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愛は見る事ができますか?肌で感じる事ができますか?

こんにちは。 「愛」について考えています。 色々な人が「愛が無い」などと言ったり、同様の言葉を言ったり発想を持っていたりしています。 果たして実際、現実にそうでしょうか?

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  • ple6
  • ベストアンサー率63% (1285/2019)
回答No.16

簡単にだけ・・・。 >さて、ple6さんは、「屈辱」を感じた事がないのでしょうか?またこれから無いと思っていらっしゃるのでしょうか。 そう問いかけられて改めて考えて見ました。 あったのかも知れません、またこれからも無いとは言い切れないのかもしれません。 ただ、私の中で人より出来ていない部分があることは事実ですので侮辱や屈辱の記憶を思い出そうと思っても出てこないのですよね・・・。 頑張ってもどこか、から周りで、考えもなかなかまとまらず、そのためにどちらかと言えば受けるよりも侮辱や屈辱と思われてしまう行為知らない間に人に与えていたのではないかと思いました。 基本的に内罰型のような気がします。 なので怒る感情一旦外に出ても後から考えて見ると自分にも原因があるのではないかと考えてしまいます。 ただ、意地っ張りなので人に謝ることをしていなかったような気がします。(これが逆に与えていたのではないかと思われる理由です) だから節目節目で自分が嫌いになっていました。 愛に関しても少し前まではApostle様が他の方のお礼で書かれている。 「1貰ったら次は2ください」というような考えをしていた部分があったと思います。 これが今、完全に直っているのかと聞かれたら自信は無いのですが・・・。 ただ、そのことで友達を無くしそうになったり、そういった痛い目に何度もあったり 以前の書き込みの「愛の反対は無関心」だと言う言葉を知ったり 自分が「生きている」いるのでは無く「生かされている」ということに共感できたことで 自分の周りに形は違えどいろんな愛があふれているのではないかと気が付いたことで 「当たり前」が本当は「在り難い」ことだと思えるようになってきたのです。 (このあたりはまだまだ思い込みなのかも知れないのですが・・・。) ただ今の私はそのことへの感謝の気持ちを人に上手く伝えられていないのかも知れませんね。 その辺りが Apostle様の言う足りない部分なのかも知れません。 貴重なお時間をいただきお読みくださりありがとうございます。 また、簡単にといいつつ長文になったこと深くお詫び申し上げます。

その他の回答 (16)

  • ple6
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回答No.6

他の方へのお礼などで少しだけ質問の意味がわかったので少し補足させていただきます。 先の回答者様が「愛は存在しない」と書かれておられるのも一理あると思います。 愛は心と言うこれもまた、目に見えない触れないと思われるもので感じるものなため物理的な意味では無いことになりますし、愛が在ると思われた物質も心が変わる事で悲しみや苦しみの物質になることもあるため無いと言ったほうが楽なのだと思います。 また私の前回の書き込みで書いたようにこちらが愛を持って接しても受けた側が愛を感じなければそこに在るのに無いと言う 愛が哀に変わって存在している事も愛は存在しないと言う考えを持つ要因なのだと思います。 愛は時として欲として存在することも確かだと思います。 たくさんの愛をいただいているのに愛を求めることは人の欲なのではないのでしょうか? なので、愛は存在するけれども押し付ける物でも要求する物でもない。 感じ見ることも出来るけれどそれ自体は「愛」の本質ではない 愛は見返りを求める物でもなければ返せないことも多い物ではないでしょうか? 見返りを求めるから、身を粉にするほどの努力が必要なのではないのですか? 伝わっていなくてもそこに愛は確実に在るのですから。 この文章を綺麗事と取るかはご質問者様の自由ですが私はそのように考えています。 隣人愛とか難しいことはわかりませんが、愛は心からの笑顔と行いと言うのでは駄目なのでしょうか? 最終的な回答は質問者様自身の中にあると思いますのでとりあえずご参考まで。 今回もお読みくださり、ありがとうございました。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 手で触れない科学で証明できない物が「存在しない」とするのであれば、私は今からどこへでも行って誰かれかまわず侮辱しようが屈辱を与えようが構わないという事になりはしないでしょうか? そもそも手で触れないものが存在しないのであれば、「侮辱」や「屈辱」などという概念すら存在したかどうかわかりません。 愛を含め、手で触れない物は存在しないという人が居れば、その人は誰に侮辱されても怒る理由が無い→怒る資格が無いと言えないでしょうか。 愛には時として忍耐や努力が必要です。それを「存在しない」としてその荷からだけは逃れつつ、屈辱という手で触れないけれども感じるものだけは受けたくないとはおかしな話しに見えます。 よく言う「義務は果たさないが権利だけは使う」というやつでしょうか。 私は恥ずかしながら身を粉にしてそういう努力をした事はありません。 マザーテレサを想像してください。 あの人がどれほどの苦労をして何を伝えたかったのでしょう? 何の為にしていたのでしょう? 「笑顔」は解りますが「行い」とはなんでしょう? どういう時にどのような「行い」をすると「愛がある」という事になるのでしょう? 私が得たい事柄をうまく質問文にする事ができなかった為、軸になりそうな事柄を書き込んで行き、その周辺でお話しを進める事によって答えに至れたらと思っています。 面倒な事で申し訳ありません。 ありがとうございます^^

  • ple6
  • ベストアンサー率63% (1285/2019)
回答No.5

ご質問の意図がわかりませんので一言質問させていただいてよろしいでしょうか? ご質問者様は「愛」を与えたいと思っておられるのでしょうか? それとも、「愛」を感じたいと思われているのでしょうか? あくまでも私の考えですが、愛は回りに対しての「いつくしみ」だと思います。 なので表題の質問をそのままの意味で取って回答するならば私は「物質の形になったものであれば見られるし肌で感じることも出来る」と思います。 ただ肌や目から入った情報自体が「愛」であるというよりはそこに「愛」が含まれた形で存在する形になると思いますので心が「愛」を感じられるかどうかにより、見られたり感じられたりする形になるのかが変わるものだと思っています。 愛があっても受け手にとっては愛が感じられなければ存在はしませんし 極端な話では呼吸のみで地球からの愛と感じれば「空気言う肌で感じられる愛」になると言うことだと思います。 見当違いであった場合すみませんが私の考えを書き込みさせていただきました。 ありがとうございます

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。No.2の方への返信でも書いた事の繰り返しになってしまいますが。 実は、個人間の恋愛などは全くこの質問の視野には無く、社会の中での隣人愛みたいなものを対象としています。 多くの人が時間に追われ、生活に追われしつつ一所懸命生活しています。 つまり、愛情表現をしたくてもできない人が多いですよね。 でも、「表現がないだけでその心には愛(隣人愛)がある」と思うのです。 どの位の行いが目に見えれば「愛がある」と言う事になり、どの位の量の愛情を雰囲気にすれば肌で感じれる「愛がある」という事になるのか。 人夫々「認識能力」は違うと思います。 認識能力のある人は「愛はあるだけ」で大丈夫ですが、認識能力に欠けている人には身を粉にして表現しないと伝わりません。 そして、昨今、社会全体が「認識能力」が低下してきて、認識しない=無いとなってしまっている様に思えます。 この辺りを軸に社会問題?として話しをしたかったのでした。 すみません^^;

  • yuki_0506
  • ベストアンサー率31% (63/203)
回答No.4

CMで似たようなのを最近見ました。「思いはみえないけど、思いやりは見える」と、子供が年配の方の手を引いて階段を昇るシーン。 愛とは「見返りを求めない行動」と聞いたことがあります。親が自分のおかずを無償で子供に譲ることを例えて聞きました。 強いて言う見返りは子供の笑顔といったところでしょうか。 愛とは相手を思う心を、形にして行動する事ですかね。行動せず、見守るのも愛。自分の意思で、その人の為に選択したことすべてが愛だと思います。前文に出た思いやりも言い方を変えれば愛だと思います。恋人、子供、友人など、自分が好意を持ってる人全てに対しての思いやる心を指すのでしょうか。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。No.2の方への返信でも書いた事の繰り返しになってしまいますが。 実は、個人間の恋愛などは全くこの質問の視野には無く、社会の中での隣人愛みたいなものを対象としています。 多くの人が時間に追われ、生活に追われしつつ一所懸命生活しています。 つまり、愛情表現をしたくてもできない人が多いですよね。 でも、「表現がないだけでその心には愛(隣人愛)がある」と思うのです。 どの位の行いが目に見えれば「愛がある」と言う事になり、どの位の量の愛情を雰囲気にすれば肌で感じれる「愛がある」という事になるのか。 人夫々「認識能力」は違うと思います。 認識能力のある人は「愛はあるだけ」で大丈夫ですが、認識能力に欠けている人には身を粉にして表現しないと伝わりません。 そして、昨今、社会全体が「認識能力」に欠け、認識しない=無いとなってしまっている様に思えます。 この辺りを軸に社会問題?として話しをしたかったのでした。 すみません^^;

  • YUNAS
  • ベストアンサー率27% (113/411)
回答No.3

 愛は見ることではなく、肌で感じるでなく「心」で感じ取るものであると思います。  また、その心を相手に発していないと相愛にはなりません。  気持ちの問題といえばそれまでかもしれませんが。言葉や行動では表しきれないものだと思います。  これは回答者(私)と質問者では違うかもしれません。  参考にならなかったらごめんなさい。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。 頭が回っていないのか、質問文があまりにも言葉足らずだったようです。 実は、個人間の恋愛などは全くこの質問の視野には無く、社会の中での隣人愛みたいなものを対象としています。 多くの人が時間に追われ、生活に追われしつつ一所懸命生活しています。 つまり、愛情表現をしたくてもできない人が多いですよね。 でも、「表現がないだけでその心には愛(隣人愛)がある」と思うのです。 どの位の行いが目に見えれば「愛がある」と言う事になり、どの位の量の愛情を雰囲気にすれば肌で感じれる「愛がある」という事になるのか。 人夫々「認識能力」は違うと思います。 認識能力のある人は「愛はあるだけ」で大丈夫ですが、認識能力に欠けている人には身を粉にして表現しないと伝わりません。 そして、昨今、社会全体が「認識能力」に欠け、認識しない=無いとなってしまっている様に思えます。 この辺りを軸に話しをしたかったのでした。 すみません^^;

noname#133440
noname#133440
回答No.2

肌で感じる事はあります。 私は女ですが、最愛の彼氏なのに「ムリ!」って時あります。 多分どちらかの気持ちがささくれ立って、愛情をうまく交換出来ない時ですね。 そんな時は腕をくむのもギクシャクします。 愛情が溢れていると、自然と手を握り合ったり、触れ合うだけで幸せになります。 見るのは難しい。。。 愛情を上手く表現できない不器用なタイプか、器用なタイプかによると思いますよ。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ここに来て「交換」という言葉が改めて少し新鮮でした。 まだ整理できていないので言葉もありませんが、大切なポイントの様に思えます。 ありがとうございます。

  • sadmaso
  • ベストアンサー率33% (27/80)
回答No.1

この世に愛などというものはありません。その証拠に手にとってみられません。愛とは所詮感情の一部に過ぎないのに、人々は勝手に愛という名前でよんでるだけです。例えば神はこの世にいますか?現実的、科学的にも神なんて存在しません。神というのは人間の精神から生み出された幻想に過ぎません。それと同様に愛というものは存在しません。ただの幻影です。

noname#207138
質問者

補足

すみません。 真面目に考えているのです。 茶化さないでください。 また、もし本当にそう考えていらっしゃるのであれば、あまりの世界観の隔たりにsadmasoさんとお話しをするモチベーションはかなり低くなってしまいます。 宜しくお願い致します。

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