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小さいころ、虐待を受けて育ちました。

小さいころ、虐待を受けて育ちました。 それがトラウマで大人になった今も大人が怖いと思います。 また、何か失敗をしたら厳しくしかられていたので 完璧主義者ではないのですが、失敗を犯すことに対してすごく臆病で、 怒られるとすぐ血の気が引いたような感じになり、不安に襲われます。 何をするにも怖くて、こういう弱い自分がとても嫌いです。 どうにかしてこういう自分を変えたいのですが、なにか良い方法はないでしょうか?

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  • cincinnati
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回答No.1

プロテスタントのクリスチャンです。モルモン教、エホバの証人、統一教会とは関係ございません。 聖書についてご紹介したいと思いますが、いかがでしょうか。この手の話は聞きたくないという方も多くおられます。もしそうでしたら、これ以上読みすすまれる必要はございません。また私のことを語ることをお許しいただけますでしょうか。 私たちは自分を変えたいと願いながら変えられない自分を知っています。しかし聖書は「人にはできないが、神にはできる。」と述べています。また聖書には2000年前に無実の罪で十字架で死んだイエスキリストという大工の男について書かれています。かれは刑の執行される前に同じ刑場で同様に死刑にされる男が、自分の罪を認めたときに、あなたは私とともに天国にいるであろうと宣言されました。この聖書の個所は何度読んでも彼の死が理不尽な死でしたので、理解するのが難しいところでしたが、人間的な見方をすれば彼は死をも乗り越えておりました。さらに人間的な側面からしか彼を見ませんが、彼は自分の命より大事なことを知っておりました。また彼は命に代えても知らせたいことがありました。 それは「愛」なんだと思います。聖書では神は愛であると述べています。愛とはなんですかという質問が人の数ほど語られてきましたが、聖書によれば「その友のために命を捨てるほど大いなる愛はない。」と述べています。 最初に紹介しましたように私はクリスチャンです。クリスチャンとは原義はキリストに属するものというほどの意味だそうです。私の若い時はともあれ自己中心の人生で、自分によいことはすべてよいことであり、他の人の気持ちとか将来とか、感情は何ら拘泥するようなものではございませんでした。しかし自己中心の生き方は何をもたらしたかとい言いますと、孤独であり、悲しみであり、絶望でした。聖書によれば私たち一人一人に神は目的と希望と将来と平安を与える計画を持っていると述べています。しかし現実はまるで逆の状況におりました。原因は明白でした。つまり聖書とはまるで反対の生き方をしていたので、当然そのようなみじめで無目的な虚無的な生き方しかできなかったのです。 あるとき私は2000年前の大工のイエスキリストについてゆこうと思いました。彼が生きたように自分の命を必要とする人がいるのであれば、命を捨てることもよしとする決断をしました。その時私は自分が生まれ変わったことを知りました。おなたが求めている自分の内に変化が起こったのです。それは言葉で表現のできない歓喜でした。今までの投げやりな自分が希望を持ち始め、すぐに挫折するものが障害の有無にかかわらすあきらめることもなくなり、よしとすることは確信をもって実行するようになりました。 短時間に少しばかり聖書のお話をして、聖書の真の意味を理解してくださいというのはあまりにも早計と思いますので、お近くの本屋さんで聖書をお求めいただきましてお読みくださるようお祈りいたします。また近くに教会がございましたら、訪問して牧師に質問を投げかけてみてください。もしあなたが現在の自分に希望や平安な見出せないのでしたら、新しい生きがいのある人生を歩み始めることができるということをお約束できますので、すぐに行動を起こしてみてください。 天の父なる神様、ご質問者様の上に人知を超えた神様の力により聖書の意図がわかり、キリストのごとく生きるクリスチャンとなり、人々のために生きる新しい幸いな人生を歩めますように作り変えてください。イエスキリストのみ名によりお祈りいたします。

kanghao
質問者

お礼

cincinnatiさんの文章をみて涙が出ました。 前々から、教会に通うかどうか悩んでいたのですが、行くことを決心しました。 私は感謝の気持ちをどう伝えたらいいのか良くわからないので 気持ちがなかなか伝わらないと思いますが 私のために考えてくださり、そして導いてくださり、 本当にありがとうございました。

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