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大地の歌 告別の解釈

マーラー、大地の歌の「告別」で、ながらく西野茂雄訳(ニューエンジェルベスト100LP)により、山に入るのは、私ではなく彼だ、と思っていました。突然に私に対して彼はこのように(山に入ると)打ち明けるのかと、唐突感がありましたがそれなりに不気味です。 ところが、ワルターのLPについている宇野功芳訳では、友は私に「何処に行くのか」と尋ね、私は口を開く、「友よ・・・・私は山にさまよい入る」となっています。 (ドイツ語が分かりませんが)どちらとも解釈できるのでしょうが、宇野訳のほうが告別全詞が「私」の立場からの告別として一貫性があり分かりやすいと思います。特に、この解釈の相違がでる部分の前にある「私は最後の別れを告げるために友を待っている」の部分は、西野、宇野とも同様の訳ですので、ここで「最後の別れ」になることを、私が友に会う前に分かっているのは、私が「(山に入る前の)最後の別れにしようと決心している」からだと考えるのが自然だと思います。 山に入るのは私でしょうか、彼でしょうか。

みんなの回答

回答No.1

Er sprach,seine Stimme war umflort: Du,mein Freund, mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold! Wohin ich geh'? Ich geh',ich wand re in die Berge. Ich suche Ruhe,Ruhe für mein einsam Herz! ここの Wohin ich geh'? Ich geh',ich wand re in die Berge. この部分でしょうか。Ichは、字義通りだと私となります。直接話法で、わが友(mein Freund)とも取れますね。 Ichがわが友だとすると、その後の、 Ich wandle nach der Heimat,meiner Stätte! ここのIchを私とすると、彼は山に行き、自分は故郷に帰るという意味合いで上手く対応とれそうです。 色々、斟酌すると、山に入るのは彼の方が私としても、すっきりします。 ドイツ語に堪能な人でも、2通りの解釈ができると思います。 この歌詞は、王維の送別と孟浩然の宿業師山房期丁大不至からインスピレーションを得ているので、これらの漢詩を調べるのも面白いと思います。

mituo4646
質問者

お礼

ありがとうございます。山に入るのは私とも彼とも解釈できるということですね。 質問では、宇野訳のほうが(歌詞として)合理的だと考える、と書きましたが、マーラーの曲調は友が場面に出てくる前後では一変し、突如の不気味な転回をしますので、マーラーは、友が山に入ると解釈しているのではないかと、考え直しました。(今まで西野訳に従い僕がそう思ってていたとおりです。) 歌手なり、指揮者なりは、どちらに解釈しているのでしょうかね。これも2とおりあるのでしょうか。

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