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愛は見る事ができますか?肌で感じる事ができますか?
こんにちは。 「愛」について考えています。 色々な人が「愛が無い」などと言ったり、同様の言葉を言ったり発想を持っていたりしています。 果たして実際、現実にそうでしょうか?
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簡単にだけ・・・。 >さて、ple6さんは、「屈辱」を感じた事がないのでしょうか?またこれから無いと思っていらっしゃるのでしょうか。 そう問いかけられて改めて考えて見ました。 あったのかも知れません、またこれからも無いとは言い切れないのかもしれません。 ただ、私の中で人より出来ていない部分があることは事実ですので侮辱や屈辱の記憶を思い出そうと思っても出てこないのですよね・・・。 頑張ってもどこか、から周りで、考えもなかなかまとまらず、そのためにどちらかと言えば受けるよりも侮辱や屈辱と思われてしまう行為知らない間に人に与えていたのではないかと思いました。 基本的に内罰型のような気がします。 なので怒る感情一旦外に出ても後から考えて見ると自分にも原因があるのではないかと考えてしまいます。 ただ、意地っ張りなので人に謝ることをしていなかったような気がします。(これが逆に与えていたのではないかと思われる理由です) だから節目節目で自分が嫌いになっていました。 愛に関しても少し前まではApostle様が他の方のお礼で書かれている。 「1貰ったら次は2ください」というような考えをしていた部分があったと思います。 これが今、完全に直っているのかと聞かれたら自信は無いのですが・・・。 ただ、そのことで友達を無くしそうになったり、そういった痛い目に何度もあったり 以前の書き込みの「愛の反対は無関心」だと言う言葉を知ったり 自分が「生きている」いるのでは無く「生かされている」ということに共感できたことで 自分の周りに形は違えどいろんな愛があふれているのではないかと気が付いたことで 「当たり前」が本当は「在り難い」ことだと思えるようになってきたのです。 (このあたりはまだまだ思い込みなのかも知れないのですが・・・。) ただ今の私はそのことへの感謝の気持ちを人に上手く伝えられていないのかも知れませんね。 その辺りが Apostle様の言う足りない部分なのかも知れません。 貴重なお時間をいただきお読みくださりありがとうございます。 また、簡単にといいつつ長文になったこと深くお詫び申し上げます。
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- hyuuma8579
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1と全体はイコールです。 愛を感じるのに多くの人は必要ないのです。 一人を愛することができたなら、イコール全人類を愛することができたも同然だからです。 たとえば、浮気とか不倫という愛の方向性がありますが、つまりは、自分の奥さんなりだんなさんなりと本質的な愛の一体感がないがために回避策としてよそに向かうだけの話です。 愛すべき人を愛さない・・・愛してはならない人を愛する・・・これが罪の本質です! 夫婦が本当に愛でひとつになったら、よそで愛を感じる必要性も意味もなくなります。 だが愛というのはそれほどに言葉でいうほど簡単なものではありません。愛が宝物なら、その宝物を手にいれるのにどれだけの血と汗と涙をながさなければならないでしょうか? 愛の素晴らしさがわかるからこそ、それを得るためにあえて地獄の冒険も覚悟して望むのです。 それがわからないものは、仮の天国である浮気や不倫と言う逃避へ走るのです。 不倫の愛で愛の本質がわかるぐらいなら、とっくに実際の夫婦間でもっと素晴らしい愛の完成を築けるのです。 あらゆる種類の愛が集約されるのが、家庭の中に現れる以下の12通りの愛です。 祖父母から向かう夫への愛・妻への愛・孫への愛・・・・・・・3通り 夫から向かう父母への愛・妻への愛・子供への愛・・・・・・・3通り 妻から向かう父母への愛・夫への愛・子供への愛・・・・・・・3通り 子供(孫)から向かう祖父母への愛・父への愛・母への愛・・・3通り この愛さえ完成すれば、この中に全ての愛(友愛・師弟愛・隣人愛・敬老心・愛校心・地域愛・社愛・愛国心。博愛などおよそ愛のつくすべて)が含まれてしまうのです。 人が何故結婚するのかといえば、愛を感じ完成するための手段がこれしかないからです。 1家庭さえ愛を完成させれば、人類を愛する必要はないのです。(※誤解がないように真意を・・・) 言い方を変えれば、たった一つの愛の基地=家庭を完成すれば、愛するなと言ってもその家庭以外の人も愛せざるを得なくなってしまうからです。(もちろん、歪んでいない正しい愛でですよ) ですから、愛の問題を論ずる前に、結婚しないことや結婚しても子供を作らないことの方が大問題だということになります。 独身では愛を論ずる以前に人間として大失格ですし、夫婦に子供がいなかったら盗んできてまでも子供を育てるぐらいじゃなければ異常です。 そうしないと愛は完成しないのです。子供を愛し育てた経験がなくて、どうして親の愛を体得できるのでしょうか? 最初に戻りますが、1家庭単位で12通りの愛を完成しさえすれば、他の人類はいらないのです!! 愛するということに於いて、これ以上満足するレベルは存在しないからです。 言い方を変えれば、家庭愛を知った者は、人類全体を愛することなんてチョロイってことになるのです。 それを他人ではなく自分から始めることに意味があるのです。 あなたという1から・・・
- ple6
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重ね重ねのお礼、本当にありがとうございます。 今回の書き込みは本題からそれているかも知れませんし、今回もはぐらかされたり机上の話だと思われるかとも思いますが、ご一緒にこの課題(?)について考えさせていただきたいので、申し訳ありませんがお付き合い願えますでしょうか? >AであろうがBであろうが屈辱はあるのです。仏様とかなら別なのでしょうが^^ 質問者様がそう思われるのでしたら、屈辱はあるのでしょう。 ただ、その事に対して「怒り」と言う毒(もしくは不幸)を自分から求めて行かなくても良いのではないかと思った(このこと自体は私の心が感じたものですので先の回答者の方に対しての怒りの感情が無かったというのであれば私の勘違いです)ので、屈辱というもの自体は「無い」、もしくは質問者様が先の回答者が意図していない屈辱というものを「作ってしまった」だけと思えば怒らなくても済むのではないかとご提案させていただいたのですが、上手く伝えられる言葉になっていなかったようです。 これは、ひとえに私の文章力(表現力が)足りないばかりに質問者様に誤解を与えたものだと思います。 まことに申し訳ございませんでした。 >「目で見る事ができないものが無いなら」というところに力点を置いてお返事を書きました。 なので、私も「『目で見えないものを無い』と言い切れる人であるならば全ての見えないものは『無い』のだから怒る感情も『無い』のだから怒るのはおかしいでしょうね」とお答えさせていただきました。 その上で、「『愛』が在っても『侮辱』が無いと言う表現をするのはおかしいですか?」と質問者様に逆に問わせていただきました。 >私が言いたいのは、隣人を愛するという義務?は放棄しつつ屈辱などは受けない >様にルールは強調する。愛も屈辱感も「同じ目に見えないもの」なのに、愛は目 >に見えないから~などと言いつつないがしろにし、恥をかかないようにルールだ >とかマナーは強調する。これはおかしくないですか? 隣人を愛することが義務ならば隣人は愛される権利があることになるのでしょうね・・・。 ただ、私は、自身がそのような権利のある人間だとは思っていません。 ただ、愛は与えたいですし、屈辱という感情を作って怒ることによって自分も不幸にして周りの幸せを奪うことも避けたいと思っています。 まだまだ怒らないことも愛を与えることに関しても駆け出しでしかありません。 だから、質問者様に不快感を与えたのかも知れません。 このことに関しても謝らせていただきます。 どうもすみませんでした。 愛は幸せの一部だとも思います。 本当は近くにあるのに気が付かない物 だから個々がその事に気が付くことで感じられてさらに見れたり触れたりする物になるのかも知れないですね。 気が付かないからエゴが出てかき集めようとして逆に逃していくことの繰り返しなのかも知れません。 まだまだ上手く言葉に出来ませんがご質問者様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。 こういった場を提供していただいたこと本当に感謝しております。 ありがとうございます。
thank2012です。 お礼文ありがとうございました。 そしてさらにまた皆さんのやり取りをも読ませていただきました。 それでと言っては何なのですが、『ある問題点が内在している』ように感じました。 (これは、『人間の思考の特徴』とも関連することなので、 特定の一部や断片を指してではありません。) まず、『定義付け…』、『愛の定義』に大きく個人差があると感じました。 結局、『定義が同一、または明言、説明可能』でないと、 『机上の空論』やら『誤解、混乱、争乱の宝庫』になるしかないのです。 私は『愛、神佛(と称されるもの)、真理…等』は、 『人智を超えた領域(人間界、自然界、宇宙…全てを内包する領域)』ではないかと思います。 従って『人智の領域内の言語や表現、感性』では、 悲しいかな、『それを正確に全的に顕すことが出来ない』のが 実情ではないかと思います。 そう言いながらも、『人智を超えた領域はある』のは事実ですよね。 仮に『無い』と言っても『無いと言う領域が”ある”』のですから…、 やはり人智を超えているのです。 『それを』、見たい、聞きたい、信じたい、示して欲しい…といわれる方々には、 『自力でそれをしていただく』しかないようですね。 『自力』とは言え、『参考資料となるもの(様々な学問や体験経験談)』は、 いくらでも『豊富に揃っている時代』ですしね。 ただその参考資料の真偽は『他人に委ねるモノ』ではなく、 『ご自身で自力で』お願いしたいですね。 (余談)…もしかしたら『禅問答』等はそのような『観点』から始まったのかな…と、 ふと、今、思いました。 それでは。『素敵な質問の投稿』ありがとうございました^^。 と
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうなのです。 「自分でするもの」なのに、それを何故か他人に委ねる人が居る。 「見せなさい」と。 ついでに「目に見えない」ものを追加すると、「精神波」というものがあります。 完全に無言の人間が二人。 一人はず~と他人の祝福など良い事を考えている人、もう一人は他人を呪う人。 同じ無言ですが、明らかに隣に居る人には何らかの影響があります。例外は何にでもあると言う事は置いておく事は言うまでもなく。 その場合、「精神波が他人に影響力を持っている」と言って良いと思います。 ですから、精神年齢が低い人であれなんであれ、分不相応なものを要求し、それを与えられなかった→その人を呪った。 この呪いはある程度その呪った相手に届きます。その人がそういう類いの物が届き易い位置に居れば居る程。 一人一人の関係ならそれでも良いかもしれません。 でもそれが社会全体でみんなが少しずつしたらどうでしょう。 一人がタバコを1本ポイ捨てするだけで、100万人集まればゴミの山です。 私達は、日頃あまりに自分の思考に無頓着すぎるかもしれません。 さて、少し脱線しました。 「見えない愛」をそういう人たちに示し、余計な精神波を出さないでもらう為にはどうすれば良いのか。 そんな事も少し考えてみました^^
- ple6
- ベストアンサー率63% (1285/2019)
再度のお礼、ありがとうございます。 お礼の中で再度問いかけられているように思われましたのでその事について書かせていただきます。 >手で触れない科学で証明できない物が「存在しない」とするのであれば、私は今からどこへでも行って>誰かれかまわず侮辱しようが屈辱を与えようが構わないという事になりはしないでしょうか? 侮辱や屈辱を与えようと思っていても相手が侮辱や屈辱だと思わなければその侮辱や屈辱は存在しない物になるでしょう。 でも与えるほうは存在する物として与えているわけですからそれなりの結果をもたらすと思います。 逆に与えるほうがそのような感情を与えようと思わなくとも受け取る方が侮辱や屈辱を感じれば存在しない物が在るものになるのではないでしょうか? >愛を含め、手で触れない物は存在しないという人が居れば、その人は誰に侮辱されても怒る理由が無い >→怒る資格が無いと言えないでしょうか。 資格はないでしょう その人には侮辱や屈辱は存在しない物なのですから ただ、逆に愛が存在すれば侮辱や屈辱も存在するという理由にもならないのではありませんか? 愛は在るけれど侮辱や屈辱は無いと言っては駄目なのでしょうか? 侮辱や屈辱があったとしたら必ず怒らなければならないのでしょうか? >マザーテレサを想像してください。 >あの人がどれほどの苦労をして何を伝えたかったのでしょう? >何の為にしていたのでしょう? 苦労していたかは本人ではないのでわかりません。 おそらく、周りの事柄に関心を持つと言うことを伝えたかったのだと私は思います。 有名な言葉に「愛の反対は無関心です。」が有ったと記憶しています。 周りの人や物に関心を持ってその事柄に感謝して出来ることをしていく。 そのことが愛の第一歩だと身をもって伝えたかったのだと思います。 >「笑顔」は解りますが「行い」とはなんでしょう? >どういう時にどのような「行い」をすると「愛がある」という事になるのでしょう? 困っている人に手を差し伸べたり、人に喜ばれることを出来る範囲で自然に見返りを求めずに出来ることが「愛がある」行いの一つだと思います。 不勉強な身ではありますが私なりの考えを書き込みさせていただきました。 考える機会を再度いただき、ありがとうございます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ただ、申し訳在りませんが、少し話しをはぐらかしている、或は机の上だけで話している様にも見えます。 何をされてもどんな事をされても屈辱を感じない人は居ないと思います。多くの人が屈辱感を感じるAをされても屈辱感は無いが多くの人はさほどでもないBをされると屈辱感を感じる。 AであろうがBであろうが屈辱はあるのです。仏様とかなら別なのでしょうが^^ 私は「愛があるなら屈辱も存在する」と言っているのではなく屈辱であろうが侮辱であろうが羞恥心であろうが「目で見る事ができないものが無いなら」というところに力点を置いてお返事を書きました。 私が言いたいのは、隣人を愛するという義務?は放棄しつつ屈辱などは受けない様にルールは強調する。愛も屈辱感も「同じ目に見えないもの」なのに、愛は目に見えないから~などと言いつつないがしろにし、恥をかかないようにルールだとかマナーは強調する。これはおかしくないですか?という事を言っているのです。この辺りを受取って頂けると嬉しいです。 言葉が強く感じたら申し訳在りません。 一度に多くの方からご回答を頂き、一つ一つへのお礼が疎かになってしまっている事にお詫びしつつ。
- hyuuma8579
- ベストアンサー率29% (326/1097)
素晴らしいものほど、肉眼では見ることが出来ないように最初からできています。 愛が目に見える物質と同じだったなら、既に大した価値はありませんよね。 愛は絶対に見えるものとして存在してはならないものなのだと思います。 肉眼では見えないけれど、肉眼で見えるものよりはるかに心に伝わってくるものです。感じるものです。しかも曖昧ではなく確実なものとして・・・実在よりもっとリアルに・・・ 例えば、最高のホテルで最高のシェフが作った最高の料理を一人で食事してもつまらないのですが、 語り合う友や恋人などと一緒に食べるというただそれだけのことで、どんなに粗末な料理でも美味しく感じます。愛のある空間に「まずい料理」は存在しないのです。(実際は存在します。ニュアンスを掴んでくださればいいです。) 愛がなければ天国も地獄に感じ、愛があれば地獄も天国に感じる・・・それほどまでに愛の価値は強大なのだと思います。 ある意味、我々の人生は、宝さがしゲームに似ています。 目に見えない愛をどれだけ多く見つけ出したか・・・でれだけ発掘したかが問われるのです。 そして愛を探そうとすること自体が既に愛ともいえますね。 愛を見つけたら嬉しいですが、人にも分けてあげたいと思うのが愛です。 愛には繁殖作用があるのです。 しかも言葉では「愛」という一文字に過ぎませんが、その種類はいっぱいあります。 あなたはあなた自身の生き様をもってどのような愛を人に伝えたいと思うでしょうか? 愛という最強不滅のテーマがあったとして、「これぞまさしく愛だ!!」ということをあなたの生き様で示すことができたなら・・・♪♪♪ 愛さえあれば、怖いものなんか存在しない!! 死さえも・・・これ実感です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 仰る事はよく解りますし、私もそう思っています。 ただ、今回取り上げているのはもっと生々しい今ここのリアルです。 気のあった仲間と居る事ができるのはほんの僅かな人たち、或は僅かな時間。 それ以外の時は「普通の隣人」が隣にいるだけです。 多くの人が知合いでも何でも無い赤の他人にすら「愛の表現」を求めています。愛に渇いているからでしょう。もちろん本人達にそんな自覚は無いと思います。自分は赤の他人にそんな事を求めては居ないと言うでしょう。 でも私は感じるのです。 多くの人たちが愛の表現を求めている。 そして「その求めている人たちは求めるだけで与えていないので当然相手からも与えられずに受ける事ができない」ので「求め」は空振りに終わり、幻滅する→世の中世知辛いと考える^^→そのマインドが実際その通りの世界を造る。 なぜ、自分が与えていない物を相手が与えてくれない事に不満が生じるのか。。。 そんな辺りです。ニュアンスを受取って頂けると助かります^^
愛は結果だと思います。 途中見ようとしても目に鱗が付いているので本物か偽者か中々見分けがつきません。 見分けようと苦労するよりも、そういう謙虚な気持ちを持つほうがいいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね。 ただ、「何が結果」でしょうか?
お礼読ませてもらって… その人が心から嬉しいと思った時が愛をもらった時なんじゃないですか 頭の中に嬉しい喜びしかなくなった時 愛をもらったんだと思います それが愛だと思います
お礼
ご回答ありがとうございます。 少し前に保険会社のTVCMで「一度に大きくもらうのも、長い間に分けて少しずつもらうのも同じ愛」みたいな文句がありました^^ 始めに1を貰った時、それはとてもとても嬉しい物です。 でも、1を貰って少し経つとそれは「当たり前」の物で有り、2を貰わないと嬉しいとは思いません。 でも、2は上げていないけど、1は上げ続けている。 それなのに、2が無いという事を理由に「愛が無い」と言う。 こういう事って日常に溢れていると思うのです。 何故でしょう?
ごめんなさい。 さきほど、No.8で回答したものです。 全部、回答を読んでいなくて、的外れでしたね。 認識するのが難しい状況の中で。。ですか。 それでも、表現としてある程度はわかると思います。 絶対に傷つけたくない、苦しめたくない、死なせたない 守りたい。。。 こういうお母さんの気持ちは生後数ヶ月の赤ちゃんにも 日ごろの接し方で伝わっていると思いますし、 大切な人には恥をかかせたくない、安心して過ごしてほしい 気持ちよく自分とのひと時をすごしてほしい。。 夫でも友達でも恋人同士の関係でも、こちらの実際的な配慮 で気づくと思いますよ。 確かに、ずいぶん忙しい社会になりましたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 みなさん「愛は見えない」と解っているのですよね。 でも、その見えない愛を実際に自分が安心できるレベルで表現してくれないとそこに愛があると認めない事も無きにしも非ずではないでしょうか。 私の着眼点はその辺りです。 みな文章上では「愛は見えない」とか「愛は~~」等と言い、事実それらはその通りです。 でも、それが現実生活の正に隣に居る人には適用できているでしょうか? 多くの人があまりにも簡単に不安や恐怖に流され、文章で立派な事を書ける程度に愛を理解しているのにそれを行動できない。 何故なのかと思ったのです。 すみません。たまたまEllykoさんへのお礼中に書いただけで、Ellykoさんの事を言っているのでは在りません。 不特定多数の、言ってみれば空に向かっての問いかけみたいなものです。
愛は見えません。 心で感じるものです。 『星の王子さま』に有名な言葉がありましたね。 きつねが王子に言ったセリフ「本当に大事なものは目に見えない」 本当に大事なものは心で感じ取るしかないんです。 愛は伝わります。 本当に自分を愛して大切にしてくれている人のことは、どんな 小さい子供だってちゃんと知っています。 私たちは皆、愛を感じ取れるように作られて生まれてきたんです。
お礼
No.9にお返事しますね。
こんばんは。(少し早い…おはようございます。^^) 皆さんとのやり取り、読ませていただきました。 『現代社会、現実社会と愛』ですね。 まず質問者様の『着目点』はとても素晴らしいですね。 それは、『忘れてはならないモノ』ですし、 例え、消えかかっても、埋もれてしまっても、 『無くなることも減ることも無いモノ』だと思いますよ。 『認識していない=存在が無い』、そのように考えがちですし、 また、思いがちですね。 下世話なたとえで申し訳ありませんが、 事件などの『物証』を、探し出して『ある』とするより 『ないことを証明する』方がはるかに難しいのです。 認識していない…という点では、どれだけの方が、 大気(空気)の恩恵を『認識している』でしょうか…? おそらく『何らかの事情で人工呼吸器をつけた方』等しか、 空気の有難さ、自然呼吸できる人体の素晴らしさを 『認識できていない』のではないでしょうか…。 しかしApostleさんのような方が『居る』ということは、 おそらく同じように感じてらっしゃる方も多く居る筈です。 しかし、『昨今の社会事情(政治、環境、メディア…世論)』では、 『社会愛、隣人愛』等、語る機会も無くなって来たようです。 団塊の世代、高度成長期、戦争を知らない子供たち、バブル、IT革命…と (平和ボケした)時代は流れてきていますが、『愛を認識する力が底を着いた』とも 言えるのではないでしょうか? 先代の革命や改革、そして世論、流行…は、思わぬ『負の遺産』を残します。 貨幣制度で『蓄える』ことが出来るようになった反面、 貧富の差を生み出す根源にもなりました。 産業革命で物流、物資が豊かに便利になった反面、 環境破壊(温暖化、砂漠化)、個人の体力の低下に繋がりました。 IT革命は『どのような負の遺産』を残すのでしょう…? 想像に容易いかと思います。 しかし、『何時の時代でも愛』は確かに存在しています。 『愛を認識する力が底を着いた』と書きましたが、 高齢化社会、地方の過疎化、孤独死、高い自殺率、食料自給率など、 直面、認識せざるを得ない『現状』が差し迫っています。 『愛が思い出され、露見し、活動する時代』が 間も無く、否が応でも余儀なくやってきます。 全ての国民が自給自足は出来ません。 また出来たとしても『自然の恩恵』無しには無理です。 Apostleさんのような方とやり取りできるのも IT革命の御蔭ですが、少なからず次世代の方々に 『愛の認識力』と、『その本来の姿』を継承する立場に 私たちは置かれているのではないでしょうか…? 今回、net上ですが、お会いできた事、うれしく思います。 『愛の発掘』…、とにかく『出来る事から』はじめて行きましょうよ…。 中々難しいでしょうが、『あるモノを証明する事』は必ず出来ますから…。 それでは、失礼いたします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「愛を認識する力が底をついた」というよりは、愛を信じる力よりも裏切られる不安や恐怖の方が強いのではないかと思います。 町を歩いていると、ほんの僅かな「愛」でもかなり敏感にそれを認識する人は割と多いです。 例えが悪いですが^^、サメが遥か彼方のほんの僅かな血の臭いを嗅ぎ付ける様にほんの小さな愛も見つけます。 ただ、「続かない」のです。 愛を「見る事」「感じる事」に興じて、信じる事に注ぐエネルギーに欠ける。 そんな感じがします。 それをさらに我がままな人たちは「見せろ」と要求さえします。「お前に愛があるのは知っている。しかし在るだけの愛は役に立たない。自分に対して、或は他人でも良いから兎に角自分が安心できるように表現しろ」と。 本人達にそんな事を要求している自覚は無いと思いますが。。。 半ば恐喝にすら見える位です^^;愛情の恐喝、親切の恐喝、恐ろしい^^; 少し脱線してしまいましたが、今の人たちも感性は豊です。 ただ、それを正しく理解し、理解したものを維持運営発展する力に欠けている様に見えます。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 私が自覚しているにも関わらずあまり治っていない良くない癖があります。 「ネット上で言葉が自分の思考に真っすぐ過ぎる上に補足が足りない」事です。 私は怒っていません。 ただ思った事を思ったまま書いているだけです。 もし私が怒ったなら「私は怒っている」と書きます。 質問をしておいて申し訳在りませんが、私も時間が有り余っている中で書いている訳ではなく、時間に追われ言葉が足りない上にフォーマルではないと解っていつつも相手方の理解力に期待し過ぎて言葉足らず→何ターンか余計にかかるという事がよく在ります。 申し訳ありません。 さて、ple6さんは、「屈辱」を感じた事がないのでしょうか?またこれから無いと思っていらっしゃるのでしょうか。 理論上は幾らでも言えます。しかし、屈辱を感じない方が良い、それを怒りに繋げない方が良いと言っても実際現実には繋がってしまう事もある。 机の上のお話しは大切です。しかし、現実も踏まえて初めて机の上のお話しが実りあるものになると思います。 強調しますが、私はPle6さんのご意見には100%同意しています。よく相手方の言っている事への理解が足りず、Ple6さんの様な事を実戦すれば”机上の空論とやら”がどれほど力強く影響するかという事も知らずに「現実を見ろ」なんて言いつつ結局その”その人の言う現実とやら”から抜け出せない人がいますが、そういう事を言っているのではなく、伝えるのが難しいですがやはり「現実を踏まえて」という言葉になってしまうのです。 Ple6さんを何も否定する事無く、さらに枠を広げて考えてお話しをしているつもりです。 Ple6さんの言っている事は何も間違っていません。ただ足りないと思うのです。 Ple6さんの仰っている事を実戦しつつ、現実を踏まえつつです。