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暗闇を見ようとして、目を閉じたら、・・・
暗闇を見ようとして、目を閉じたら、夢を見ていた、そんな自分の、目を開けて見る夢は、目を開けて暗闇を見ることです。 でも、目を開けて暗闇を見ることは出来ませんでした。 この世界の全てが、暗闇だからですか? この世界の全てが、夢だからですか? もう、目を閉じても、暗闇が見えない。
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質問者が選んだベストアンサー
何てセンスのある方なのでしょうか!? ですが、感覚からその世界に行くことは出来ません。論理とイメージでのみ、目を開けたまま暗闇を観る事が出来ます。質問者さまは、己が感覚を超える事が出来ず、自分の考えのグルグルから抜ける事が出来ず、それがために論理とイメージによるこの世界全ての理解が出来ない状態だから、目を開けても目を閉じても暗闇を見る事が出来ないのだと思います。 如何でございましょうか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 暗闇 ☆ について その姿を多少は描くことをしないと 文章の全体がきわめて中途半端なものに終わります。 詩として ものの見えたる世界を描き出すか それとも 理論的に事実認識し分析し方向を探るか。 ★ 暗闇 ☆ という言葉に頼り過ぎていると考えます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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DMIMさんのご質問に、一応、私たちの精進の高い境地として教えられている情況をお伝えします。無論、私が全面的にできていることではありません。 “暗闇を見ようとして、目を閉じたら、夢を見ていた、” krya1998⇒知覚する脳みそが働いていたからですね。 “そんな自分の、目を開けて見る夢は、目を開けて暗闇を見ることです。” krya1998⇒目という感覚の受信器官と大脳の働きをcontrolし、そこからの情報が大脳で受信しない訓練が必要です。その場合、仰せの暗闇とは、光のないことではなく光の反射のないことであり、光以前の世界のことです。 “でも、目を開けて暗闇を見ることは出来ませんでした。この世界の全てが、暗闇だからですか?” krya1998⇒この世界が有の世界でそれが、光と光の反射で出来ているからです。 “この世界の全てが、夢だからですか?” krya1998⇒頭が外界の仮そめの世界へと機能し、意識が自己の中に投入できないからです。 “もう、目を閉じても、暗闇が見えない。” krya1998⇒替わりに、反射しない光だけをみるようにすることです。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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現代物理から明らかになったことを書きます。 (他人の受け売りですみませんが) 我々は認識体であり、希薄なブラックホールである。 絶対無において、その認識体は闇を取り込む。嵐のように。 すると、闇は「光の風」となって、認識体(あなた)は宇宙を認識する。 闇は動くと光の風になる。要するに、あなたの見ている現実はすべて「光の風」なんです。
- amaguappa
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この世界の全てが、瞼の裏にあるからです。
誰の作だったか、芥川賞作品の書き出しにそんな一文があったような記憶があります。 「目を開けたら、暗闇はさらに深く--」でしたか--。 それはおいといて、 「自分の、目を開けて見る夢は、目を開けて暗闇を見ることです。 よく意味が分かりませんが、暗闇を見たい、と言う夢の意味は、暗闇の中に潜む何者かの正体を暴きたいということでしょうか?だったら >でも、目を開けて暗闇を見ることは出来ませんでした。 夢とは夢の中では大抵成就するものですが、覚醒して成就するにはそれなりの厳しい条件があるはずです。殆どの人が失敗するとおり。 >この世界の全てが、暗闇だからですか? そうではないと思います。 貴方の見たいものが無いのか、貴方の視力が足りないのかどちらかでしょう。 >この世界の全てが、夢だからですか? そう考えるのは貴方の勝手です。語るに墜ちたという感じですね。 >もう、目を閉じても、暗闇が見えない。 たいていの人はそうだと思います。妄想が始まるからです。 ご参考まで。
- cyototu
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見えぬ山路を越え往くときにゃ 鳴かぬ烏の声もする 日本が世界に誇る奇人南方熊楠の辞世の都々逸です。熊楠は明治から昭和初期に生きていた方で、粘菌学者で、日本民俗学の創始者の一人で、日本で最初の環境保全運動家でもありました。世界で最も権威があるとされる科学専門雑誌のネーチャー誌に日本人として最も多く論文を掲載されら方で、未だにその記録は破られておりません。彼が明治時代中庸、未だ二十代後半だった頃ロンドンに居た時に、偶々ロンドンに滞在しており後に真言宗高野派の管長になられた彼よりも十数歳年上の僧侶土宜法竜に向かって、宗教とは何だと言うことを説教している書簡の中に書いてあります。熊楠が法竜和尚に向かって「仁者、宗教のことを知りたしという。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ。」と言っております。熊楠の哲学書の心髄『南方マンダラ』と言う本で読めます。 熊楠は、これだけのスケールの大きい人が果たして西洋に居るかと思わせるような方です。 辞世の句が都々逸とは凄いでしょう。貴方も、この都々逸に重なるようなことを言っておられますので、熊楠のように思索を深め、坊さんに向かって説教できるぐらい生産的で建設的な哲学を語れるように成って下さい。
- yara
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脳で感じる事が全てだとするならば、どちらが夢でどちらが現実かなんてことは、誰にも分からないでしょうね。 自分の脳が感じるものが全てです。
- yasuto07
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なにか、ごかいがあるのでは。午前3時、外に立ってみてください。暗黒です。 都会じゃないほうがいいよ。私は田舎に住んでいますので、午前3時、星空と暗黒です。 めをあけて、見える事ができますよ。
お礼
このお礼を書いた時に最後の回答だったこの回答に、まとめてですけど、みなさんへのお礼などを書かせてもらいたいと思います。 まず、みなさんに触発されながら考えて得た自分の結論を示したいと思います。 「暗闇が何であるかを知りたくて、暗闇を見ようとしたけど、自分がどこから見ているかをも見てはいなかったから、目を開けて暗闇を見ることが出来なかった。」 もちろん、最初から答えがあって質問してはいませんでした。それは、このお礼が、良い時期を外していることでも納得してもらえると思います。 そもそも、この質問をした理由ですけど、この質問の文章の不思議さや魅力の原因が分からなかったからです。でも、それを直接質問すると、回答の幅が狭くなって、幅広く分析できなくなってしまいそうなので、それは示しませんでした。 みなさんの幅広い回答は、様々に役立ちましたし、これからも役立ちそうなものもありました。ありがとうございました。 では、分析したことを示します。 結局は、不思議であることの原因は、抽象化し過ぎたことによる、現実と夢と暗闇の3すくみのような構造でした。 それは、例えば、「暗闇は、現実でもないし、夢でもない。」として現れます。 また、暗闇は、目を開けても見えない物事として扱われていて、現実と矛盾していることがはっきりと分かるから、暗闇という言葉は暗闇以外の何かを表していると考えます。 そして、その知識と考えが合わさって、暗闇が何であるかなどを様々に思考や想像し始めることになります。 また、「目を開けて暗闇を見ることが出来ない」という設定と、そのことの原因を質問している2つの質問のし方が、その3すくみを特に誘導していました。 一般的にどう表現されているかは分かりませんけど、光と闇の2元論の認識論である、光や闇のどちらかがあるだけだったら、光も闇も認識できないという考えがありますけど、その設定に対する1つ目の質問のし方は、その認識論を思い出させます。 そして、その設定はその認識論を成り立たせます。それが分かりにくかったです。 目を開けていると、普段は暗闇を見ることがほとんどないので、その設定の矛盾は、少しの矛盾であると思って、文章を読み進めていました。 でも、暗闇が見えないということは、光だけが見えるということであって、排中律が成り立つ程の大きい矛盾でした。だから、2元論の認識論が成り立ちました。 普段暗闇を見ることがほとんどないことと、暗闇が絶対に見えないことは、とても大きい差でした。 また、1つ目の質問が成り立つと考えることや、光と闇の2元論の認識論を現実と夢にも適用することで、2つ目の質問である、現実が、暗闇と同じように現実と対立している夢であることもが成り立つように感じます。 でも、1つ目の質問と2つ目の質問が共に成り立つことは、「目を閉じたら、夢を見ていた。」や「もう、目を閉じても、暗闇が見えない。」などとあって、矛盾していると感じます。 でも、それらは、抽象化し過ぎでした。 そのように、少しと思えた矛盾が大きい矛盾を導いたり、矛盾が別の矛盾を次々に導いていったりすることが、魅力的でもあったし、不思議でもありました。 また、その3すくみのような構造によって、暗闇が何であるかなどと様々に思考や想像が広がっていくこともが、魅力的でした。 ありがとうございました。