こんにちは。
「観念」は持てますが、動物には「概念」が使えませんので、それを自分の観念と理解することができません。
餌を欲しくて芸をするならば、その動物は餌がもらえるという観念を持っているということです。嬉しいときと悲しいときでは状況が異なりますので、そこでは得られる観念が違います。ですが、この異なる状態が観念であると理解するためには、そのようなものがみな自分の主観であるという共通性を基に観念という概念に纏め上げられなければならないわけですが、動物にはこれができません。
「可愛そう」というのは利他的な動機が含まれますので、これはちょっと別にするとしましても、動物にも感情がありますので、嬉しい、寂しいと思うことはできます。ですが、「思えている」とするためには、そのためには「思う」という行為が概念として扱われなければならないはずです。
言語といいますのは高度に概念を扱うために極めて重要な要素です。ですが、我々は例えば、「大きい小さい」、あるいは「前とあと(原因と結果)」など、言語を使わなくとも論理的な比較を行うことができますし、言語中枢は持っていませんが、言語的な意思疎通を行う高等動物はたくさんいます。
動物には概念を扱うことができないと申し上げましたが、人間でも赤ちゃんにはできません。ですが、成長すればできるようになります。つまり、果たしてこれは飽くまで知能の高さだけの問題であり、我々人間と同じ脳の構造を持つ哺乳類や鳥類に概念を扱えないという理由は何処にもないわけです。このようなことは世界中の動物学者さんが長年に渡って研究を行ってきましたが、悩ましいことに、未だ確かな報告は認められていません。ですが、できないという根拠もまたないのであります。
お礼
こんばんは。になりました。 ruehasさんとても詳しく回答ありがとうございます。 とてもとても参考になりました! 私は頑張って何度も読みました! そしてそして自分なりに翻訳しててお礼が遅れました。 哲学に興味を持ってますが、難解な言葉があると進めなくて とりあえず自分で、ターヘルアナトミアに訳してみるんです。 「観念」を「主観」に 「概念」を「客観」と 「言語能力」を「表現を高める要素」になどです。 動物は肉体を媒体にした表現を主にしていて、 人間は言語を獲得したことで表現を物質以上のものにまで高めてこれた。 人間は客観が使えるので、 自己存在の確認が肉体よりも言語で同じ人間を便利に感化させる。 表現が高められたことで主観も客観も人間を超えたもの、 時間認識、音楽文芸、社会、世界、神なども考えるようになった。 人間活動は知らず知らず全て「客観=自己存在の確認」なのかも。 主観を役者に、客観を座長に?、 他者と共に更に一段上からの支援者?支配者?を幽霊に例えることもあります(笑)。 もちろん適当な仮説を立てただけ。 欠陥品なうえにオンボロの乱暴な翻訳機(私が使える情報源) 整然とまとめることも下手なんで符合しない、おかしな解釈はあるはずです(焦)。 どうでしょう?