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静岡には清水の次郎長以上の大親分である「首つなぎの親分」安東文吉がいた
静岡には清水の次郎長以上の大親分である「首つなぎの親分」安東文吉がいたのに、何故次郎長ばかり有名なのでしょうか?文吉は大勢の子分がおり、弟の辰五郎と共に幕府からも信頼され、十手持ちも任されていた程の人物です。ご回答よろしくお願い致します。
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伝記作者の違いですね。 安東文吉は、明治政府に「地方の偉人」として出された伝記が、そのままお蔵入りにされてしまいました。結果として、地方での有名人に留まった。 一方、清水次郎長は天田五郎の『東海遊侠伝』が、山岡鉄舟の序文、勝海舟の題字で出版され、日本中で読まれました。それを材料に神田伯山が講釈にし、その講釈を元に廣澤虎造が浪花節で語る。次郎長が有名になったのは、当時のメディアに乗ったからです。 その証拠に、明治維新の際の次郎長が、咸臨丸の戦死者を葬ったという「義挙」や英語塾を開設したという史実は、驚くほど知られていません。 次郎長自身、荒神山の出入りの時には。本職の講釈師を「従軍記者」のように派遣しています。メディア戦略については、次郎長にも才能があったのですね。
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- townsx
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自分の地元の○○一家は、維新前は幕府側に付き、維新後は新政府に付きました 恐らく今も同じなんじゃないでしょうか 任侠を標榜しながら十手持ちって言うのが最高に笑わせてくれますね 恥ずかしいから逃げちゃったんじゃないですかw
お礼
ご回答どうもありがとうございます。話に聞いてる文吉は固辞したにも関わらず、無理矢理幕府から十手を預けられ渋々引き受けた様です。十手を持ったからと言って威張る事は無く、いかさまがばれた次郎長の窮地を救ったり、次郎長と黒駒勝蔵の和解に努めたり、関所手形を使い事情のある博徒たちを大勢逃がしてやるなどしています。どうもありがとうございました。
- 1582
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十手持ちも任されていた程度だからです 次郎長が有名なのは親分としてではありません 親分としてはかなり小物です 足を洗う直前からの彼の行動を見直せば 格の違いがわかると思います
お礼
ご回答どうもありがとうございます。確かに格が違いますね。安東文吉には次郎長も何度か救われ、静岡の方には足を向けて寝ない様にしていたと聞いています。日本一の大親分と呼ばれた上州の大前田英五郎も、八州廻りの道案内の総元締をしていたし、甲州の大親分である三井の卯吉も、二足草鞋の大親分でした。どうもありがとうございました。
お礼
ご回答どうもありがとうございます。安東文吉の伝記がお蔵入りとは残念ですね。弟の辰五郎と共に幕府から信頼され十手持ちを任され、清水次郎長の窮地を救ったり、多くの博徒を逃がし「首つなぎの親分」「暗闇の代官」と呼ばれ、地元にも尽くすなど、博徒世界や町衆の人望も熱かった人の様で、何だか名が知られていない事がもったいないですね。次郎長の咸臨丸の戦死者を葬った「義挙」は知ってましたが、英語塾、荒神山の出入りの際の講釈師派遣は初めて知りました。どうもありがとうございました。