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仏教の教え。
四苦八苦の中の【求不得苦】を脱するために,「求めても得られないものは,求めない」姿勢は正解でしょうか? 例えば,三大欲のうちの性的欲求などは,求めるものが人絡みになる場合,拒否されている本人が求めないい姿勢だけで解決したと言えるのですか。【五陰盛苦】との絡みも出てくるので,どう捉えるのが正しいのでしょうか?
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不正解でございます。 四苦八苦を解消するには、悟りでございます。空を悟る事。そして、今の時代は空を悟る事だけでも弱くて、物理学にいう最終理論を理解・説明する悟りであり空でなければなりません。 空から色がどの様にして作られるのか。 空から、一体どうやってエネルギー・量子振動・運動・力・光・粒子・・・が出来ているのかを理解できる説明がないと四苦八苦を超える事は出来ませんね。 1.この現実で生きる事は四苦八苦であり無知である事を知る事。 2.現実から完璧に離れる技術と出会う事。 3.現実を明確に理解出来る世界と出会う事。 4.現実の中に入って勝負する道を得る事。 このプロセスを通して、四苦八苦と無知を解消・解決していく姿勢が最も自然であるかと思います。 その観点から観る時に、「求めても得られないものは,求めない」姿勢では、 1.現実で生きる事が四苦八苦・無知である事を知らず、 2.現実に完璧に掴まれており、 3.その状態では現実を何一つ理解できず、 4.勝負できる知恵も道具も持ちえません。 如何でございましょうか?
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- Y Y(@yy8yy8az)
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回答文の「凡人は悟りの世界に入る必要はないので、この世を楽しみそして、苦しみましょう。」は、いい加減な表現でした。 それは私の知力の無さ故。 koro7ponさんの疑問は、私の知力より上。 だから、koro7さんのレベルでの回答は不可能。 私のレベルでの回答になります。 どういう事かというと、例えば、池の水が落ち着いて澄んでいれば中の様子がよく見えますが、私は、池の中には水草がたくさん育っているなぁ、小魚もたくさん生き生きと泳いでいるなぁ。と受け止めるだけのレベル。 でもkoro7さんは、どのような種類の水草がどれだけ生えているか、小魚はどんな種類がどれだけいるか、興味を持って知ろうとするレベル。知力の差を感じます。 その知力の無さ故の回答でしたが、ハイレベルの捕捉質問に刺激を受け、さらに「思索」し、“回答”にトライしてみます。 釈尊は、真理を求めるため、家族を捨てました。 家族の思いを知る釈尊の心の苦しみは、相当あったことでしょう。 にもかかわらず、出家したという事は、その苦しみを超えてまで、真理を知りたいという欲求が強かったから。 (釈尊という個人にその欲求の強さを求めた、宇宙の“意志”を感じます) 真理の世界、悟りの世界から俗世間を見ると、人間の生きる喜びさえも「苦」であると見えたようです。 地球上に現れた生命、生きるという活動は生きるという事に喜びを感じるから。 でもそのためには苦しみも味わわなければならない。 この世の二面性。 物質の世界(この世)と精神世界(あの世?) 神と悪魔、善と悪。 磁石のSとN。男と女。 有と無。 表裏一体。 有の背は無。 誕生と消滅。 ビックバンにブラックホール。 元に戻って、 すべてにおいて善かれ、という事は不可能。 神、仏でさえ万能ではない。 それゆえ、生命というものに、神、仏は涙するのです。 こんなことを考えました。 捕捉質問、ありがとうございました。
お礼
こちらこそ,ありがとうございます。 素晴らしい方と,中身の濃い交流が出来て,とてもとても嬉しく思っております。 今回の質問は,yy8yy8azさんをはじめ,他の皆様方の深慮なる御回答で,努力の方向が掴めました。 御回答くださった方全てをベストアンサーとしたいのですが,叶いません。お許しください<(_ _)> yy8yy8azさんの場をお借りして,皆様に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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「得る」とは何か? たとえば、月の土地を売る商売があるが、その土地を「得た」 として、それにどういう意味があるのか? そこにある物を「得た」としても、それが何一つ変わった訳でもなく、 また何かしてくれる訳でもない。 もちろん、それをどうにか「する」ことができるが、それは別に 「得」なくてもできる(それを阻止するのは他人だけだ)。 ・・・・それが「得」なければできないのは、「する」ことが皆んなの 目的(人生を通算した精神的充足量の全人類の総和の最大化)に 反する場合のみであり、そのような意志は、「得た」としても不幸 である(抗争と逃避としての生)。 即ち、ご指摘の「求めても得られないものは,求めない姿勢の示唆」は、 低次元の思想、ないしは低次元の人間に対する方便に過ぎない。
お礼
御回答ありがとうございます。 私の薄い理解力では,難しい言い回しで…難解ですが,ひとつの観点として何度か読み返してみます。 ありがとうございました。
- mmky
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例えば現代では,夫婦間でセックスレスに悩んでいる人は,どう考えればよいのか,とかが微妙なところです。 ○ 追伸:仏教でいう肉体煩悩の管理と夫婦生活や社会生活の関係ということですね。 人はそれぞれ個性がありますから、性欲や食欲の強い人もいるわけですし、当然逆に淡白な人もいるわけですね。みんな管理して淡白になることや個性が金太郎飴のように皆一緒になることを仏教は良しとしているわけではありません。 良い個性は伸ばし、悪しきは制御して抑えていくということが良いことですが、それに夫婦生活の営みが入るかといえば、少し違いますね。 結婚というのは夫婦の営みも含んでいますので、そこに不具合が生まれると夫婦生活はうまくいきませんね。その点で悩むことになれば、やはり個性の不一致ということで夫婦生活を続けることは難しいでしょうね。昔であれば、お金さえあれば本妻に側室で悩みは解消されたかもしれませんが、現代のような一夫一妻制度の下では性格の不一致にあたると思いますね。 まあ、かっては性欲の強い人は仏門に入る(出家)ことはできなかったということで、みな在家として勉強したわけですが、互いの個性が向上する方向であれば在家は離婚も認められていたので、そのように考えるべきものでしょうね。 仏教の教えの煩悩の管理は皆同じというわけではないのですね。管理できない悩みは当然、環境や原因を取り除くことも含まれているのですね。 肉体をうまく管理しないと煩悩が増長し精神の向上もできませんから、うまくバランスを取ることは必要ですし、それが互いの精神の向上になる方向にしていくことが大切ですね。 まあ、微妙な言い回しですけど、精神も自分、肉体も自分を認めているということなのです。その両方のバランスが取れないような夫婦生活は難しいであろうというのが仏教の教えですね。
お礼
本当にありがとうございます。 親身になってお答え下さる心を感じ,嬉しくなりました。 考え方の筋道が見えて来たような気がします。 ありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
四苦八苦の中の【求不得苦】を脱するために,「求めても得られないものは,求めない」姿勢は正解でしょうか? ○ 四苦八苦というのは人が悩みのなかにいる時の客観的な分類方法ですから、これは知っていればいいだけなのですよ。例えば、何度試験を受けても受からないが死ぬまでチャレンジする。というのは悪いことではありません。一度の試験で絶望するような人に対して【求不得苦】といっているのであって、わかっている人に対しては当てはまらないのです。 つまり、知っていれば、いいだけなのですね。知って自らの行動を照らしてみれば、行き過ぎか、そうでないかはわかることですよね。 別の例で言えば、ある女性を好きになるとして、めでたく結婚するか、だめであきらめるか、ストーかになるかは【求不得苦】を知っていれば、うまく管理できるでしょ。ということなのですね。 釈尊が四苦八苦を持ち出したのは、四苦八苦を打ち消すことではないのですね。 この世に生まれ、生きること自体が四苦八苦だといいたいのですよ。では何故この世に生まれる必要があったのかを考えてみなさいという問いかけなのですね。その意味を知れば四苦八苦は修行として誰しも必要なことであるということがわかるといいたかったのですね。否定を通して人生を肯定する方法なのですね。それが釈尊の教え方ですね。 釈尊の教えの中核は、あなたは本来苦など無い霊界の住人なのだが、一時期肉体をもって苦界に生きることでいろいろな経験をしている。ということですね。 つまり、そういうことを知って生きれば良いということなのですね。 生きている以上、煩悩も消すことできないですから、良く管理して生きれば良いということですね。 煩悩を完全に消すと「死体」ですから、そんな陳腐な教えは釈尊は説いてないのですよ。 参考に
お礼
御回答ありがとうございます。 四苦八苦が肉体を介して発生することは,承知しておりますし,必要欲と過ぎたる欲も,分別しております。 例えば現代では,夫婦間でセックスレスに悩んでいる人は,どう考えればよいのか,とかが微妙なところです。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
食欲も排泄欲も生理的欲求。 性欲も、肉体が成長すれば現れる生理的欲求。 でも、『性』は精神的にも異性を求めるという「自然欲求」があります。 と云うことをまず、思いました。 「求不得苦」は正解。 それができれば、苦しまなくて済みます。 欲求が強くない事ならば誰もが日常実践しています。我慢しようとか。 欲求が強いと実践は結構大変です。 ましてや生理的欲求は、不可能に近い。 かの、お釈迦様でさえ、生きているうちはわずかばかりの食欲や排泄欲はあったはずです。 性欲も成人すれば誰もが持つもので、大自然の法則ゆえに、強く、消し難い。 物欲にはそれほど悩まされなかった「僧」達も、性欲を消すことには苦しんだはず。 精神的にも異性に対する思いは、相当なもの。 でも、こちらはその思いを神、仏に転化することで解消できます。 それを実践したのは釈尊。 たぶん、過酷な修行により、生理的性欲も消えてしまったのでしょう。 釈尊は自身の肉体に存在する食欲と排泄欲のあることを意識していたはず。 それでも人間としての悟りの世界に、心は住んでいました。 命とは、生命とは、喜びを体感する事であり、苦しみを体感する事であります。 すべての苦しみから逃れようと、釈尊は俗世間を捨てました。 そしてこの苦しみから抜け出し悟りの世界に入りました。 でもそれは俗世間の喜び、精神的喜び、生理的喜びを捨てたのです。 それは神、仏の精神世界で「安らかな」心を得たという事なのです。 でも我ら凡人は悟りの世界に入る必要はないので、この世を楽しみそして、苦しみましょう。 「求不得苦」は間違いありません。 あとは人それぞれの、精神活動のレベル次第で内容は違ってくるのでしょう。
お礼
ベストアンサーを決めた後に,皆様の回答を再度読み返していて,この「お礼」の欄の空欄に気づき,yy8yy8azさんに伝え漏らしたことを,綴らせて頂きます。 本当に素晴らしい方ですね。 その謙虚な御回答に感動しております。 私もまた,学びの途上にいる者です。 これからも,時間の許す限り,自らの知り得た学びの精度を高め「悩む心」を「考える心」「喜びの心」「感謝の心」に変えていくお手伝いをしていける自分達でありたいですね。 共に頑張りましょう。 本当にありがとうございました。
補足
分かりやすい御回答ありがとうございます。1回目の投稿では,回答0だったので…。 yy8yy8azさんならお答え頂けると,甘えさせて頂き,もうひとつだけ質問をお願い出来ますでしょうか。 ………私達凡人は悟らなくてもよいのならば,なぜ釈尊は,この教えを出家者だけにではなく,在家の信者にも説かれたのでしょうか? 出家者に対する「律」でないにせよ在家の衆生の過ぎたる欲の戒めとしての「戒」の一部分にはなっていたと思うのですが。 釈尊は,この世で四苦八苦に悩む衆生救済の為に,その悟りを広めたとされています。 yy8yy8azさんのおっしゃる「悟り」は,「釈尊ほどには」というレベルだと思いますが,…楽しむだけ楽しみ,苦しむだけ苦しんで何かを学べばそれでいいのでしょうか? 御回答を否定するつもりは毛頭御座いませんが,その部分だけが疑問として残ってしまいました。 よろしくお願いします。
お礼
明解な御回答ありがとうございます。 三法印から空の思想に向かい真空妙有に至る道筋が,実践的発想の観点から分かりました。八正道で頑張ってみます。 ありがとうございました。