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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:国家とは 幻想である。)

国家とは幻想である

このQ&Aのポイント
  • 国家とは幻想であり、その存在を考える方向に進むべきだ。
  • 人々は農耕を始めてから、神々に感謝を込めて祭りを行ってきた。
  • 国家は社会の神棚であり、政治は人々の共同自治であると言える。しかし、現在の政治に対して大政奉還すべき意見も出ている。

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noname#123390
noname#123390
回答No.3

早急なご返答ありがとうございます。質問者様の新しいイメージがかなり読めてきたように思えます。 国際間での民間によるなしくずしの連帯、連携を粛々と進めていって、ある時点ではすでに国家というものをぐさぐさの穴あきスポンジのようなものに変え、その反面において世界全体を均質にしていく。気がついたらいんたーむらむらワールドが出来上がっていたというサープライズでしょうか。なかなか面白いイメージですね。 >ムラどうしの連携・連帯――連村制とでも言うでしょうか―― これをいまの国際的にも展開するところのインタナショナルなインタムライズムを想定しています。 > 初めはいまの姉妹都市の制度を拡大・拡張するようなかたちになるかと考えます。   >ムラ議会には 互いに提携先のムラの人間も議員に選出されます。選挙を互いに投票し合います。  それには 留学や研修 さらには移住などなど活発な交流を通じてその基盤を築いて行かねばならないでしょう。        > ちなみに ムラ長(おさ)つまり市町村長は 究極的には ムラビト(市町村民)の当番制としたいと考えております。裁判員制度ではありませんが 今年から数年はおまえ 次はおれ その次はあいつといったふうに――と言いますか やはりくじ引きがいいでしょうね―― 誰もが代わり番こにつとめます。みなが一人ひとり小さなキリストだというわけです。 ここでの斬新さはやはり選挙というものをせず、あくまで実質的な全員参加を促しているところですね。これは私の町内会などでは既にやっていたことです(会長の輪番制、など)。 確かに魅力はありますね。この場合の当面の問題は、民衆個人レベルの均質性です。くじびきでとんでもない隠れタイラントが現出した場合の当該村の悲惨は考えるのもおぞましい。 そして、やはりそのムラ政治をサーヴィス的に支えるテクノクラートの必要性は、現代の高度な社会を維持するだけのものはどうしても必要で、これをコンピュータだけでまかなえるかどうか、そんなところもこれらの課題であろうと思います。 思いついたことをぐだぐだ、書きました。失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでの斬新さはやはり選挙というものをせず、あくまで実質的な全員参加を促しているところですね。これは私の町内会などでは既にやっていたことです(会長の輪番制、など)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いやぁ こんなにすぐに了解していただけるとは。おまけにすでに現実におこなわれているとか。  ――こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――  いつもは 何かと難癖をつけられるものですから 或る意味で拍子抜けでもありますが これはこれは かつての龍馬も夢見る人には終わらないと言っていいようですね。  ただし ただちにですが この《当番制》については これだけは 次のように吉本隆明から借りていますので その点おことわりしておきます。  ▼ (吉本隆明) ~~~~~~~~~~~~~~~~  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たち(市民一般)は 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。  【Q:吉本隆明の思想について】(その趣旨説明より引用)   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html  ( noname#80116 は わたしです)。  (吉本隆明については 全体としてわたしは ついて行けないと考えています。部分部分に見るべき思想があります)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  確かに魅力はありますね。この場合の当面の問題は、民衆個人レベルの均質性です。くじびきでとんでもない隠れタイラントが現出した場合の当該村の悲惨は考えるのもおぞましい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかにわたしたち一人ひとりの自覚と力量がためされますね。  次の課題 すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  そして、やはりそのムラ政治をサーヴィス的に支えるテクノクラートの必要性は、現代の高度な社会を維持するだけのものはどうしても必要で、これをコンピュータだけでまかなえるかどうか、そんなところもこれらの課題であろうと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては やはり優秀な人間たちに霞が関からムラムラの役所や研究機関などに或る程度の数は《アマクダリ》をしてもらって がんばっていただきたい。いえ とびっきりの優秀者は初めからムラムラの公務員であることを志望してもらたいですね。そのあとに国のほうへってなぐあいで。  覚え書きとして重ねてかかげます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  国際間での民間によるなしくずしの連帯、連携を粛々と進めていって、ある時点ではすでに国家というものをぐさぐさの穴あきスポンジのようなものに変え、その反面において世界全体を均質にしていく。  気がついたらいんたーむらむらワールドが出来上がっていたというサープライズでしょうか。なかなか面白いイメージですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだまだこれから いろんなイメージをふくらませて行って思考実験やら試行錯誤を経て行くものと考えます。  これからはニッポン人の出番ぢゃないですか。

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  • p1ur
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回答No.4

創発民主主義というのをnetで見ました。 現在に即した、いい考え方だと思いました。 国民に3大義務を課しているうちは、国民は奴隷とかわらないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 p1ur さん ご回答ありがとうございます。  ▲ (wiki:Emergent democracy ) ~~~~~~~     http://en.wikipedia.org/wiki/Emergent_democracy  Emergent democracy refers to    the rise of political structures and behaviors    without central planning and    by the action of many individual participants,    especially when mediated by the Internet.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 伊藤穣一:創発民主主義 2003    http://www.glocom.ac.jp/odp/library/75_02.pdf     ううーん。どうなんでしょう。  (1) 個人の存在の(心の)底から湧いて出て来るような思いとその行動にもとづき それによって力を合わせて民主制社会をかたちづくって行こう。  (2) それにはブログなどのツールを初めとしてインタネットを利用するとよい。  ☆ こんなところとして受け取ったのですが 言いかえると まだよく分かりませんでした。  国家とその仕組みも残しているようですし(ただしただちに無くせとわたしが言っているわけではありません) 地域主権といった考え方についてどうしようとしているのかも 捉えきれませんでした。  ★ 国民に3大義務を課しているうちは、国民は奴隷とかわらないよ。  ☆ そうなんですかねぇ。たぶんそうであると言えるところがあるのでしょうけれど 創発民主制になると どうするのかが――言いかえると 個人個人の主体的な想像力によるあたらしい仕組みの創造やその運営が どこからか 湧いて出て来るのかが―― まだ分かりにくかったように思います。  理解が行き届いていないのかも知れません。取り敢えず こんなところです。

noname#123390
noname#123390
回答No.2

> 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。 国であれ、会社であれ、何か方向性を持った目的集団はいずれ組織化が必要で、組織というのはどうしても階層的な構造になってしまうし頂点ができてしまうのでしょう。こういった組織を潰してしまったらあとは烏合の衆、ばらばらになって集団は方向を見失い解体されてしまうでしょうね。やはり象徴てきであれ2階建ての上に上がって祭り上げられるひと、皆をたばねる、皆が精神的にあくがれるひとは必要なのではないかと思うのですが、どうでしょうか。人間とはひとりひとりが本当に弱い盲目に近いものです。 それとも百歩譲って米国などのように4年に一回づつ王様をみんなから募っていちから決めなおすという効率のめっちゃ悪いことを考えておられるのでしょうか。 もちろん私も神権国家というものは幻想だと思っています。でも現状にあって他国との差別化を維持できる国家は便利だし、当面必要だと思います。それが先進国だけのエゴイズムだと仰るのならそれはそうかもしれません(開き直り)。ただキリストのように自ら極貧のなかに身を投じる覚悟が先進国のみんなになければこの問題は一挙には解決しないし、結局漸進的な世界国家への長い道のりしかないのではないかと思うのですがどうでしょうか。 例によってまったく的の外れた散文的回答になったのかもです。どうかお許しください。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。大きく広く言えばこれからの見通しとして 社会の基礎をどこに置くかで分かれるかも知れません。いま仮りに 上向きと下向きの二つに分かれるのではないかと想定して考えてみます。  ★ 結局漸進的な世界国家への長い道のりしかないのではないかと思うのですがどうでしょうか。  ☆ これが 上向きの動きです。それに対して――国連が必ずしもうまく機能しないところに注目するのですが―― ムラ(市町村)を中心とするという下向きの動きを予想してみたものです。  ムラどうしの連携・連帯――連村制とでも言うでしょうか―― これをいまの国際的にも展開するところのインタナショナルなインタムライズムを想定しています。  初めはいまの姉妹都市の制度を拡大・拡張するようなかたちになるかと考えます。  A 国の a 市が B 国の b 市や C 国の c 市 D 国の d 市等々と 共同自治の連帯制を組みます。  政治的・経済的また文化的に互いにその自由の幅いっぱいに交通・交流します。  企業との連携も必要でしょう。  ヒトとモノの自由な行き来を展開して行きます。  ムラ議会には 互いに提携先のムラの人間も議員に選出されます。選挙を互いに投票し合います。  それには 留学や研修 さらには移住などなど活発な交流を通じてその基盤を築いて行かねばならないでしょう。    今のところ この下向きの動きのほうに――もしくは 上向きのそれと同時に並行して下向きの動きも起こすほうに―― 魅力を感じています。  それと言うのも 二階建ての国家という仕組みには必ずしも求心的なよい動きばかりがあるのではないと考えるからです。  ○(趣旨説明) 人びとは――農耕を始めてからですが―― 穫り入れのときに初穂をささげて神々を祀った。どんちゃん騒ぎをしたかどうかを別として 《まつり》である。神と人びととの共食ということ。  ☆ たとえばこのムラ次元のまつりを――ということは ムラという平屋建て社会の共同自治のことですが そのいわゆる共同体の生活を―― どれだけとうとび重んじているのか。そのことに 国家という制度においては おそれが感じられてなりません。  国家という制度のもとでは どうしても いくら地域主権だと言っても 第二階が第一階を主導します。  ○(趣旨説明) やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという・・・国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。  ☆ このとき ムラムラのまつりを束ねたということは 次のことを意味します。ムラの人びとが神々に初穂をささげるというかたちから   (1) 全体のまつりごとをつかさどるひとりの人間を神としていただき   (2) この神(アマテラスもしくは アマテラシテ(象徴))に収穫をみつぐ  かたちに成ったのであり そのかたち――アマテラス主導制――が変わらないかぎり ムラ主権やムラビト主権(主権在民)はかなわないと考えられるからです。  もちろん(1)(2)のかたちは 現代ではもう変わって来ていますが アマテラス公民の主導制は変わっていないと思われます。  これは 展望です。時間がかかるものと思います。でも基本的な考えもしくは方向性については いま考え合っておくことができると思います。  ちなみに ムラ長(おさ)つまり市町村長は 究極的には ムラビト(市町村民)の当番制としたいと考えております。裁判員制度ではありませんが 今年から数年はおまえ 次はおれ その次はあいつといったふうに――と言いますか やはりくじ引きがいいでしょうね―― 誰もが代わり番こにつとめます。みなが一人ひとり小さなキリストだというわけです。信仰は問いません。おのおのの《わたし》は弱いものだというとき――そのことを知っているというとき―― だれもがその弱さを誇るという仕組みになっています。  ムラのグループどうしで国際的にけんかをしないかという心配があります。まぁ 戦争はやらかさなくなるでしょう。  埋めるべき短所がいくらでもあるように思いますが まづこのように考えます。まったく放ってしまっておかれるものでもないのではないかと自負をもしつつ 考えました。どうでしょう。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.1

bragelonneさん、こんばんは。 >国家とは 幻想である。 私としては、「国家」が「幻想」であるかどうかよりも、古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてききたという、事実の方に、その人間心理の方に興味・関心を向けざるを得ません。 思うに、bragelonneさんであろうと、不肖の私であろうと、人間である以上、我欲に忠実な生き方と我欲を超えた価値に忠実な生き方との二つの生き方を適当に使い分けながら生きていくしかないのではないでしょうか。 ほかには、人間である以上、愛に生きることもあれば、我欲に固執して生きることもある、というように。 あるいは、自分の孤独を大切にして生きることもあれば、他者との関係を大切にして生きることもある、と。 あるいは、個人(私)的に生きることもあれば、集団(公)的に生きることもある、と。 あるいは、自分の既知の範囲内で思考するときもあれば、未知の領域に逸脱して思考することもある、と。 あるいは、詩的に生きることもあれば、散文(政治)的に生きることもある、と。 あるいは、権力意志をもって生きることもあれば、奴隷然として生きることもある、と。 もう十分でしょうが、こういう比喩をどれだけ紡ぎ出したところで、何かが明らかになったわけではなく、立ち返るところは、人間である以上、こういう二つの生き方のいずれかだけで生きることなど到底不可能だ、という自明の理以外のなにものでもないような気がします。 >やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという想像力に富む優秀な人間が現われ 人びとはこの人間たちに場をゆづった。どうしても一番に成りたいと言って聞かなかったので人びとは根負けした結果 社会(やしろ)にも神棚をつくりそこにその人たちをまつり上げた。 >かくて 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。 大昔であろうと、民主党政権の現代であろうと、人間の生き方の基本型という点ではさほど大きな違いは認められないということですよね。 自分で神なり、天皇なりになる意欲や覚悟のない者(私も含まれる)は、神なり、天皇なりを批判する資格を自ら放棄しているという点では、昔も今も全く同じだと思います。 彼等には、神なり、天皇なりを崇拝する以外のいかなる生き方が可能だと思われますか? ちなみに、私は、家では山の神に仕える奴隷さながらの生活を余儀なくされておりますが、意外と快適なものです。 Wer nict will, der muss! >そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。 う~ん、失礼な申し分をお許しいただけるなら、これこそ「幻想」の最たるものではないでしょうか。 bragelonneさんは、そもそも「第一階の人びと」が主役になることを望んでいる、と本気でお思いなのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづはご回答をありがとうございます。  ずばり問い返しますが すでに答えを出しておられるのではありませんか?   ( a ) 国家は幻想であるかどうか?   ( b ) 幻想として事実である。  ☆ というふうにです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  ( a )・・・「国家」が「幻想」であるかどうかよりも、  ( b ) 古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてきたという、事実  ~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ すなわちすでに  ★ ( b-1 ) 「国家」という「幻想」  ★ ( b-2 ) 「幻想」に取り憑かれ・・・たという、事実  ☆ と明らかに述べてあります。  あるいは この( b )が歴史的事実であるのならば その国家の中における人びとの思潮としての社会的な力学の向きが変わったとしても やはり依然として《幻想としての事実》であるのではないですか? すなわち まづあらためて:  ★ ( b ) 古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてききたという、事実  ☆ そうして 《護持》と反対の動きが現在起ころうとしている。つまり言いかえると 国家へと向かう上向きの動きが 昔あったが いまでは元の状態(平屋建てとしての社会)に戻ろうとする下向きの動きのことです。すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~    >( b-2 )そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。  ( b-1 ) う~ん、失礼な申し分をお許しいただけるなら、これこそ「幻想」の最たるものではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さらにそうしてこれらの( b-1 / b-2 )の《幻想としての事実》のあとに 個々の人びとの考えとその意志行為が来ます。それは 自由です。  ★ ( b-3 ) bragelonneさんは、そもそも「第一階の人びと」が主役になることを望んでいる、と本気でお思いなのでしょうか?  ☆ すなわち ( b-3-1 )《本気で思う》のも 《国家という幻想としての現実》に向き合うことですし ( b-3-2 )《思わない》のも同じくでありましょう。( b-3-1 )積極と( b-3-2 )消極とは 同じ現実におけるふたつの態度です。