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犠牲をいとわないことをひとは愛せるか?
- 主よ、わたしと争う者と争いわたしと戦う者と戦ってください。
- わたしの命を奪おうとする者は恥に落とされ、嘲りを受けますように。
- どうか、思わぬ時に破滅が臨み彼らが自ら張った網に掛かり破滅に落ちますように。
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☆ 言いかえると (β) 《敵を愛しなさい》とは どういうことをいうのか? ○「敵を愛しなさい。」であって「悪魔を愛しなさい。」ではないのですね。 イエスは悪魔には厳しい人ですよ。決して許しませんよ。ということです。つまり、「敵と見えし者」には定義があるのですね。信仰という土俵の上での定義ですね。信仰も無い悪魔(動物)は敵にはなりえないのですね(国としては、中国や北朝鮮が当てはまる)。 (γ) 詩篇35章8節のような思いを持ったら 愛において 失格か? ○ 上記敵の定義の範疇にたいしてなら失格。悪魔に対してなら当然のことですね。 ダビデは、7節で、「彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張りわたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。」とあります。悪魔の仕業といっているのでしょう。 悪魔に対しては厳しく望むというのが道理です。 (α) 犠牲をいとわないことをひとは愛せるか? ○ 信仰と正義の名の下に人は神になれるのですね。それも愛ですね。 十字架も愛なら、神風も愛ですね。 経団連の言う、金になる愛はありませんね。悪魔に魂を売ってもうけることですね。 愛とは単純ではありません、複雑なものです。複雑さを理解した上での「犠牲をいとわない愛」は肯定されるべきものですが、理解が無い、あるいはできない場合は否定すべきものです。なぜなら、多くの不幸を生むだけだから。 参考程度に
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- mmky
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▲ (パウロ:ローマ書13:1-7) ~~~~~~~~ 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 ○ 「神に由来しない権威はなく」、なるほどですね。パウロいやパウロの前のサウロは「ユダヤの権威、パリサイ人やサドカイ人の権威に従い、イエスを十字架にかけ、石打の刑で弟子を殺したのですが、その権威に神の祝福があったのであれば、サウロは回心してパウロにならなくても良かったのですね。 神が何を祝福し、どちら側に立っているかは、心清きものには見えても、地上の権威に従うものには見えないのですね。神の権威に従うならば、心清くなければいけませんね。 「心清き者は幸いである、神をみるであろう。」ですから、 そこで、「旧ソ連」「中国」「北朝鮮」これらは神の権威で出来た国ではありませんね。 神と正反対の悪魔が打ち立てた国ですから、「神に由来しない権威はなく」は正しくないのですね。 ニーチェ、マルクス、スターリンなどはあの世でルシファーの手先の悪魔になった連中ですからね。 当時のパウロの認識はまだまだ低いのですね。 悪魔は空想の産物ではなく、日々の現実なのですね。だから神の権威がなへんに在るかをを知ることが大切なことなのです。ということで、2000年前のパウロでは迷いますね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 なおひとつの主題を成すという観点から お応えしてまいります。すなわち ☆☆(No.2補足欄) でも このことは一概に規定できるものではないと考えます。(また 質問を出さなくちゃならなくなりました)。 ☆ という姿勢からのものです。言いかえると 部分的に議論の趣旨が対立するかのように絡み合うところがあるようにも思います。 わたしのいまの考え方を先に述べます。 ▲ (パウロ:ローマ書13:6-7) ~~~~~~~~~ ・・・権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 言いかえると 悪法も法だと言うソクラテスではありませんが 権威者による統治に関して 善政もあれば悪政もあるという見方を基本的にしているというのが 趣旨にあります。 言いかえると 統治者の権威じたいは 一般に――と言ってもそれは 経験科学としてというよりは神学としてのようになりますが―― 神に由来していると考える余地があるのではないか。これです。 つまり 上の引用文にあるように 法律として取り決め合ったことについては 税なら税を それがどれだけ不合理であっても一たんは 納めるということが 一般的な姿勢になるかと考えます。 ▲ 神に由来しない権威はなく ☆ が すべての統治のありさまに直結しているというのではないと考えられます。権威の悪用ということがあり得ます。 ★ そこで、「旧ソ連」「中国」「北朝鮮」これらは神の権威で出来た国ではありませんね。 ☆ これについても権威の悪用というワンクッションがあるという見方です。 ★ ニーチェ、マルクス、スターリンなどはあの世でルシファーの手先の悪魔になった連中ですからね。 ☆ スターリンは血の粛清について責任を負うでしょうね。 ニーチェは 大したことがないので 放っておきます。 マルクスは 特別に問題はないと考えます。ところどころいいことを言っていると思います。おそらくマルクス教に仕立て上げた後世の人間たちが 問題なのではないでしょうか。しかしそれもこれも 貧しさゆえにその宗教を支えにしようとした人たちもいたということではないでしょうか。こちら(貧困に苦しむ人びと)のほうは あまり責められないように感じます。 こんな感じです。一概に決めようとして言っているのではありません。議論の絡み合うような主題は残るのではないかという思いからです。
- mmky
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「犠牲をいとわないことをひとは愛せるか?」 ダビデの詩篇は現代では、投獄中の中国民主活動家、劉暁波氏の詩篇のようですね。 いつの時代にもダビデは存在しているのですね。 「7.彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り、わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。 」 「8.どうか、思わぬ時に破滅が臨み、彼らが自ら張った網に掛かり、破滅に落ちますように。」 そこで、 「「ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、中国共産党の一党独裁体制の廃止などを求めた「08憲章」の起草者で、中国で服役中の民主活動家、劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏(54)に2010年のノーベル平和賞を授与すると発表した。」ニュース抜粋 中国政府はこの事実の国内への伝達をあらゆる方法で阻止するでしょうね。古くは始皇帝、近代ではナチスの焚書ですね。本は焼けますが電波を止めるのは大変でしょうね。情報統制こそが悪魔の最大の武器ですが逆手に取られると困るのですね。 つまり、「神は悪魔の国家の存在を許さない。」ですね。信仰と正義はたとえ、それを護るものが一人であっても、牢獄につながれていようとも、十字架にかけられようとも護られるものなのですね。 その一片の詩が、 「犠牲をいとわないことをひとは愛せる。」また、「神はそのような人をこそ愛する。」 なんですね。 日本の多くの愚民も、中国の魚の群れほどの多数の愚民も「劉暁波氏の生き様こそ見習うべきもの」と知るべきですね。 そのことが、自らが悪魔の手中に落ちていることに気づく良い機会だと思いますね。 現代風な解釈ですが、参考程度に
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 劉暁波( Liu Xiaobo )らの起草による《零八憲章 Lingba Xianzhang 》から《基本理念》を掲げておきます。 ◆ 08憲章=中華連邦共和国憲法要綱 ~~~~~~~~~~~ http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2 二、我々の基本理念 中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。 自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。 人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。 平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。 共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。 民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。 憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。 中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ■ (中国政府、劉暁波氏のノーベル受賞に反発 独仏は釈放要求) ~~~ http://www.afpbb.com/article/politics/2764421/6302568?utm_source=afpbb&utm_medium=detail&utm_campaign=must_read ・・・ノーベル平和賞の原則に違反していると批判し、・・・た。 中国外務省は声明で「ノーベル平和賞は民族共生や国際友好、軍縮の推進に取り組む人々や、和平会談を開催した人物に表彰されるべきものだ。それがアルフレド・ノーベルの願いだった」と発表。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように考えるなら 劉暁波に声援を送りたいとわたしも思います。 ただし 否定するため・あるいは反論するためにではないのですが わたしには気にかかる事柄がないではありません。それを補足欄にしるします。
補足
劉暁波の行き方にちなんで考えるところ(思案するところ)をしるします。 つぎのパウロの言葉がわづかに引っかかります。 ▲ (パウロ:ローマ書13:1-7) ~~~~~~~~ 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 何とふるくさいことを言っていることよという文章です。 わづかにこのパウロのこころが生きる道が見出せないでもありません。 ○ 権威にはしたがうゆえに そしてしたがった結果そのいいところを 生かすためにこそ 物言いをつける。 ○ したがうゆえに 批判をおこなう。 ○ 《すべてのひとに対して すべてのものになりました》の実践。 ☆ おそらくこの実践の結果として 改革が実行される。あるいは果ては いわゆる悪政があばかれその政権が転覆されるのだと。 わたくしも 日本の社会について批判をおこなっていますが むしろその社会にべったりたっぷり就いた――したがった――その結果であるとも考えています。 でも このことは一概に規定できるものではないと考えます。(また 質問を出さなくちゃならなくなりました)。
お礼
ううーん。むつかしい。いやぁ むつかしい。――エムエムケイさん お早うございます。どえらく考えさせられるご回答をいただきました。ありがとうございます。 ★ 複雑さを理解した上での「犠牲をいとわない愛」は肯定されるべきものですが、 ☆ そうなのでしょう。分かるように思います。ううーん。 一たん理解したと思っていたら その上の理解があった。そしてそのまた上のひらめきも出て来た。いやいや まだまだ高いさとりがあった。なおその上の直観が やっとあたえられたと思ったら それは取り敢えずの仮りのさとりだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ となると 或る程度の理解ができても いったいどのように肯定すればよいか こころもとない状態がつづきます。《犠牲をいとわない愛》として 自分なりに分かった よっしゃうんぬんというわけに行くには・そのときのためらいに打ち勝つには よほどのさとりが要るように思われます。 ★ 理解が無い、あるいはできない場合は否定すべきものです。なぜなら、多くの不幸を生むだけだから。 ☆ こちらに傾きがちになってしまいます。純粋なひとはちがうかも知れません。 もうここで止まってしまいました。 ★ ○「敵を愛しなさい。」であって「悪魔を愛しなさい。」ではないのですね。 ☆ ああこれは 分かりやすい言い方ですね。罪を憎んでひとを憎まず。存在を愛し 存在はどこまでも愛し おこないについて物指しを当てて人間もあれこれ判断する。互いに自由に批判しあう。という言い方で ふところにおさめます。悪魔の定義も面倒だから。それでいて敵と突き合わせてみると分かりやすいようなのですが。 いやぁ かみわざを分かろうとするのが どだい思い上がりでしょうか。それでも問い求めることは 怠り得ないというべきでしょうか。とほほ。 ありがとうございました。
補足
No.2補足欄をおぎないます。 ☆☆(No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~ わづかにこのパウロのこころが生きる道が見出せないでもありません。 ○ 権威にはしたがうゆえに そしてしたがった結果そのいいところを 生かすためにこそ 物言いをつける。 ○ したがうゆえに 批判をおこなう。 ○ 《すべてのひとに対して すべてのものになりました》の実践。 ☆ おそらくこの実践の結果として 改革が実行される。あるいは果ては いわゆる悪政があばかれその政権が転覆されるのだと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように《権威に従った結果》として たとえば劉暁波が当局に捕らえられたのなら そのようなかたちで犠牲になることをいとわなかったとしても そのことは分かる気持ちになります。 つまり 犠牲をいとわないことを愛せる場合になるかと思うところがあります。 * 犠牲は イエスでおわった。理論的におわった。弟子たちが迫害され犠牲になったのは 余韻である。 むろんその後にいろんな殉教の歴史もありますが 基本的に別だと考えます。個人の信仰としての問題であるよりは 集団としての宗教の問題に移っていると考えるからです。 したがって 《犠牲になること》は ない。という基本的な考え方をしています。