- ベストアンサー
大航海時代のヨーロッパ
- 大いに繁栄した国家がなぜ国土が狭いのか?
- なぜオランダは領土拡大を考えなかったのか?
- 大航海時代におけるヨーロッパの国家の力と背景
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
イギリス革命史 上下 友清 理士 著 オラニエ公ウィレム オレンジ公ウィリアム でした、ちょっとゴッタになっていた。 イギリス オランダ フランスを三国志的に書いています。 そのちょっと前 ヘンリー八世がフランス本土に攻め込んでいます。 1543年 なんでかというとチューダー朝は、プランタジネット朝の正当な後継者として、フランス王でもあるからです。(主観的には) チューダー朝自体は、男系ではプランタジネット朝に繋がりませんが、「正統なるイギリス王である」と主張すれば、当然のように、100年戦争の時代のプランタジネット朝と同じでならねばなりません。 ならば、フランスに攻め込まないと正統性が危うくなる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7 1801年まで、フランス王も自称していたようです。
その他の回答 (6)
- akik
- ベストアンサー率33% (93/277)
補足説明として、 各国が貴金属の裏付けで通貨を発行していた時代 であったこと、インド洋を中心にした貿易が経済 発展の裏付けであったことを念頭に、この時代の 背景を考えてみると、 スペインはオランダに戦争で負け、オランダの 独立が承認された。これが契機となって、 スペインが国家債務の不履行を実施し、当時の 金融の中心がイタリアから移動することになった。 つまり、ヨーロッパ世界の主な投資先がスペイン ではなくなり、新たな投資先を模索する必要があ り、そこで浮上したのがオランダです。 現在の新興国への投資と同じような発想であった と考えるべきなのでしょう。 金に裏付けられた通貨がオランダに集中したので、 当然のことながら、オランダに金が集まったこと になります。貿易の取り扱い量も当然のことなが ら増加することになり、覇権国であったスペイン とイタリア商人、金融業者からオランダに移動し た。 理由は1つとは限りませんが、何らかの歴史的な 出来事を経て、金(ゴールド)が世界中から集ま ることにあわせて、覇権が移動する。 現在の社会では、金の信用力を裏付けにした通貨 の発行ではないので、今までの歴史では説明が できない局面にあるかと思います。 覇権が英国に移った時も、米国に移った時も、 金が先に動きました。
お礼
現代の経済活動で歴史を説明してくださり、 とても分かりやすく拝見させて頂きました。 どうもありがとうございました!
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
◇国家が力を持っていたのに、なぜヨーロッパにて領土拡大を考えなかったのか。 ↓ 煎じ詰めると、オランダが王国でなかったことに起因するのではないか? オーストリア継承戦争やらスペイン継承戦争やらネーデルランド継承戦争やら、 「もともと、うちんとこの王家に継承権があるから、取り戻します」 というのが、開戦の名目になっています。しかも言い方は「本来あるべき姿に 戻す」というもの。 王様のいないオランダにはその名目がない。 イギリス名誉革命はイギリス側から記述されますが、オランダ側(オレンジ公ウィレム)から記述すれば、ルイ14世が南ネーデルランドの継承権を主張して侵略してきたのに対抗して、イギリスの援助を受けるために、英蘭同盟を結ぶためのウィレムの戦略です。
お礼
再度の書き込み、ありがとうございました。
- DieMeute
- ベストアンサー率70% (571/807)
国内の様々な要因、戦費増大による経済の疲弊と国内の混乱、諸外国の外交方針によりスペインもオランダもイギリスも世界を征服する事はできませんでした。 スペインの場合・・・例えばカール5世は1516年にスペイン国王になった後、神聖ローマ帝国皇帝になった事から、スペイン、ドイツ、オランダ、ナポリ、シチリア、サルディニアなどのイタリアの地、それにスペイン領アメリカなどを含む広大な領地を持つに至りました。 しかし、フランスとはイタリアの地を巡って戦争となり、ドイツにおいても騎士戦争、農民戦争、ルター支持派のシュマルカルデン同盟との戦いになり、さらには西進してきたオスマントルコとオーストリアや地中海で戦う事になりました。 その結果は莫大な戦費の出費と軍拡です。 広大な領地からはそれだけ税も入ります。しかし、それを上回る出費となり負担が増大しました。 例えばカール5世は1552年にメッツの戦いで250万ダカットの戦費を費やしましたが、これはアメリカ領から皇帝に入る収入の約10倍の金額です。 うち続く戦争とその出費で、借金までする事になり、カール5世が退位した時、後を継いだフェリペ2世は2000万ダカットの負債も受け継ぐ事になりました。 財政再建と軍費捻出に税金を上げるわけですが、そうすると叛乱が起こります。オランダ独立戦争の要因の一つも税金の値上げでした。 オランダだけではありません。シチリアなども税金の値上げに反対し叛乱を起こしています。 フェリペ2世の時代、オランダの叛乱(独立戦争)とそれを支援するイギリス、フランスと戦いましたが、そのオランダの独立を認める1648年の少し前にどれだけの戦争・紛争があったかというと・・・ 1631年スペインのヴィフカヤで叛乱。 1640年スペインのカタルーニャで叛乱。 1640年ポルトガル独立戦争開始。 1647年ナポリとシチリアで叛乱。 この中には10年20年以上続いた戦いもあります。さらにはドイツの新教徒諸侯との戦いがありました。 また、長い戦争と軍拡は食料や物の値段の価格を上げインフレにもなりました。カール5世の時代からフェリペ2世の時代にかけて食料価格は5倍、工業製品は3倍になってスペインの経済に打撃を与えました。 結局、フェリペ2世が亡くなった時、負債額は1億ダカットになっていました。 ちなみに1590年オランダ独立戦争時代の各国の兵力を書くと・・・ スペイン・・20万 フランス・・8万 イギリス・・3万 オランダ・・2万 スペインは一桁兵力が違いますが、領内での叛乱、ドイツでの宗教戦争、トルコとの戦い、オランダを支援するイギリス、フランスという要素を考えると、兵力は分散し圧倒的とは言えなくなり、各国を打倒するまではにはいたりませんでした。 つまり、スペインの勢力を削ごうとする各国の思惑と、そして広大な領地から入る収入は戦争で費やされ、足りないほどで財政を悪化させ、国力を疲弊させました。そのため世界制覇はできませんでした。 オランダの場合・・・スペインが疲弊し他国が争っている隙を突いて海外に植民地を獲得していったわけですが、オランダの勢力だけが伸びる事を他国が許さず、色々と戦争になりました。例えば独立を支援してくれたイギリス、フランスとも戦争しています。この時代はどの国も頻繁に同盟する国をかえ、相手国の勢力をできるだけ削ごうとしていた時代でした。オランダもそうした対象になりましたし、オランダも他国の力を削ごうと動いてもいました。 海外植民地があるため大きな力を持つように思われますが、実際にはオランダの貿易において一番貿易額が大きかったのはバルト海貿易で、その次が地中海貿易で、植民地からの利益は一番額が小さいものでした。 国を保ち勢力を広げるために他国と結ばなくては生きていけない国がオランダであり、決して絶対的な力を持っていたわけではありません。 オランダは共和国制をとり政府に投資家が参加するなどして商業にも金融にも大きな発展を見せましたが、打ち続く戦争にやはり戦費はかさみ巨額な国家債務を抱えています。海外植民地を持つからといって世界制覇ができるようなものではなかったのです。 もう文字数が無いのでイギリスは省きますが・・・ つまり、オランダもスペインも領土拡大は目指していましたが、例え海外植民地を持っていても、世界制覇する力までは無く、他国との戦いで戦費は増大し、後には膨大な債務により軍事費の捻出にも苦労し自国の領地を守るのに精一杯で、スペインにいたっては結局、領土を減らすほどだったのです。
お礼
深く理解するために、何度も読み返しております。 具体的な数字まで挙げていただき、 本当にありがとう御座いました!
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
オランダの発展の一つは高い造船能力(とくに大量生産の面)があったからです。 その造船能力の起源は風車です。 当時は木造船です。 オランダのゼロm地帯の水をくみ出すための風車ですが、当然いつも水をくみ出しているわけではありませんし、すべてが水汲みようでもありません。 風車が発展したオランダでは、粉挽き、製材(風車でのこぎりを動かす)、鍛造用などさまざまな目的に使いました。 これが木材加工に使われることで、オランダは産業革命以前に唯一人力以外の動力による加工ができるようになり、高い造船能力を得たのです。 ちなみにスペインとポルトガルはレコンキスタの勢いをかっていち早く西アフリカ・アメリカに進出したのが功を奏しました。 すすんだイスラムの技術を手に入れたことと、ヨーロッパの玄関口といえるような場所にある地の利がいきました。 イギリスは産業革命の力です。 それぞれ別の理由です。
お礼
各国、それぞれに背景が異なるのですね。 理解できました。ご丁寧に、ありがとう御座いました!
>国家が力を持っていたのに、なぜヨーロッパにて領土拡大を考えなかったのか。 オランダ独立戦争が起きたのが16世紀半ばで、実際に独立が承認されたのは17世紀になってからです。それまでは主にハプスブルク家の支配を受けていました。 オランダが国としての体裁が整った頃、周辺は大国ばかりでした(イギリスやフランスなど)。ヨーロッパの中で領土を拡大できるに越したことはなかったでしょうが、現実的な話ではないですね。 >大いに繁栄した国家が、なぜあれだけの国土しかないのか。 上記にあるように、元々の本国は領土を拡大しようがありませんでした。だからこそ海外進出したとも言えます。「大いに繁栄したのに、国土が小さい」というのは、オランダの歴史の逆の理論かと思いますが…。 ちなみにイギリスやスペインは、まったく違う歴史を辿っています。 「例としてオランダを挙げましたが、イギリスやスペインといった国々を通した説明でも問題ありません。」とありますが、オランダと並列には説明できないですよ。
お礼
逆の理論ですか、、なるほど。 オランダの歩んだ道は必然的だったのですね。 ご回答、ありがとう御座いました!
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
ニシンを食っていたから 「ニシンが築いた国オランダ―海の技術史を読む [単行本]」 という極論もありますが。 ニシン漁とは、ニシン漁船軍団で、海上をグループで行動する必要があるそうです。 つまり、ニシン漁が上手な人々は、すぐに海軍になれる。 海軍の訓練だけをしていると、金だけがかかりますが、日々ニシン漁をやって儲けながら海軍の練習をしていたのがオランダ。 で、16世紀のイギリス沿岸は、オランダ漁船によってガンガンニシンが取られていたそうです。 イギリスは技術がないので、ニシンが取れない。 ◇大いに繁栄した国家が、なぜあれだけの国土しかないのか。 ◇国家が力を持っていたのに、なぜヨーロッパにて領土拡大を考えなかったのか。 ↓ 内陸は蛇足です。農業生産では効率が悪い。漁業こそ効率のいい産業です。 漁民というか、航海民から見れば、不毛の地がいくらあっても意味がありません。 ※ 能登半島の時国家の研究があります。 前田家に残っている検地帳を見ると、水呑百姓。 現在の農業社会(?)から見ると、能登半島はものすごい僻地ですが、江戸時代の日本海通商が盛んであった時代は、 水呑百姓という登録での、船主で、大金持ち というのが、能登半島先端の水呑百姓の実態だったそうです。
お礼
航海民という観点は面白いですね。 領土=国力ではなりますし。 ご回答、ありがとう御座いました!
お礼
再々度の書き込み(笑)、本当にありがとうございました! 何度も気にかけてくださり、とても嬉しく思っています。 重ねて、お礼申し上げます。