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人と長い時間話す事が苦痛です。頭が痛くなってきます。立ち話程度なら楽し

人と長い時間話す事が苦痛です。頭が痛くなってきます。立ち話程度なら楽しいのですが、ママ友達の家に行ったり、来たりした時長い時間喋ると疲れてきます。家に行ったりすると6時間くらは居ます。みなさんは苦痛ではなですか?最初は楽しいのですが、間があるのが嫌で喋り続けてしまいます・・・。

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.2

人と会話することは、当然疲れますし、時として苦痛が伴います。 そういう場合は、人という単体と会話しているからに他なりません。 しかるに同じ会話でも、その当人という単体ではなく、その当人の背景に向かって会話すれば、 会話が直線や平面でなくなり、立体化します。 そうすると、疲れませんし、かえって深みが増し、疲れも飛んでしまいます。 大抵の場合、一人の人間と会話することの意味を、極小解釈している人がほとんどです。 しかし、誰も極小解釈しろと命令したりする者もいなければ、ましてそうしなければならない義務もありません。 結局、自分が勝手に極小解釈しているに過ぎないのです。 不思議なことに、会話術や、コミュニケーションの本にもそのことが一切記述されていません。 私ごとで恐縮ですが、私がこのことに気づいたのは、昔ある実験をしたことがあるのです。 それは、一切の言葉を放つことなく、気持ちを伝えられるかという実験です。 テレパシーとかそういう類の力を試すためとかではありません。 あなたと同じように、言葉というものが非情に薄っぺらいものに感じた時期があるのです。 言葉の深みを探すために、全く言葉のないいわば、波紋のない湖面状態を最初につくる過程があったわけです。 その時の実験結果から多くのことを学びましたが、思った以上の副産物の収穫も同時にありまして、その一つに言葉を使いながらも一切疲れない時空圏を見出したのです。 その人と会話することは、結局、その人の歴史と語らうことに他ならないのです。 この発想ができるかできないかで、会話の軽重、会話の浅深、会話の鈍鋭、会話の嫌好、会話の死活が180度異なってしまうのです。 あなたにとっては、ひょっとして難しいことかもしれません。 しかし、私でも気づくことができたのです。 言葉に囚われぬ境地をまずは自分の心に作り出すことが肝心です。 言葉と言葉の「間」が、実は言葉そのものよりもずっと重要なのです。 言語学者の論文にでていた内容ですが、人と人とが会話を通じて交流する時、75%以上が、言語によらないとしています。その学者が言うには、重要なのは、言語よりも、言語と言語の間の沈黙、即ち間がきわめて重要だとしています。 言い換えれば、会話する時、言葉に囚われるよりも、間に囚われよというわけです。 間にこそ、貴重な交流の種が隠されているのです。 有効で奥深い「間」を作るためにこそ、言葉が必要なのです。 会話のための言葉ではなく、「間」のための言葉なのです。 わからなくとも、わずかなヒントになれば幸いです。

suto115
質問者

お礼

ありがとうございました。専門的な回答参考にさせていただきます。

その他の回答 (1)

回答No.1

人によると思います。 きっと質問者様と同じ様に思っている人がその場に一緒にいることでしょう。 ただ、場の雰囲気を壊したくないから、自分がそのきっかけになりたくないだけです。 本当に終始一貫して楽しんでいる人もたくさんいますが。。。 体の良い嘘を付く事をお勧めします。 トイレに行ったときにお母さんに電話してもらうようにメールして、 電話をもらったら「ごめん、@@しなきゃいけないから今日はもう帰るね」とか。 何度も使うとばれるので、本当に疲れている時は嘘も方便です。 みんなだって、相手を苦しませてまで話をしたいとは思っていないはずですよ!

suto115
質問者

お礼

ありがとうございます。参考になりました。

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