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メディアリテラシーと学校教育
例えば、日本語の文章を読む時、古文の知識がなければ、「徒然草」などの古典は読めません。しかし、メディアリテラシーの知識がなくても新聞は読めます。 ここに落とし穴があります。学校でも国語は文学の精読に主眼が置かれていて、文学よりももっと身近な メディアの読み方は教えてくれない。むしろ、一部の大学生の専門分野に過ぎない気もします。なんかおかしい。そこで、メディリテラシーと学校教育のあり方について意見を求めます。先ずは http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=667907のNo.5の方の回答を参照ください。
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- may-may-jp
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#667907でも答えさせていただいた者です。時代が変わって、教育がそれに追いついていない、というところではないでしょうか。 ほんの数十年前は、メディアに触れられる人は限られていました。学歴でいえば大学生以上、そしてそういう人の多くは卒業後日本をしょって立つ人たちでした。「偉い人」たちだったのです。このような人は総じて教養がありましたので、メディアリテラシーなんてことを言わなくても肌で感じて分かっている人ばかりでした。 一方で、学歴の低い者に情報がもたらされることは極めて少なかった。メディアに関しても新聞やテレビ・ラジオなど手段が限られていたために、公権力からも管理がしやすく、自分たちのきれいな部分だけを見せることが可能でした。知らなくて済んだので、不満を覚えることも少ない世の中ではなかったかと思います。 しかし、時代は変わりました。小学生でもインターネットにアクセスできるようになったのです。情報の渦の中に放り込まれて、それを取捨選択する必要が出てきました。 こうなると、教養=基礎学力の差が歴然と出てきます。基礎学力の高い子供は放っておいてもある程度経験を積めば「メディアとはどんなものか」というのを知ることになると思いますが、アホな子には言わないと分かりません。この点で、メディアリテラシーが必要になるであろうことには賛成です。 しかし、これを指導できる先生がどのくらいいるかというと、疑問です。例えば北朝鮮やアメリカ、中国などの政治が絡む問題にどこまで教育が介入できるのか。先入観をはさまずに指導することは大事ですが、国家としての教育の役割からいうとなかなか難しい問題です。一つ間違えると日本崩壊の危機です。 また、時代とともに政治的思惑も変化すると思いますが、それが教育に反映されるのは数年先になるでしょう。その間にも古い概念を教えつづけることになります。それが良いこととは、当然ながら思えません。 戦後の歴史を教えることにも躊躇しているような文部科学省が果たしてどこまで踏み込めるのか、現実的にはなかなか難しい問題だと思います。義務教育(高校まで?)期間中はノンポリ教育を行うという50年来の方針がある一方、義務教育のうちに日本人として基本的な考えを身に付けさせるには情報に対する指導が必要というジレンマに陥っているのだと思います。 当局がどこまで腰を据えて取り組むかにかかっていると思います。 私自身の意見としては、「メディアリテラシー」と特別に時間を作らないまでも、何かの折に一言教えてもらえるだけでだいぶメディアに対する見方は変わると思っています。それが成功するには、生徒にその言葉を理解できるだけの基礎学力と生徒に響かせるだけのタイミング・指導力が必要ですが、クラスの何人かでも分かる生徒がいれば、その指導は意味のあるものだったのではないかと思うのです。
お礼
回答ありがとうございます。私が提起しているメディアリテラシーはそんなに難しく考える必要もないんですよ。つまり情報を送る側と受ける側の問題です。 そういえば 徒然草だって1000年後の将来を見据えて 大学受験の問題や国文学者の研究の題材のために書かれたわけではなくて、当時は貴族たちの知的な道楽だったんですからね。