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親不孝でしょうか。。。
先日、親鸞の本を読んで大変感動してしまい、 宗派を変えて浄土真宗に入ろうと思ったのですが、 とある友人にその話をしたところ、「少し親不孝なのでは?」と言われてしましました。 世間的にみて、どうなんでしょうか。 親不孝ですか? ちなみに私は四男で、長男ではありません。
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- otherwind
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江戸時代に、江戸の長屋に引っ越してきた人は、そこの大家さんにご宗旨は何ですかと聞いて、たとえば地元では浄土真宗だったが、大家さんのご宗旨が日蓮宗であったなら、なら、それにしておきますと、お念仏からお題目に宗旨がえをするのが、ごく普通、と申しますか、当たり前と申しますか、メジャーだったと聞きます。 私の祖母は、北陸で、蓮如上人が開かれた別院の門前町に住んでいます。町の真ん中が別院で、他にも真宗のお寺がいっぱいあり、おそらく、町の人口の大多数が真宗門徒です。一説による日本一豪華とも言われる仏壇の産地ですが、その仏壇屋さんで、立派な仏壇ですねぇと申し上げたところ、仏壇が立派なのは江戸時代に私はキリシタンではありませんという表現だったからです、と一言のもとに言われました。 もちろん、今は江戸時代ではありませんが。 親鸞聖人のお書物(?)、あるいは、親鸞聖人について書かれた書籍を読まれて感銘を受けられたということであれば、他の親鸞聖人のお書物、あるいは、親鸞聖人について書かれた書籍を読まれれば、よろしいのではないかと思います。 親鸞聖人にかかわる、あるいは、真宗にかかわる書籍は、相当数ありますので、主なものを読破するだけでも、大変な日数がかかるはずと思います。書籍を読まれて感銘を受けられたのですから、他の書籍を読まれるというのが一番自然であると思います。 さらには、それ以上、何かなさりたいのであれば、おそらく、伝統的な、真宗十派で、ご宗旨にかかわりなく、ご参加くださいとして、やっている「親鸞講座」のようなものがあるのではなかろうかと思いますので、そういったものを受講されてもよろしいかとも思います。(これはお住まいの地域によると思います。) それより更にということになれば、たとえば、浄土真宗本願寺派 中央仏教学院通信教育を、宗派外の一般受講者として受講されるという選択肢も有り得るように思います。 親鸞聖人のお書物(?)、あるいは、親鸞聖人について書かれた書籍を読まれて感銘を受けられることが、イコール、たとえば、真宗十派のどこかにご宗旨をおかえになることであったり、お内仏(仏壇)をお荘厳し、お給仕することであったり、お勤めが勤まったり(普通の日本語表現であれば、「お勤めをする」にあたります。お勤めが自ずから勤まるという言い方は、真宗独特の表現と思います)、念仏道場に定期的にご法座にお参りして聞法されたり、おかみそりをお受けになったり……とは、必ずしも限らないと思います。 一平門徒としては、イコールであってほしい気もゼロではないですが、それは、心情的な気持ちだけであって、正しくないと思います。 伝統的な教団としても真宗十派と十派あるわけですし、どこかの教団、というかサンガと考えたいところではありますが、どこそこ教区、なになに組の所属寺をお手次のお寺をしないと、本当にいけないのか、他のあり方はないのか、親鸞聖人の出遭われた教えに、出遭う、ということには他の形はないのかというと……、他の形もあってしかるべきと思います。 出遭いは、ぜひ、大事にしていただきたいと、本当に思います。 思いますが、親鸞聖人が出遭われた教えに、いま、出遭うということが、イコール、ご宗旨をおかえになることでは、ないと思います。
人はあらゆる面で違えども定義するんです。 それが人たる悩みの所以といっても過言ではありません。 存在は、言葉を越えてあります。そして貴方が在ります。 考える貴方がいても当然です。 重複しますが、あなたが考える事は重要です。貴方にとって、 いかんせん私たちは、時間に逆らえません。 賢明なあなたならおわかりですね。 感銘を受けたのは、何かが在ったからでしょう。 少なくとも私のような似非信者とは違う。 学ぶことを見つけることは、今の時代難しいことだと 思います。それに見つけたとしても、活かすのに 苦労することだと思います。 十分時は在ります。ゆっくり進みましょう。 浄土真宗教徒としている私が言うのもおかしな話ですが。 親であれ、せいにして自分を定義づけることは自身の 否定になりますから、親御さんに感謝してそれからの ゆっくりな旅路になります。そのときに。わけ隔てなく 考える時間を持ちましょう。 ご家族のご健勝をお祈りいたします。
親不孝とは思いませんが。 気になったのは、その本を読んだだけで入信しようとする。 動機が、いまひとつ理解できません。 友達が、世間的に見て、と言う段階では、軽々に入信する 場合ではないし、貴方も解っているように。親御さんは、 貴方を庇護してくれたあなたのよくわかる。貴方の為に いる人です。小説のごとく読むのは、この場合親鸞に 関してはお勧めできません。とはいえ私は浄土真宗の 先祖の位牌を毎日拝んではいます。 そういう人間が何故と思われるでしょうが。 親鸞を読んでも、理解が及ばない頭の弱い人間です。 文字を読んでも、体現することの難しさ、存在を大事に することの日常に埋もれた感覚。 人はいろんな定義を知らず知らずのうちに持っています。 言葉ではない、名詞を表す、体現、という表現のもとです。 気になって、質問を立てたのは、あなたが、ご両親に対しての 思いが、あるからでしょう。大事に思っているのは伝わって、 きます。 私の私見です。回答には成りえませんが、ご容赦下さい。
- 777oichan
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浄土真宗と反目している宗派を信奉している親御さんにしてみれば、裏切り行為になり親不孝の謗りは受けるでしょうが、その友人は親鸞とか日蓮とかG会とかを混同されてはいませんか?また其の家の祭祀継承者が1人すくなるからとの心配かも知れません。軽い感じで親御さんにお話してみては如何ですか。
- goo2005goo
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いえまったく。宗教は個人個人に選択権があり、家業よろしく先祖代々のそれを”継ぐ”必要はどこにもありません。たとえ親の宗教を継ぐのが常識だったとしても、親があなたをののしるならともかく、友人に親不孝だの常識がないだの言われる筋合いはありません。 宗教も仕事も人生の重要な部分です。自分にとって納得のいくものを選び、充実した人生を送ってください。親鸞、結構じゃないですか。惰性で代々の宗教をやるよりずっと良いですよ。
宗旨を変えるからと言って、それを「親不孝」と言うのは少し早急に過ぎると思うんです。別に出家するわけでもあるまいしに。宗教を選ぶのは個人個人の自由です。昔、私が会社を経営してた頃、ある土建屋の社長さんでそうゆう人いましたよ。本家は仏教らしいのですが、自分は「創○学会」に宗旨を変えて、その社長さんが亡くなった時も、「創○学会」の葬式方法で行われましたから。普通の仏教である親御さんもちゃんと出席してましたし。 まぁ私の考えは横に置いといて、こうゆう宗旨変えを世間一般的に言うならば、「親不孝」では無く「先祖不幸」「家族不幸」と言うのが正しいんではないでしょうか。でも敬う対象は「ご先祖様」に変わりは無いのですから、別に構わないんじゃないでしょうかねぇ。
- 199012
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親鸞の生涯をご存知ですか?私は余り感心出来ません。法然、親鸞、蓮如いずれも信心と言うものを自分達用に勝手に解釈また仮設まで打ち立てて今日に広まっているのです。「念仏の檀家の人達は何にもしなくても良い、ただ仏様を信じていれば良い、臨終が来れば阿弥陀仏が迎えに来て、西方極楽浄土に導いてくれる」、これが法然、親鸞が打ち立てた仮説です。幸せになろうと思ったら自分が努力する事が大切でしょう。自分が努力をするから結果が出る訳で、何にもしなくて幸せを得られるのであれば、それはおかしいと思います。西方極楽浄土と言っても仏典を見ると浄土は沢山あって西方極楽浄土とは法然が打ち立てた仮説で、ですから馬の耳に念仏なんです。こうした邪教を信じるとなれば、ご友人が言われた「親不孝」になります。信教の自由なんですから、もっと深い仏教をお勧めします。