余命いくばくもない時、例えば英単語を覚える気になりますか?
急に深刻な話題ですみません。別に私が今、「余命いくばくもない」という訳ではないんです。まあ、明日のことはわかりませんが・・・。
私は、知識欲や好奇心、向上心などというものは、本来、年齢を重ねても衰えるものではないと思っているのです。とりわけ、英語に関しては興味があり、毎日英字新聞やNHKラジオの英会話や英文日記などを通じ楽しみながら研鑽を重ねています。
しかし、英単語やイディオムもいくら覚えても覚えても後から後から知らないものが出てきます。・・・こうして年を重ね、タイトルのような時に至った時、果たして、その後使うことが多分ないであろう英単語やイディオムをそれ以上覚える必要があるのか?或いはその気力を出せるのか?・・・と疑問がよぎりました。
歴史や小説や芸術関係の知識や素養は、知っていること自体が本人の人生を豊かにするのだと思います。しかし、私にとって英語はそれ自体「目的」というよりも「楽しみ」であり、私の人生と不可分な部分integral part of my life だと思います。それでも、やはり一方では、やはり「使って何ぼ」の世界だというのも否めません。今、日々覚えようとしている英単語やイディオムだって、結局これから一生の間に実際に全部使うとは限らない、言ってみれば「無駄な知識」に終わるかもしれません。
この件につき、私が思い出すのは、妻の知人のおじさまで、何か国語も勉強したバイリンガルの方が、死の床に至るまで、語学の勉強をされていた姿です。又、20歳まで生きられないと言われていた中学生だか高校生の女の子が必死に学校の授業に着いて行こうとしていた姿を描いたテレビのドキュメンタリー番組も印象に残っています。
あくなき知識の習得・・・それは生きている以上、ずっと追い求めたい崇高な人間の姿です。
人類の森羅万象を単純に学びたい素朴な欲求は、誰にでもあると思います。しかし、限られた人生の時間の制限があり、人はどうしても優先順位をつけ、「その後役立つかどうか。使うことが実際にあるかどうか。」といった基準で、絞っていくのだと思います。
そうした基準で考えた時、死ぬ時まで英単語やイディオムを覚えようとする行為は、もはや意味を失っているのかもしれません、しかし、単純に「知りたい。」、「覚えたい。」と感じ、そのことに喜び(自己満足でしょうが・・・)を感じる人間にとっては意味があるものかもしれません。
長文になりました。
煎じつめれば、「あなたにとって語学取得は、『目的』か、それとも『手段』や単純な『人生の楽しみ』か?」ということになろうかと思います。
この質問は敢えて、「アンケート」ではなく「英語」カテゴリーに出すことにします。
皆様の感じられたことを自由にお答え頂ければ、と思います。
お礼
>私にとっては夕涼みの為に下駄を特注して履くことが 夕涼みそのものよりも楽しかったりもします。>そういう考え方の方が、楽しみも増えて人生をエンジョイできるんじゃないでしょうか? そうなんですよ。私も全く同感です。やれ資格試験や就職のためだとか、仕事で外国人と接するから已むを得ずとか、そういう目的のために、手段として英語を学ぶというのは、非常に「目的合理的」であって理にかなったことだと思うのですが、そういう目的のための手段のためだけに何かに取り組む、という人生を私は好きになれないんです。「目的」と「手段」を取り違えてはいけない、といきまく人も多いし、そちらの方が正しいとも思うのですが、私はそういう割り切った考え方に反旗を翻したいといつも思っています。ものごとを「役に立つか」どうかではなく、それ自体を「目的」或いは「楽しみ」と考えた方が、あなたの言われる通り、楽しい人生になるのではないかと考えます。 そして、「一定のレベルまで到達すると もはやこれから先は純粋に語学としての英語の勉強じゃなくなってきて、英語を介して 法律とか科学の学習になってしまう。」というのもよくわかるんです。 SPS700さんが「手段」と言われたのもこれで納得です。 最後の 「冥土に行っても役立つ時が来るかもしれないという気持ちで勉強し続けるかもしれません。」というユーモアにあふれるお気持ちの吐露も含め、色んな思いをうまく納得いくようにブレンドして頂き、腑に落ちる思いです。どうも有難うございました。