- ベストアンサー
金剛薩たと金剛手菩薩
- 金剛薩たと金剛手菩薩は同じものですか。
- 金剛薩たは金剛手菩薩を指す言葉です。
- 金剛薩たは金剛手菩薩の別名であり、金剛杵を手に持った菩薩様を表す言葉です。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
20年以上前、大学で仏教学を専攻していました。 密教の授業を受けたことがありますが、専門ではなかったので間違いがあるかもしれませんが、私の記憶では、「金剛薩た」と「金剛手菩薩」は同じものです。 手許の宇井伯壽監修『コンサイス佛教辭典』には、 金剛薩た Vajra-sattva 訳、執金剛、持金剛、金剛手、秘密主、金剛主菩薩摩訶薩。 1.密教にいう付法八祖の第二。本尊大日如来が法身の自内証を説きたるを、上首たる金剛薩たが結集して、南天竺の鉄塔中に置き、のち龍樹菩薩が此塔を開くに際し、金・胎両部の秘訣を授けたりと伝えらえる。……以下略 金剛手菩薩 金剛薩の異名。また普賢を指す場合もあり。 〈以上、一部省略、旧字は新字にしてあります〉 現在では、「もともとは両者は違うもので混同されていったのだ」ということが明らかになってきて、そういう考え方が学説として常識とされているのだと思いますが、“真言宗の教義”という意味においては同一のものと考えられている、ということだと思います。 性質の異なるインドの神様と仏教の菩薩が混同されること、あるいはインドの神様が発展して仏教の菩薩となることは、金剛菩薩に限らず、例はたくさんあると思います。
その他の回答 (2)
菩提薩埵の略称が菩薩になります。 ボーディサットバ或いはサットバで検索なさってください。 菩提(金剛)薩埵では堅固な菩提心の象徴を表し、全ての菩薩が合せ持つ、限りなく悟りを求める強い心を有している事を指していると思われます。 菩提(金剛手)薩埵では、その菩提心に裏付けられた様々な働きを実際に行う、またはその働きそのものといった意味合いがあるものと思われます。 曼荼羅の諸尊は、心(本誓)や働きの違いによって分けられていますので、そうした見方から解釈なさって下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 ?の部分は「た」の文字化けですね? 菩提薩たの略は菩薩でしたか。 参考になりました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
金剛薩たと金剛手菩薩は同じものですか。 また薩たってどういう意味ですか。 金剛薩:梵名ヴァジュラ・サットヴァ 「智慧を求める人」 菩薩:梵名ボーディ・サットヴァ 「覚りを求める人」 ということで「金剛薩」も「菩薩」も同じ意味ですね。「サットヴァ」を漢字の当て字で「薩」とするか「音読み」に近い当て字「薩た」としたかだけのことですね。まあ翻訳した僧の趣味でしょうね。 金剛薩と金剛手菩薩は厳密には違うものですね。 金剛は智慧という意味ですから智慧を求める修行者が金剛薩または菩薩ですね。金剛手菩薩は智慧を手にした菩薩ですから修行も進んで智慧、悟りを手にした菩薩という意味ですね。 金剛杵は智恵の力という意味ですね。智恵の力で闇の勢力や悩みを打ち砕くというものです。これは大乗の祖、文殊菩薩が持つの智恵の剣(文殊の剣)と同じ意味のものですね。 文殊の剣、金剛杵は同じものということです。何宗であれ仏教であれば違いがあるわけはないですよね。ただ言い方・表現を変えるから後の者が混乱してわからなくなるのですね。 密教も近代ではわけがわからなくなって、金剛杵がこん棒とか念力のごとく解釈しているものが多いですが本来的には金剛という意味は智慧とか菩提と同じ意味ですから智慧を求める仏教になるわけですね。 これを外すと密教は仏教とは程遠い単なる天狗・仙人の力・念力修行になってしまいますからね。
お礼
回答ありがとうございます。 「金剛薩」も「菩薩」も同じ意味なんですか。 ややこしいですね。 金剛薩は智慧を求める菩薩で、金剛手は智慧を手にした菩薩なんですか。 それは大きなちがいだといえますね。
お礼
回答ありがとうございます。 「金剛薩た」と「金剛手菩薩」は同じものだと仏教辞典にあるのですね。 近年の研究の結果、もともとは別のものだとされるようになったと。 インドの神が仏教の神に取り入れられたケースは多いですね。 仏教の神と日本の神々も習合されていますね。 たいへん参考になりました。