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江戸時代の武士は勤務先の役所で仕事中 大刀はどうしてていたのか疑問です

江戸時代の武士は勤務先の役所で仕事中 大刀はどうしてていたのか疑問です。 他家訪問や勤務先の役所や登城の時 大刀はどうしてていたのか疑問です。 その建物の中で預かってもらうのか しまって置くところがあるのか どうしていたのかおしえてください。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代の武士は勤務先の役所で仕事中 大刀はどうしてていたのか疑問です。 役務室には、必ず、大刀掛けがありました。小刀は腰に差していました。 良くTVなどで武術練習場で木刀掛けがあるのと同じような物です。 まあ、現代で言えば「タイムカード」の代わりに、大刀掛けに刀を置くことで出勤とみなされました。 >>他家訪問や勤務先の役所や登城の時 大刀はどうしてていたのか疑問です。 他家へ訪問した場合は、上役を訪れると、その上役の女房殿が両袖で玄関口で預かり、玄関脇の刀掛けに掛けて預かりました。 同輩同士の場合は、玄関口で両刀を腰から抜いて、そのまま客間まで持って行き、自分が座った場所の左側に置きました。これは、喧嘩、口論となった場合、すぐに刀に右手をかけることができたからです。 登城の場合は、城までは大小の刀を腰に差して登城しましたが、一歩城へ入ると、お抱えの「表坊主衆」が両袖で大刀のみを預かり、表坊主の控え室の刀掛けに掛けて、大名などの退城時に再び返却してくれました。 ちなみに、表坊主と一言で言いますが、およそ300人から500人いましたので、それぞれの大名のお抱え表坊主がいて、城内は複雑な迷路形式でしたので、自分の控えの間に行くのでさえ、表坊主に案内をしてもらわなくては控えの間へ行くことさえできなかったのです。 (よもやま話) 明暦3年(1657)に旗本であった八王子千人頭であった石坂勘兵衛正俊が殿中で迷ってしまい、違う部屋(控えの間)に足を踏み入れてしまった。「まいるまじき席に入りし越度(おちど)」と処罰され、千人頭の職は一代限りとなり、「躑躅(つつじ)の間詰」から「御納戸前廊下詰」に降格させられた事件がありました。 それだけ城中は複雑だったのですね。

sirufyi
質問者

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わかりやすくありがとうございます

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回答No.4

こんにちは。 この場を借りて、krya1998さんにお答えします。 江戸時代「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ばれていました。 庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。 御腰物奉行を質問された方でしょうか?

回答No.3

 昔は江戸城と称さなかったとか、鶴のなんとか。  さすが文月さんのお教え。  ある大学の図書館(江戸時代からの蔵書を引き継いでいました)の武鑑で我が家の苗字と家紋があって、お城の御腰物改め方とかでした。  我が家は水戸家での人ですが。  御腰物って、大の方の刀の事らしいです。改めるってなんだか分りませんが、そうやって僧侶でないお坊さんが預からなければ改められないのでしょうね。  或いは何かのときの役目かもしれないが。  小塚原の山田浅衛門ですか、土壇場で胴を切って、鑑定していたとか。  そんなのかとも思えますが。間違いもあるかもしれませんが、そういう役目もあったと一余談。失礼。

回答No.2

 昔は江戸城と称さなかったとか、鶴のなんとか。  さすが文月さんのお教え。  ある大学の図書館(江戸時代からの蔵書を引き継いでいました)の武鑑で我が家の苗字と家紋があって、お城の御腰物改め方とかでした。  我が家は水戸家での人ですが。  御腰物って、大の方の刀の事らしいです。改めるってなんだか分りませんが、そうやって僧侶でないお坊さんが預からなければ改められないのでしょうね。  或いは何かのときの役目かもしれないが。  小塚原の山田浅衛門ですか、土壇場で胴を切って、鑑定していたとか。  そんなのかとも思えますが。間違いもあるかもしれませんが、そういう役目もあったと一余談。失礼。