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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:植木理恵さんの「本当にわかる心理学」をよんで出てきた疑問を質問したいと)

親切な行為と自己肯定感についての疑問

このQ&Aのポイント
  • 植木理恵さんの「本当にわかる心理学」を読んで出てきた疑問を質問したいと思います。この本のP30には、電車などでお年寄りに席を譲ると自己肯定感が高まると書かれています。一見ボランティア的な行為が自分のためになるということなのですが、道徳的でないのではないかと考えています。
  • 親切な行為をしている人を見たときに、「この人は良いことをしているけど内心は自信を高めるためなのかな」と疑問を持っています。お互いに利益があるとしても、その行為が純粋でない気がしてしまいます。
  • 質問ですが、親切な行為は本当に純粋なのか、それとも自己肯定感を高める手段なのかどちらなのでしょうか。道徳的な行為と自己満足が同居している場合、それは本当に良い行為と言えるのでしょうか。どなたかご意見をお聞かせください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • junejur
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回答No.4

ボランティアも親切も自己満足以外の動機は存在しません。親切をしてあげたいからするのですし、親切をして状態が少しでも良くなったら、やった方も嬉しくなりませんか。 何より自分が賃金で労働を提供するのではなく、無償の愛で人の役に立つという行動は自発的にやってみないと解らないかもしれませんが仕事では味わえない気持ちですよ。それで、自分が高められたとか、鼻にかける人はいないように思いますが、なるべくなら募金よりも、老人、障害者、養護施設、等の人に直に役に立てるものの方が実感できると思います。くどいようですが、良い事をしたと云うことよりも、自分が人の役に立てたと云うことが賃金のように数字で処理されない関係としてあることが嬉しいのです。 そこには損得を挟まない私の気持ちがあり、それを喜んでくれる人がいると云うのが、僕は大好きです。

その他の回答 (3)

  • zakire
  • ベストアンサー率37% (104/276)
回答No.3

追加です。 リチャード・ドーキンスの著作を読んでみてください。心理学とは離れてしまいますが、考え方を深める一助にはなると思います。

madonna13
質問者

お礼

リチャード・ドーキンス・・・ 分かりました読んでみます

回答No.2

行為をする人が、何かをあてにしていた場合には、誰の目にも『人為』がありありと見えてしまいます。この場合には、作られた親切に映るかもしれません。 何も期待しないで、本当の親切心で、した行為なら、自然に写るかもしれません。人には『心の目が付いています』人の行いは『心』が映し出されています。何もきたいしないで出来た時が本当のその人の地が出た時かもしれません。

  • zakire
  • ベストアンサー率37% (104/276)
回答No.1

どっちでもいいんじゃないですか? 動機はなんでもいいのです。評価すべきは行動です。それがどんな理由であっても社会にとって有益ならば歓迎すべきでしょう。 たとえ自己中心的な理由であったとしても、結果として利他的な行動をするとすれば、その考え方自体が社会にとって有益なものとして認められて然るべきと思います。 道徳を論じるのが無益であるとは思いませんが、それだけで人を評価できるものではありません。単純に合理的な考え方を進めていくと、結果として利他的な、道徳的とも言えるような行動に至る場合もあるのです。 動機の善悪にこだわって、結局なにもしないというのが一番まずいのではないかと思うのですが。