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どうして私は生きられたのでしょう?
今回地震で被災した者です。 私は人に優しくするのも苦手ですし、いつも自分のことだけ一番に考えてしまいます。自分で言うのも何ですが性格悪いです。 こんな私なのに自宅も家族も親戚もみんな無事で悲しい思いはすることはありませんでした。 出来るなら、どうしても生きたかったのに亡くなった人と自分の命を入れ替えてあげたいです。 今までいつ死んでも良いって思ってた私が生きられたことに何か意味があるのでしょうか?
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- otherwind
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[最終的に]実現するためには、死の中に[一時点の瞬間ではなくて継続する]時間という次元を導入しなければならない。[一旦、死んだ後に、最終的に死ぬまでの間に]最後に嘆くための時間、そして場所――つまり、幻想の枠組み――が必要なのである。 ============================= 経験的な意味での事物や出来事は現象の秩序に属し、この意味での人間の行為も過去の時間からの規定を受けていて、われわれの自由にはならないもの、絶対的な自然必然性に服するものである。にもかかわらず、人間は、理性の判断による行為を、この自然必然性からは離れてただ道徳的法則に服するものと見なすのである。 したがって、理性を有した存在であれば、自分の行為を、現象としては、すべてが原因性の因果のうちにあって必然性をもつという事実を認めたとしても、実際にはそうすることはありえなかったにもかかわらず、彼は自分の行為を思いとどまることができたはずだ、と考える。この思いとどまるという「行為」は、全く自然法則から離れて自分自身にその原因性をもつものと見なされているのだ。 この事情は、ふつうわれわれが「良心」と呼んでいるものにそのまま重なる。人は、自分の結果的に道徳に反することとなってしまった行ないについて、自然必然性のなせるわざ、つまりどうしようもなかったことであって、自分には責任がないことであると、事実を認識できるかもしれない。しかし、人は、悪は、自分の自由から出たものであり、言い訳のきかないことだという幻想をもっている。 人は後悔の念をもつのだが、まさしくそれは、道徳的心意、つまり良心から生じる心の痛みであるという。この道徳的な心の痛みとしての「後悔」は、自然的時間の因果性をこえて人間が自分の行為をさかのぼり、かくあるべきだったという感情に襲われることである。このようにわれわれの現象的な「感性的生活」は、いわばそのうちに可想的秩序(自由の秩序)を含みこんでいるのだ。 だから、もし自分の行為の外的、内的な諸条件のすべてを隅々まで知り尽くすことができ、自分の生活の行為の因果的必然性の事実をすべて知悉できるとしても、その場合でさえ、われわれは、自分の「自由」をもつことを疑わないという幻想を捨てないのだ。 われわれの意志と行為は、われわれの主観にかかわりない完全に自然法則のうちにあるという事実を語ることは可能ではあるが、しかしそのような事実認識にもかかわらずわれわれは、自分の行為を、自分自身の「自由」によるものであるという幻想にも生きている。 この幻想は、人間に普遍的に妥当する幻想である。 それゆえ、人間における道徳的完全性とは、つねに自分の不完全を意識しつづけること、正に最高善の実現に反復して失敗し続けること、それでもなお彼岸の道徳的法則にしたがおうとする、此岸での持続的な努力それ自体のうちにある。 ================= 上記から、私が思うに、人間は、他人から見たら、どうしようもなかったことについても、いつでもつねに必ず、後から「後悔」するものだと思います。 それが、人間の良心というものだと思います。 人は、みな、自分は、悪人であると思っているということになりますが、正に、そう思うことが、人間的なことだと。 人はみな誰も、自分の人生を他人にかわって歩んでもらうことはできず、自分に与えられた人生を、力いっぱい、一生懸命生きることしかできないのでしょう。 それでも、人は、みな、他の人の悲しみに寄り添いたい、というものでもあるのでしょう。 なぜ、自分は生まれたのか、なぜ自分は生きているのか…。答えは与えられているのではなくて、作るものなのだと思います。一生懸命、全力で、生き抜いた後にしか、では自分が生きた価値はなんだったのかは、人にはわからないのでしょう。
- otherwind
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さらにカントはつけ加える――「理性的かつ有限な存在者[人間]にできることは、道徳的に低次の段階からより高次の段階へと果てしなく前進しつづけることのみである」。 この「演繹」やその前提に読者は困惑する――理性的かつ有限な存在者[人間]にとっては、果てしなき(無限の)前進のみ可能である。この逆説については、ルイス・ホワイト・ベックが指摘している通りである。もし魂が不死であるならば、肉体が死んだ時、これ[肉体が死んだ後の魂]はすでに空間・時間の世界の住人ではない。このように時間的条件[肉体]の下から脱した魂が「継続的に、果てしなく前進する」とは、いったいどういうことななのか?また、次のように問うてもいいだろう。「肉体という鎖」から解き放たれた魂に、なぜ[時間的条件の下で継続的な]前進が必要なのか?この場合、神聖性[最高善]は瞬時に達成されるのではないか?もしそうでないなら、もし魂の永遠性の中に[時間的条件の下で]継続的変化があるのなら、これ[肉体が死んだ後の魂]は、永遠の存在様式ではなく、時間的な存在様式であるはずだ。変化という概念は、時間の中にあって初めて意味をもつものである。我々は、魂の不死の要請を導く際に提示されるこの逆説について、どう考えればいいのだろうか? これらの問いは、我々を必然的に次の結論へと導く――カントが本当に要請しなくてはならないのは、魂の不死ではなく、肉体の不死である。カントの言う「道徳的に低次の段階からより高次の段階への果てしない前進」から導かれるのは、不死の魂ではなく、不死の、けっして破壊されることのない、崇高な肉体である。この肉体は時間の中に存在し、時間とともに変化し、そして漸進曲線を描きつつ、果てしなくそのゴール、つまり[一旦、死んだ後に想定される第二の]死に近づいていく。断言してしまおう――魂の不死の要請とは、「純粋実践理性の幻想」[...]である[人間が生きているという事実の前提、必要条件であるところの幻想である。人間が現に生きているということは、このような幻想を人間が、無意識の裡に、もっていることを前提としている]。[...] カントの言う自由[自己保存、私利私欲、幸福の追求に無関係であること]は、常に失敗に終わる危険に晒されている。いつ快楽、すなわち病的な動機[自己保存、私利私欲、幸福の追求など]が紛れ込むかわからない[自己保存、私利私欲、幸福の追求などに無関係に、自由に選択したつもりの行為を、後から反省してみたばあい、人間は、いつでもつねに、実は、自己保存、私利私欲、幸福の追求などの動機による行為であった…と反省するものである]、もしかしたら主体自身[人間]が[自己保存、私利私欲、幸福の追求に無関係に正しいことをすることを選択したことで]死んでしまう[従って、結果が出せない]かもしれない。この障害を「飛び越える」こと、その先に進むことを可能にするものが、[...]「幻想」、魂の不死ならぬ肉体の不死の要請である。[通常の]時間・空間の外に[生まれる前や死んだ後の]時間・[どこにもない]空間の座標軸を立てることにより、この要請は、「道徳的に低次の段階からより高次の段階へ」[有限である人間が]果てしなく前進することを可能にするのである。[...] カントは、最高<善>の実現が、道徳律によって必然的に決定される意思の対象であるとする。まさにこれは、[...][意思が意思と道徳律の一致を意思することが道徳律によって必然的に決定されるという形式論理が、無限を有限に折り畳んでいるので]無限の尺度[無限を量ること]の実現である。[...]カントにとって[...]、問題は[あれやこれやの感性的な対象をもつ]何か善なるものを実現することではなく、最高善[意思と道徳律の完全なる一致]を実現すること――意識に上る何らかの目的の達成ではなく、意思と道徳律を完全に一致させること――である。この最高善[意思と道徳律の完全なる一致]を可能にするために、カントは、魂の不死の要請を導入して死後の世界を切り拓き、そして主体が第二の死[一旦死んだ後に想定されるもう一つの死]、言わば<最後>と関係することを可能にする。この<最後>の視点[神の存在]に立ってのみ、我々は最高善[意思と道徳律の完全なる一致]が実現されたか、あるいはされていないかを見ることができる。第二の要請[神の存在]は、このような視点――我々[道徳的に低次の段階からより高次の段階へと果てしなく前進しつづける人間]の存在を全体として見渡せるような地点、ある種の裁きが行われる地点――を、すなわち神の存在を、導入するわけである。[...]二つの死の間[一旦、死んでから、その後にある第二の死との間]にある[...]「煉獄」、そして<最後の審判>の視点……。
- otherwind
- ベストアンサー率40% (12/30)
[カントの]『実践理性批判』において、[...]本来の意味での要請とは、魂の不死と神の存在の二つだけなのである[『実践理性批判』において、「自由」は、本来の意味での要請ではない]。[...] [純粋実践理性の要請、すなわち、魂の不死と神の存在の二つ、は、]さらに高次の概念、意思と道徳律の完全なる一致としての「最高善」をもつ[...]。最高善[意思と道徳律の完全なる一致]は、意思の決定要因ではなく、意思の向かう対象である。魂の不死、および神の存在は、この最高善[意思と道徳律の完全なる一致]の[最終的な]「実現」を可能にするために要請されるのである。 ここで重要なのは、最高善[意思と道徳律の完全なる一致]が魂の不死や神[の存在]よりも上位に位置づけられていること、そしてこれら二つが同時に要請されていることである。最高善[意思と道徳律の完全なる一致]――これこそ神と不死が要請される唯一の理由である――との関係において、これら[魂の不死と神の存在]の要請は二つ揃っていなければ全く意味がない。これら[魂の不死と神の存在]は、互いがあって初めて要求された役割[最高善の「実現」]を果たすことができる。[...] 図式的に見てみよう。魂の不死は、意思と道徳律が完全に一致するという理想、すなわち最高善への無限の前進を可能にするために要請される。我々がこの理想[最高善の「実現」]に到達しようとしても、人生はあまりにも短い。だから我々は、永遠につづく改善の可能性[魂の不死]、道徳的前進の継続を可能にする「人生の後の人生」[魂の不死]といったものを要請するのである。しかし、ここにおいて二つの視点、神の視点[神の存在]と人間の視点[魂の不死]の差異が問題となる。主体が永遠に存在[魂の不死]したからと言って、最高善[意思と道徳律の完全なる一致]の実現が可能になるわけではない。これを可能にするためには、神の視点[神の存在]がなくてはならない。なぜなら、神の視点[神の存在]から見た時にのみ、この永遠の前進[魂の不死]が[最終的に]全体として、統一体として、現れるからである。[...] 主体は、永遠の道徳的前進の過程、「一連の道徳的行為」を創り出す作業に没頭しており[魂の不死]、自分の道徳的行為を全体として見渡すことができない。[...]神[神の存在]のみが、主体による一連の道徳的行為[魂の不死]を全体として見ることができるのである。[...] 時間的な条件に左右されない<無限の存在者>[神の存在]は、われわれにとって終わりのないこの連続[魂の不死]の内に、道徳律に合致する統一体[最高善]を見る……。[人間は]この時点において、また予測可能な将来のあらゆる時点において、神の意思に完全に合致することができない。これが人間に可能となるのは、神のみ見渡すことのできる[神の存在]、無限につづく人間の努力[魂の不死]においてのみである。 面白いことに、ここでは<無限の存在者>[神の存在]と存在者の無限の存在[魂の不死]が、はっきり区別されている。<無限の存在者>[神の存在]は「時間的な条件に左右されない」とカントは言うが、これは、不死の魂が依然としてこの[時間的な]条件下にあることを意味している。つまり、純粋実践理性の要請する魂の不死とは、超感性的なもの[概念的]ではなく、「時間的条件」下にある感性的なもの[具体的]の無限の持続なのである。 意思と道徳律の完全なる一致と定義される最高<善>の前提条件として、カントは魂の不死の要請を導入する。まず、この不死の要請が「演繹」される過程を見ていこう。 意思と道徳律の完全なる一致は神聖性[最高善]と呼ばれ、これは感性の世界に住む理性的存在者[人間]には達成しえない完全なる状態である。しかし、それが[人間の]実践においては必然的なものとして要求されるというのであれば、これは、完全なる一致[最高善]に向かう[人間の実践において]果てしなき前進というかたちをとらざるをえない。……しかし、この[人間の]無限の前進が可能であるためには、ある同一の理性的存在者[人間]が無限に存在しつづけること、そして[人間が]無限の人格性をもつことが必要であり、これが魂の不死と呼ばれるものである。最高善は、魂が不死であることを想定して初めて実践的に可能となるのであり、このように道徳律とわかちがたく結びついているものとしての魂の不死は、純粋実践理性の要請であると言える。
- morutiroro
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>意味があるのでしょうか。 無いです。 たまたま生き残っただけです。 ですが、これを機に、少しはマシな生き方をしよう。とか考えられたら、意味もあるでしょう。 それがないなら、本当に意味の無い人生になります。
- 拓征(@danna888)
- ベストアンサー率32% (82/252)
大有りです!人は生きてるのでなく生かされてると私は思います。 被災した犠牲者の事を考えて「私を身代わりにすれば・・・」と思うこと事態素晴らしい進歩じゃないですか、生かされた命を大切にして、今度は「自分が他人に出来る事」を残りの人生で模索すればいいのですよ。 あなたにはその潜在能力があるのでしょう、だから運良く命を繋げられたのでしょうネ☆ 犠牲になった大勢の人の分まで人生をまっとうさせましょう、一度死んで生まれ変わったと思えば卑屈な人生から素敵な人生に変わりますよ。 大切にして下さい「その命」
- 11841065
- ベストアンサー率11% (25/214)
悪夢のような大災害を経験し動揺している事と思います 浄土真宗 親鸞(しんらん)の教えで 歎異抄 (たんにしょう)を 紹介したいと思います
- koiuyt
- ベストアンサー率16% (3/18)
世の中総じて、悪い奴が生き残るように出来てますから。