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春日局が大奥総取締役に就任したのはいつ?

“春日局”こと“斎藤ふく”が大奥総取締役に就任したのは何年のことですか? よろしくお願い致します。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 回答から先に述べますと、 寛永3年(1626).10月です。 2代将軍秀忠の正室お江(おごう、または、江与・えよ)は慶長9年(1604)7月に初めての男児、第5子の竹千代(家光)を、次いで同11年5月には国松(忠長)と、二人の男子を千代田城で産んだ。 その4ケ月後の9月、本丸が完成し、前年に将軍となっていた秀忠はお江とともに本丸御殿へ移った。千代田城の大奥はこれから形成されていった。(なお、当時は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ばれ、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました)。 それまでは、奥向きは城の奥にはあったが、お江は秀吉や家康のように妻妾同居を見て、その争いも見てきた。また、奥向きとは言え、表向きと変わりなく男子が自由に出入りできていたことを快く思わず、本丸に移ってからは女だけの空間(大奥)をつくろうとした。これには竹千代の乳母である春日局も協力して大奥が誕生した。 そして、家康の死の2年後の元和4年(1618)、秀忠は徳川幕府の根本となる「大奥法度」を発布した。 これにより、大奥は完全に「女の園」となった。 その内容は、「男子禁制」「午後6時以降の出入りの禁止」など五箇条からなる。 この定めは寛永3年(1626)9月15日にお江が亡くなってから、同年10月に春日局が「大奥総取締」となってからも厳しく守られたが、春日局はお江が認めなかった側室を次々と引き入れ、世継ぎの出生確保という新しいシステムとした。

05114025
質問者

お礼

ありがとうございます。 詳しすぎる説明、とても参考になりました。 本当にありがとうございます!