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主人は、語尾を引っ張る(おねがいしま~す等)のを注意するそうですが、学

主人は、語尾を引っ張る(おねがいしま~す等)のを注意するそうですが、学校でも、ごく普通に使っているようで、なおりにくいようです。少年野球でも(おねがいしま~す)と言ってるよそうです。数十年間武道の世界に関わっている主人は、(おねがいします)は引っ張らないと、これからも(道場では)厳しく注意するそうです。最近は語尾を引っ張るのは普通になっているとも聞きますが、皆さんはどう思われますか?。とてもつまらない質問ですみません。教員の方や広く皆様のご意見を、お聞かせ頂きたいのですが、宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ktyln
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回答No.2

ご主人さまには、どんどん注意してもらいましょう。 デパートなど格式のある接客業や、一流企業のコールセンター等でも、 「語尾のび」は厳しく注意します。 語尾を伸ばすと、真剣さや丁寧さに欠けた印象となり、 相手に誠意が伝わりにくくなります。 逆に、相手に語尾を伸ばされるとどんな印象を受けるかを 考えてみるとわかりやすいでしょう。 「お願いしまぁ~す」「ごめんなさぁ~い」「お待たせいたしましたぁ~」 などの言葉を使われると、中には親しみやすいと感じる人もいるかも しれませんが、「なれなれしい」「いいかげん」「不真面目」と感じる人が 大半だと思います。 「学校でもごく普通に使っている」・・・そうでしょうね。 学校の先生たちは一般世間の感覚とずれていることが多々ありまして、 大学出たら即「先生」で、社会経験が少なく、 接客業などに携わった経験が殆どの場合ないので、「語尾のび」を含め、 相手に対する己れの態度に関する意識が低いのです。 私が講師をしていた時、私の保護者との電話応対を耳にした校長や教頭が 「こんなにきちんと話せる先生は聞いたことがない」と絶句してましたから・・・ 以上、元公立中学講師、現カスタマーサービス関係者でした。

baronspapa
質問者

お礼

ありがとうございます。以前、校長や教頭に対する生徒の態度と言葉遣いに、思わず叱った主人は 帰宅してから、どうなっているんだろうと、嘆いていました。厳しすぎるのではと思う私と、少々対立していました(ずるいと思いながら)。これからは口を挟まない事にします。 ktylnさまにはもう一度講師に戻って頂きたいです。

その他の回答 (4)

noname#115524
noname#115524
回答No.5

小学校の時、言葉遣いに独特のこだわりをもつ先生がいました。 女子を「さん」、男子を「君」と呼ぶ習慣はおかしいとか、「ちぇっ」と言ってはいけないとか。 ひとつひとつを聞けば、もっともに聞こえるのですが、全てにおいてそういう調子でいまでもどうかと思っています。 主張はもっともなんで文句は無いのですが、こどもらしい言葉遣いというのもあるし、かげで使ったのを鬼の首でもとったかのように厳しく言われたり、あげくには体罰などをくわえたり、人生の役に立つはずの事が今は嫌な思い出としてしか残っていません。 その教師の人格次第とも言えるのですけれどね。 少年野球での「お願いしま~す」はリズム的にはおかしくないと思いますが、武道ではしまりがなくて弱そうですね。 野球の掛け声は音引きが多く、球を待つ時間が長い野球はそういうもんなんだろうと私は思っています。あいさつでもあるし、リズムを持ったかけ声や気合いでもあるのではないでしょうか。 それと子供にはやはり子供っぽい言葉遣いというのがあって、それは年をとると自然と老人語になるようなものだと思います。いつのまにか使わなくなるでしょう。それを無理に大人語に矯正するのは杞憂というものと思われます。 TPOというか使い分けができるかどうかではないでしょうか。 野球ではいいけれど、会社ではダメとか。まあ仕事で「!コ~イ」「!~ス」とか、野球のかけ声みたいなことを言っている人は居ないので心配するほどではないと思います。(そういうのが必要な職場では自然とそういうのを使います) 自分の道場でその道場流の言葉遣いを通すような事はスポーツや武道にかかわらずありますし、流派を形成するための流儀というものの一部なのだろうとも考えられますが。 大人になった今、少年のころのあの教師を今でも時々考えます。いまはそのころの教員より年上になっています。そしてやはりあれはやり過ぎだったんだと思うのです。 そういう人は頑固なので、あまり意見を言っても無駄だったり機嫌を損ねるだけかもしれませんね。 お子さんの結婚相手に対してはこだわりを忘れる事をお勧めしておきます。

baronspapa
質問者

お礼

daguwadodgiさま ありがとうございます。 良く理解出来ます。義務教育で生徒は先生を選べません。異なる点は辞める自由があります。中学生の子供を持つ長男を頭に次男・長女それぞれ家庭を持っていますが、仰るようなこともいくつかあり本当につらい日々がありました。 当時の息子や娘の気持ちを思い出して、胸が痛みます。 正直、長男の結婚当初数年はとても拘りがありましたが、主人共々、多様化を受け入れられるようになったと思っています。 道場或いは拳士の挨拶はオッス(押忍)です。多分ですが、他でオッスは良くないと思います。 皆さんには、感謝の気持で一杯です。

  • nebnab
  • ベストアンサー率34% (795/2317)
回答No.4

「おねがいしま~す」ですが、くだけた場ではかまわないけど改まった場では相手に失礼になる言い方になると私は思います。 ところで、私は大阪府民で、普段は関西弁話者です。 関西弁では、方言的特長として「おねがいしま~す」ではなく「おねがいします~」のように語尾が延びます。関西弁としてこの言葉を聴いた場合は、改まった場でも失礼とは感じません。 これ、質問者様のご主人に矯正される対象になるのでしょうか?

baronspapa
質問者

お礼

nebnabさま ありがとうございます。 矯正の対象になりようが?と言う筈です。 私は九州出身ですが、学校では標準語で話すのが普通でした。主人は関西人で結婚当初は関西弁に違和感を感じる言葉もありました。   あくまでも道場での言葉遣いであって、道場以外での言葉や態度迄言及する気持ちはないようです。続けるか否か児童(成人)は自らの意思を優先することが大切だと、常々申しております。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

私も語尾を引っ張る言葉を聞くと不快感を覚えます。特にその話し方は若い女性に多いようです。しかし、その女性方がそのような言葉遣いをするようになったのには、それなりの理由があったはずですね。その辺りを理解しないで、ただその言葉遣いは不快だから直せと言ったところで、それが直るとは考えられません。 さて、その理由とは何だったのでしょうか。それは話し言葉と書き言葉の違いにあります。その違いを具体的な例で説明しましょう。 書き言葉: 「山道を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 話し言葉: 「えーと、山道を登りながら、こう考えたんだよね。そう、山道を登りながらね。知に働けば角が立つだろう。情に棹させば流されるしね。それに意地をねー、意地を通すと窮屈なんだなんてね。まーとにかく、人の世は住みにくいよねー。」 文章と違って、話し言葉は話す側からその言葉が消えて行ってしまうので、それが本当に相手に伝わっているかどうか、話し手は不安になります。そこで、話し言葉では、書き言葉とは違って、同じ言葉を繰り返したり、「ね、さ、よ」とか「ねー」とか「よね」とか「だろう」とか「じゃん」いう余計な言葉を添えて、「ねえ、そうだろう、あんた聞いてる」という確認を一々取りながら、なんとか話し手の不安を取り除こうとしつつ話をしているのです。 そして、この余計な物の添え方には男女の好みに違いがあり、その違いが男言葉と女言葉のそれぞれの独特な発展を促して来ました。ところがどういうわけか、近年になって、特に若い女性方が女言葉を使わなくなり、男女とも同じ言葉を話すようになりました。たとえば、一昔前の東京近辺の女性方は「これ美味しいわ」とか「わたし行くわ」等の所謂「わ言葉」を普通に使っておりましたが、今では年配の方しか余り使われていないようです。大分昔「兼高かおる世界の旅」というテレビの人気番組で彼女が「そうでございますのよ」という彼女独特な上品な女性言葉に好感を抱いた方がいっぱいたのを覚えていらっしゃるでしょう。 さて、今の若い女性方が女性言葉を使わなくなった方法を良く見てみると、この女性特有の語尾を外して話すようになったようです。例えば、「わたしね、今度お花見に行くの」と言う所を、「私、今度お花見に行きます」と表現しようとするのですが、それでは「ね」や「よ」というどちらかと言うと女性言葉の確認用語尾が付いていないので不安になる。そこで、「あんた聞いているね」と確認するために、語尾を付ける代わりに語尾を伸ばして「わたし~、こんど~、お花見に行きま~す」と表現して自分の無意識の不安感を解消しているのだと思います。 生物の世界を見ても分かりますが、進化とは多様化の方向に進んでおり、今まで同じだった物が新たに分岐して豊富で新しい世界を生み出して来た。その反対に統一化は明らかに退化です。日本の文化も男言葉と女言葉という面白い分岐をして、この世界をより豊富で多様な文化を作り上げて来ました。ところが、戦後教育に異変が起こってしまったらしく、この男女の相補的な違いと役割の違いの存在を全く無視した妙な平等意識が紛れ込んで、特に女性が女言葉独特の語尾を付けることを拒否するようになってしまいました。その結果、この日本語のもつ男言葉と女言葉の違いの多様性という宝を放棄してしまったようです。 しかし、そのような語尾を取り除いてしまうだけで、その代替物を用意してくれない状態では、話し言葉特有の不安を解消することは出来ません。今の女性達が頻繁に語尾を引っ張る理由は、それを使う本人が意識していようがいまいが、男女が平等であることを確認しつつ、自分の話し言葉に対する不安感を解消するための苦肉の作だと思います。そして、その話し方の影響がじわじわと若い男性にも伝染して来たのが実情のようです。 人間のする行為はどんな行為でも、他から見ていて一見馬鹿馬鹿しい行為でも、その裏には必ず合理的な理由があるのです。ですから、この問題は根が深そうで、私には良い案が思い浮かびません。さあ、質問者さんと旦那さんはこの状況を打破する妙案がありますか。

baronspapa
質問者

お礼

cyototu様ありがとうございます。 漱石も悩んでいたのでしょうね。進化とは多様化・統一化は退化も仰る通りなのですが、その意味で武道の世界の進歩は殆どないのかもしれません。 進化と多様化を望まないがゆえにオリンピック種目にも入れないのでしょう。 多様化に対応しつつも、伝統空手を重んじる主は、道場では伸ばさない決まりとして、今後も注意するそうです。 そろそろ、主に皆さんのご意見を公表しようと思います。本当にありがとうございました。

noname#155097
noname#155097
回答No.1

>皆さんはどう思われますか?。 いいことだと思いますよ。 ビジネスの世界でふにゃっとした言葉を使ってたら まとまる仕事もまとまらないですからね。 誰かびしっといってくれる人がいるうちは まだ救われているのかなという気はします。

baronspapa
質問者

お礼

早速のご意見ありがとうございます。おっしゃるように、子供たちが将来社会に出た時、大変苦労をする事になるだろうと危惧して、厳しくしているようです。私たちは団塊の世代です。子供たちの保護者の年代にも理解されないような気がして、ご回答くださった方の年代は解りませんが、とても安心しました。ありがとうございました。

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