感受性と迎合性
面白くない考えにいたりました。
ものの憐れというのか、茶道の精神というのか、いわば、ささいな物事に対する生まれながらの(あるいは後天的)な感受性が鋭い人と鈍い人は、それぞれ、独立独歩的な雰囲気の人間になるのか、迎合性もしくは協調性のある人間になるのかという傾向があるのではないかと思いました。
つまり、野球のたとえで言うと、
○キャッチャーが捕球する音とかバットでボールをひっぱたく音とか、そういうものが面白いと感じる感性があると、それが聞きたい→適当にやじるくらいの応援になる(一種アメリカ西欧的)
○そういうささいなものに対する感受性が希薄→より勝敗とか選手の人間性的な面に関心が行く→迎合的に鳴り物やテーマ曲を歌って応援する
というような雰囲気がある。この差というのが、「茶道的な対象を面白がれるかどうか」に結構かかっている気がする。
もちろん、そういう侘びさびがあることが人間にとって上質であるとか言うものではないです。ただ、そういういわば要らない無用の感性があることで、迎合的でない傾向の人間ができる下地になるのではないかと思われるのですが、どうなのでしょうか?
つまり、言い方を変えれば、大衆的な志向とは「人間的」な志向だということです。反大衆的な志向とは、「自然的」な志向だということです。
またあえて言えば、大衆的な「人間的」志向とは、表面的なレッテル貼りの思考です。対象の人間を掘り下げたりしません。
何事も「掘り下げない」ということが、大衆的迎合的であるというエネルギーであり下地なのではないでしょうか。それは毒も多いですが、考えようによっては社会に必要かもしれません。個人的には反対ですけども。
お礼
回答有り難うございます 消極的に大衆迎合するということでチェンバレンで納得です.大衆扇動とは意味合いが違うということですね。私もチェンバレンが腰抜けだったとは思いません.