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欧州の中世における曜日の起源と異端追放の関係
- 欧州の中世において、曜日の名前は主にローマや北欧の神話の神々の名前から取られていました。しかし、当時の欧州では魔女狩りや異端審問といった迫害が行われていました。
- なぜなら、キリスト教の教義によれば、異教の神々に関連するものは異端とされ、取り締まるべき対象とされていたからです。
- そのため、曜日の名前を聖書に関連するものに変える動きは起こりませんでした。これにより、異端の神々の名前を残すことで、異端追放の象徴としての意味を持たせたのでしょう。
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>存在するかどうかも分らない魔女探そうとして、一般人を沢山殺した この出来事は、その悲劇を考えると強烈な印象を与えるので、どなたも考えさせられてしまうことは良く分かります。 ところが、良く良く考えてみると人間とはそんなことばかりやって来たようです。キリスト教に言わせると、ユダヤ教もイスラム教もヒンズー教も仏教も神道も、皆幻想を拝んでいるということになりますが、その反対に例えば、仏教に言わせても他の宗教は幻想なのですね。ところが上で挙げた全ての宗教は、皆壮大な神殿や伽藍や聖堂を建てて神や仏に捧げています。もしキリスト教が正しいなら、他の宗教は存在しもしないはずの魔女狩りをやっていることと同じようなことをやっていることになり、反対に他の宗教が正しいとすると、キリスト教がそれをやっていることになる。孰れにしても、あの壮大な伽藍や聖堂の少なくともどれかは、あるいは全てが、全く虚構の上に建っているのですね。 考えてみたら、人間とはそんな虚構に大変な情熱を注ぎながら今までやって来た、これが人間の歴史なのですね。全生命を注いでここまでやって来たのに、実は虚構だったと知ったら、皆さんどう思うのでしょうね。 ところで、一見どんな突拍子のない行為に見えても、人間のやることで何かその裏に合理的な説明のできない物事はないと、私の好きな柳田國男が言っていました。私は上で、魔女狩りも壮大な神殿や伽藍や聖堂も共に虚構のなせる技だと言いましたが、見方を変えてみると何か合理的な説明ができるかも知れません。実は、魔女狩りの対象が魔女だったと考えるから話しが分からなくなってしまうのです。魔女狩りは、その当時の人々の心の中にあったある物を対象とした行為だったのです。そのある物は、その当時の人の心の中に確実に存在していたのです。神殿も伽藍も聖堂も、神や仏が本当に存在しているかどうかが問題ではなく、皆、人々の心の中に本当に存在しているある何かに捧げられているのですね。
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- amaguappa
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> 欧州が中世に曜日は異端の神の名のまま 異端ではなく、それは異教ですね。 異端(heresy)はギリシャ語のhairesisに由来しますがこれは選択する、取り上げるという意味の語です。 そこから、キリスト教の公の見解にたいする私見、異説、分派という意味になったものです。 聖書解釈が違うとみなされる人・団体を、異端審問にかけたのですね。 解釈と言ったって、翻訳も言い回しも不透明な書物ですから、細かいことを訊ねられてもわからない、 ましてや神父の口から教えられたまま耳で理解していたのでは細かいことはわからない、 もう審問にかけられたらコネでもない限りすなわちお終いといったようなものです。 聖書が解釈され翻訳された中世は、異端にたいして非常な圧力をかけていく時代です。 翻訳をとおして見解に揺れが生じますから、地理的に異文化と接触する地域では弾圧はいっそう厳しくなります。 異端弾圧の過程というのは、聖書の一語一句の解釈に禁忌(タブー)が生まれていく過程であり、それも時代と同時進行ですから判例なき裁判の繰り返しなのです。 聖書の内容と照らし合わせて、異端か異端でないかが判断される、この狂った過程そのものがキリスト教教義にとって必要だったのであり、ひとびとの思想統一と真の教化が必要だったわけではない、ともいえるかもしれません。 また、この時代にとって、今日認識するような意味では、歴史というものは認識できないものでした。過去とうまくつながりをつけて社会や文化を眺めるという視点が、詩や芸術のようにしか存在しなかったのです。 古い建築遺産があるのと同じように古い呼び名が言葉の随所にあっても、それは神が世界を創ったり壊したりして今の完全な世界を創ったということの痕跡であるとして、どこまでいっても都合の良いようにとらえていたのでしょう。 古代の異教をキリスト教がどのように蹴散らしていったか、ハインリッヒ・ハイネ『流刑の神々 精霊物語』に詳しいようです。このハイネの著作は柳田國男に影響を与えたとか。未読なので読んでみようかと思います。
お礼
御回答ありがとうございます。 >異端ではなく、それは異教ですね。 御指摘を受けるまで、気が付きませんでした。 ありがとうございます。 >古い呼び名が言葉の随所にあっても、それは神が世界を創ったり壊したりして今の完全な世界を創ったということの痕跡であるとして、 なるほど、そういうふうに考えていた可能性もありますね。 ありがとうございました。
- cyototu
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度々勝手に訪問しちゃって申し訳ありません。 >それにしても、やっやこし~ですね。 一筋縄では理解できそうにありません。 御目出度うございます。いよいよ貴方も人間の面白さが判って来たようですね。そうです。一筋縄では行かないから、人間ていつまでたっても面白いのですね。こんな疑問が根を詰めさえすれば判ってしまったら、貴方はきっと人間に産まれて来たことを後悔すると思いますよ。 もっと凄いことをお教え致しましょう。過去の偉人達の多くの方は、自分をどん底の境遇に置くことで、自分の存在を善しとして来た風がありますね。マンデラ然り、ガンジー然り、マリアテレザ然り。貴方自身でも数え上げてみて下さい。 何が貴方に幸福感を味あわせてくれるのか。勿論悲劇の程度にも底なしと言うものもあるでしょうが、もしかしたら、三筋でも四筋でも何筋縄を綯っても行かない人間とは、致命的ではない限り、自分の失敗を楽しみながら味わうことが出来るようになった時に、やっと本当の幸せを感じることが出来るのかも知れませんね。
お礼
何度も、御回答ありがとうございます。 いつの間にか、哲学講義拝聴モードになってしまいましたが、楽しめました。 やっぱり、それだけ人間ってのはややこしいので、そう簡単には何が「矛盾」かすらなかなかと定義しづらいものですね。 僕の質問自体は本当に下らない素朴な疑問だったのですが、いろいろな事に深く考えさせられました。 本当に御回答ありがとうございます。
- tknaka
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こちらでもこんばんは。 日本語Wikiの説明のみを鵜呑みにしない方が良いです。 七曜に関しては正しい説明をしていますが、その後の曜日の呼び方になるとなぜそのまま神話になってしまうのでしょうか。神話の神々と重なっているので、紛らわしいですが、それぞれの惑星の呼び方と同じです。どちらが先かという意味では、鶏と卵になってしまうので、キリスト教側で曜日の呼び方としては「惑星の名前と考えている」と理屈を付けているとした方がスッキリするでしょう。
お礼
こちらでも御回答ありがとうございます。 >「惑星の名前と考えている」 そう仰られてみれば、その昔、英語初心者レベルだった頃に、ネイテブ英会話講師に「曜日の名前は太陽系の惑星からきているんだよ。」と教えられた事を思い出しました。 実は、こんな質問をしましたのも、大達人からお勧めを受けた英作文の練習をしている際に、「魔性の女」を含めボキャ貧を実感しましたので、ある語源に詳しい英英辞書を読んでボキャビルをしていましたら、意外と「魔女」に関係がある単語も多いことや、異端審問で問題になった単語というのもありました。 そんな中、Fridayの解説を読んでみると、「アングロ-サクソンや、スカンジナビヤの創造(豊饒)の女神Frigの名前から。」等とありました。 その辞書によると、「もともと金曜日は性愛の日であり、結婚に幸先の良い日だったのだが、教会が異端の習慣の廃絶の為に、金曜日をアダムが禁断の実を食べた日、キリストが磔になった日と主張し金曜日はそれからというもの不吉な日と考えられるようになった。」というような事が書かれていました。 僕は、教会がそれだけ権力を握っていたならそもそも曜日の名前を神話から取らなくても良いのに、、。と思いました。 と、この様に、辞書の解説を読み、すっかり一般常識である「曜日は惑星の名前から」ということを忘れていました。 語源と現代の意味や、中世にどれくらい欧州の人間が「異端」を嫌っていたのか?と等と考え出すと意外とややっこしいです。 日本人だからといって日本文化を完璧に理解できるわけではないですが、西洋文化はやっぱり数百倍理解するのが難しいです。 改めて、御回答に御礼申し上げます。
- cyototu
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>キリスト教って聖書に書かれている事以外は妥協しても良いんじゃない? という的を射た回答が出て来たので、それを支持する他の例を上げておきます。キリスト教でも特にカトリックでは、聖書に書かれている事についての辻褄を合わすことよりも、人を救うことを優先させています。そこで、聖書に書いてある事と矛盾したことも平気でやって来ました。その代表が、聖母マリアに礼拝することを許し、さらにマリア像を拝むことを許している事です。 キリスト教に興味のある質問者さんは新約聖書を既に読んでいると思いますが、ご存知のようにその聖書の中で、イエスははっきりと、自分の父ヤホバ以外を拝んでは駄目だ、また、どんな偶像でも、形ある偶像を拝んでは駄目だと書いてありますね。ですから、「聖書に帰れ」を標榜しているプロテスタントにはマリア像はありません。プロテスタントでは、ときどき十字架を見かける教会もありますが、派によっては十字架は偶像であるからと言って、それさえ飾ってない教会もあります。 勿論、この矛盾をカトリックの坊さん達は知っています。そこで、まともな人間だったら絶対に理解出来ないような、(屁)理屈を付けて「マリア像は偶像でない。聖母マリアに礼拝する事はイエスの言葉と矛盾していない」なんて、訳の分からない禅問答みたいな事を言っています。まあ、これも一つの踏み絵みたいな物で、その理屈を理解出来ないうちは本物のカトリック教徒ではないらしいです。 孰れにしても、カトリックの凄いところは、イエスの言葉を無視してでも人々を救おうとしているところです。よく考えてみたら、宗教とは論理的な辻褄が合っているかどうかなんてどうでも良いことですね。宗教は学問ではないのですから。それよりも、その宗教で困っている人を救えるかどうかが本質ですね。 私はそのことに若い頃気付かずに、プロテスタントの方がイエスの言葉と矛盾していないので、優れていると誤解していました。でも、いろいろと経験して来て、「論理的な整合性と言うどうでも良いことに拘っているよりも、人々を救う事の方が先決じゃ」と言うカトリックの方が、遥に成長した宗教だと思うようになりました。 貴方の質問も、宗教とは何であるかというよりも、キリスト教の論理がどのぐらい内部矛盾を含んでいないかと言う、学問ならいざ知らず、宗教にとってはどうでも良いことに興味を持っているから出て来た質問ですね。 余りにも当たり前な事なのですが、宗教とは論理的に理解する物ではなく、信仰によって理解する物ですよね。 ところで、私はご先祖様を信じている典型的な日本人ですので、キリスト教徒ではありません。
お礼
再度の御回答をありがとうございます。 深い、深い、御回答ありがとうございます。 確かに、本当にどうでも良いことの質問なのだと思います。 しかし、存在するかどうかも分らない魔女探そうとして、一般人を沢山殺した割には、どっからどう見ても「異端の神の名」である曜日には寛容だったな~~。 と思ったのですが、 よくよく考えたら、聖書と矛盾する行為は、 >聖母マリアに礼拝することを許し、さらにマリア像を拝むこと だけでなく、数え上げたらキリがないですよね。 そもそも聖書自体も矛盾だらけなので、矛盾無しにすること事態が不可能なのかもしれませんが、、、。 そんなことに細かく言うもんじゃ有りませんね。 深い考察ありがとうございます。 改めて、御回答に御礼申し上げます。
- pri_tama
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キリスト教って聖書に書かれている事以外は妥協しても良いんじゃない?から始まった宗教ですから…。 [イエスキリストが生まれた時代は、もう3代目ローマ皇帝ティベリウスの時代ですから…。←新約聖書などはローマの時代の常識を元に記述されている…。] (妥協すべきで無いと主張したのがユダヤ教徒…。) ポーランド・リトアニア共和国の様に政治的な理由に端を発する改宗を許容出来る懐の深さがある。 (日本での布教時には、キリストの主神を仏教の大日如来とかに置き変える事まで…。) また、ユダヤ教の時点で週7日は宗教的に重要な意味が有ります(安息日の存在)、後は呼び方を妥協できるかどうかの問題…。 ちなみに、キリスト教会等は異端審問等に対して常に慎重 or 抑制的な立場(暴走を戒める教書や特別の慈悲を求める声明が出されている)でした。 (イエス・キリストの慈愛の精神から外れますし、宗教的解釈を教会から奪われかねないとの危機感も有った…。) ただ、イベリア半島などでの異教徒や異端者[裏切り者]に対する積年の憎悪と報復、ヨーロッパを度々おそう天災や疫病などに対する恐れと悲しみを押し付ける対象を選出する手段として、民衆や為政者から異端審問会が過剰に用いられてしまった面が有ります…。 (異端審問会などは宗教的と言うより、政治的な理由で実施されてきた…。)
お礼
御回答ありがとうございます。 >ただ、イベリア半島などでの異教徒や異端者[裏切り者]に対する積年の憎悪と報復、 やっぱり、有名なのはスペインの異端審問ですからね。 ほかの国の異端審問がどれほど過激だったのか全く知りませんが、ものすごい物を想像していました。 >後は呼び方を妥協できるかどうかの問題…。 やっぱり、ややこしいですね。 >キリスト教って聖書に書かれている事以外は妥協しても良いんじゃない? 出エジプト記23章13節 「わたしが、あなたがたに言ったすべての事に心を留めなさい。他の神々の名を唱えてはならない。また、これをあなたのくちびるから聞えさせてはならない。 」 という事は一応書かれてはいるんですけどね、、、。 魔女狩りも一応モーセの書いた五書の中からの引用だったような。 不思議ですね。 改めて御回答に御礼申し上げます。
- cyototu
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イヌフグリという花をご存知でしょうか。早春に咲くコバルトブルーの可憐な花です。花言葉は、信頼、女性の誠実です。 ところでふぐりって何だかご存知ですか。辞書で引いてみて下さい。学者さんの間に、この名前を代えようよ言う提案もあったそうですが、今になっても他の名前は受け入れられず、皆が使っているこの名前が生き残っています。 いろいろ考える人はいるようですが、曜日の名前も結局これと同じですね。 ついでに、何故サザンカがサザンカなのかご存知ですか。この花は漢字で山茶花と書きます。だから、正しくはサンザカですね。ところが、皆が間違って呼ぶようになってしまったのです。でも、今更サンザカと呼んだら、ハァ~と皆に笑われてしまいますね。 理屈通りには世の中動いていない。人間の深みだ。やぁ~素晴らしい、素晴らしい。 理屈とは 理屈でないと 理屈言い お後が宜しいようで。
お礼
御回答ありがとうございます。 フグリには驚きました。 意味を知らないと、イヌフグリも、スミレとかと一緒で可憐なイメージがするんですけどね。 よくよく考えてみれば、ヨーロッパ人にしてみても、曜日が異端の神の名だと何百年も専門家以外はしらずに過ごしていたのかも知れませんね、、。 う~ん真相が気になります。 改めて、御回答に御礼申し上げます。
補足
この欄をお借りします。 すいません、ちょっと急用が入ってお礼を書く時間がありません。 明日には、書けると思います。 皆様、御回答ありがとうございます。
お礼
コメントが遅れて申し訳ありません。 改めて、御回答ありがとうございます。 >皆幻想を拝んでいるということになりますが、 ようやく、宗教に絡んでくると人間が「矛盾だらけの???」に情熱を注いでいるのか分ったような、気がしました。(気がしただけで実際には分かっていません。) 確かに、もともとが幻想というか虚構の上に成り立っているんですよね。 だからといって、何か分った訳ではないのですが、「それなら、魔女狩り、異端審問をして、曜日が異端の神でも納得できるものなのかもしれないなぁ。」と思いました。 それにしても、やっやこし~ですね。 一筋縄では理解できそうにありません。 しかし、なんとか分ったような『気分』にだけはなれました。 御回答ありがとうございました。
補足
御回答ありがとうございます。 またまた、深いですね。 もうしばらく考えてからコメントを書きたいと思っています。(とはいっても、これまでの通りあんまり大したコメントはできませんが、、。) もう、1,2日かかりそうです。 御回答ありがとうございました。