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アンリマティスの挿絵
20世紀の画家、アンリ・マティスについての質問です。 油彩、彫刻、デッサン、切り絵と幅広く手がける彼ですが、1932年のマラルメ詩集に始まり、ロンサール詩集やシャルル・ドルレアンなど、数々の挿絵を手がけています。 彼が本の挿絵に携わるきっかけになった理由はなんでしょうか? よろしくお願いします。
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- Postizos
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それと画家が装丁をやるのも昔は珍しくなかったようです。(画家の仕事のうちだった) 編集者がやるのも多かったとの事です。 今のように本のデザイナー、あるいは本とはデザイナーがデザインする物というシステム、は確立していなかったようです。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
今の事を考えると、著者からの要望、または編集者の発案で画家に挿画を依頼するわけですが、当時も画家の側から使ってくれと言う事はあまり無いと考えられるのではないでしょうか。 文字の原稿を元に出版しようという時に、じゃあ挿画は誰にしようかというような運びになると思うのですよね。 すごい高い豪華本だったのではないでしょうか。 マラルメは編集や出版の企画のような仕事もしていたようですね。 http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/text/hon/hon_text1.htm また自作の造本においても文字組を視覚的なリズムを持たせるというようなアイデアを持ち込んだようです。(「コンクリート・ポエトリー」に通じる) http://ryouhachi.exblog.jp/i9 画家や音楽家とも親交が深く、おそらくマラルメ自身のアイデアで、個人的にもどこかで面識のあった画家を見込んで頼んだのではないでしょうか。 あるいは本のイメージとして最初から誰かの絵、ビジュアルな物をイメージしていた、影響を受けたという事もありうるのではないかとも思います。
- midoriminoao
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なかなか回答がつかないようなので、 釈迦に説法とならないことを祈りつつ・・・。 「挿絵に携わるきっかけ」というと、 質問者さんは、既にかなり造詣がおありですし、正直難しいご質問かと思います。 手元の画集によると マラルメの詩集に挿絵を制作したのは1931年 挿絵はリトグラフとあります。 そして、1929年には彫刻と石版画の制作に専念する、と年表にあります。 当時マティス婦人が帽子店を開いて生計を支えていたことを考えると、 既に名声は得ていたとはいえ、 画廊との契約で描く油絵と異なり、リトグラフ(石版画)の挿絵は、 確実に別ルートの収入源となりますし、 自然なことと思えるのですが。。。 いかがでしょうか?
お礼
丁寧な回答ありがとうございます。 なるほど、生計は、重要なポイントですね。 どうも一番最初の挿絵は、テリアード(かしら。。。)側からの依頼だったようです。 巨匠の挿絵シリーズ、のようなもので。第一弾はピカソ、第二弾がマティスだったようです。 そこから、文字とデッサンの融合の魅力に取りつかれたのかもしれませんね。 詳しい解説、ありがとうございました。