると嬉しいです。この度は本当にありがとうございました。