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武道と対人関係について

武道と対人関係について 私は、人に対して怒る際に、よほどのことがないと相手に言えないタイプなので、その性格を直そうと、相手に対して恐れがないように何か武道を習おうと思いました。 そこで、家の近くにある空手道場に通ったのですが、形がメインなため(練習は小学生に交じってやる)、あまり達成感がないのが現実です。最近、その空手をやめようと思っています。 武道で相手に対する恐れをなくすのと人に対して言いたいことを言えるような人間になることは、全然かけ離れたものでしょうか?

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  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3876)
回答No.8

武道で相手に対する恐れをなくすのと人に対して言いたいことを言えるような人間になることは、全然かけ離れたものでしょうか? 正にその通り 私の友人で大変腕の立つ人物がいます 長年にわたって武道指導員をしてきた私でさえも一目や二目於くほどの達人です 私と二人でそぞろ歩きの途中で地回りの達の悪い連中に肩をぶつけられた友人 「すみません」と言って通り抜けようとしましたが初めからけんかを売る積りの人たちです そんな一言で許してくれるはずが有りません 散々毒づかれた友人は「貴方がぶつけて来たんでしょう」の一言も言えずに黙って俯いていました いきなり挑みかかった数人を数秒で地面に這わせた友人は「早く逃げよう、早く逃げよう」 と言ってそそくさとその場を立ち退きました かく左様に武道の実力と発言の心構えとは無縁のものと心得て下さい。

realistkn
質問者

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質問に答えていただきありがとうございます。 具体例をしめしていただき、非常に分かりやすいです。 コントのような話ですが、武道の実力と発言の心構えとは無縁のものというのは 良く分かりました。

その他の回答 (7)

回答No.7

もう一つ付け加えておきます。貴方が『あまり達成感がないのが現実です。最近、その空手をやめようと思っています。』と思うのは、貴方が真剣に生きていないからです。と言うのは酷な言い方になるかもしれませんが、 取り組み方が不十分な間は『十分やっている』と思うものです。 もし十分に出来た時は『未だ努力が足りない』と思うものかと思いますが?如何でしょうか?

realistkn
質問者

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達成感がない原因は真剣に生きてないとのご指摘ありがとうございます。 格闘技は奥深いものだと思いますので、真剣にやれば、何かが見えるかもしれませんね。

  • taka-aki
  • ベストアンサー率12% (748/6126)
回答No.6

あまり関係ないかもしれませんね。 相手が自分より屈強だから物が言えないのでしょうか。 女性や子供にははっきり物が言えるのですか。 武道に頼るのも、ナイフを隠し持ってそれに頼るのも あまりかわらないような気がします。 怖いから頼る。 でも怖い根本原因は喧嘩が弱いからじゃない。 なら根本原因を改善しないと変わらないのでは。

realistkn
質問者

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質問に答えていただきありがとうございます。 皆さんがおっしゃるように、最大の敵は自分であって、根本を変えないといけないのは 納得できました。

回答No.5

ヾ(@⌒ー⌒@)ノ学生時代空手をしてた浪速のおっちゃんです。 >武道で相手に対する恐れをなくすのと人に対して言いたいことを言えるような人間になることは、全然かけ離れたものでしょうか? よく礼儀だ、魂を鍛えるだのいいますが、本来は効率よく人を殺すシステムです。 それを建前で武道といっていますが本音は暴力です。 怒る時に相手が襲ってきたら勝てる為に空手を選択したように思えますが、根性がある人間相手に空手をしていたとかは関係ありませし、ルールのない喧嘩には案外役に立たないものです。 >形がメインなため(練習は小学生に交じってやる)、あまり達成感がないのが現実です。 僕が通ってた道場は師範が喧嘩の時に恐怖心をなくし喧嘩に慣れさす為に、道場に入れば不意に襲ってき、素手でなく棒をもったり、相手が複数だったっりでした。 こんな道場でしたらあなたは達成感とか感じましたか?多分何かと言い訳をつけてやめようとするでしょう。 型だろうが周りが小学生だろうと、しっかり自分を持ち、目標などをたて目指すとかの心意気がないから、相手にいいたい事も言えないのですよ。生兵法は怪我の元といいますし、何かに頼れば自分が変わる程度の甘い考えならしないほうがいいですよ。 極真空手の大山総裁の本に『一番やっかいな敵は自分だ』と書いています、弱い自分を鍛えるのなら毎日マラソンとかなんでも自分の決めた事を実行し続ければ自信もつき強くなります。 一度自分で目標をたて達成できるように心を鍛えてみればいかがでしょうか? 格闘技に幻想を抱くよりはいいと思いますよ。

realistkn
質問者

お礼

質問に答えていただきありがとうございます。 とても的確なアドバイスをありがとうございます。 格闘技以外でも目標を達成して鍛え上げるようにすることの方がいいのですね。 空手は空手で一つのスポーツとしてとらえていこうと思います。

回答No.4

『道』と名が付くものは、人間としての究極の心持を学ぶという意味があります。その究極のものとは、生きる事の恐れ、死ぬ事に対しての恐れ、を自分を磨く事で安心に替えて『安楽』に生きてゆくと言う意味があります。 死を恐れるうちは未だ『自分自身が判っていない』という事を学ぶところにあります。その事の核心のみを書いて見ますので、後は自分で学んで下さい。 心に感じる『恐れ』とは自分自身の中に恐れさせる者が存在しているために起きている現象です。自分の感情を湧上がらせる者が『自分自身の中に』存在している事に拠ります。そのことが判らなくて、恐れを恐れる事になります。頭で作った架空の恐怖に怯えてしまう事です。その事を『妄想』と言います。 現実に恐れるものに対して恐れる事は『真実の世界』を見ている事に相当します。ですが目の前に恐れるものが無い場合でも『心に恐れが生じる場合があります』この事を『心が流れていない』或いは『心が停滞している」と言います。 この心が流れていないさまを『妄想」と言います。精神疾患や、神経症に罹った場合と言う言い方も出来ます。人間の障害が心の持ち方によって出てきたという言い方になります。 この反対が『平常心』という事になります。是は当たり前の心で生きてゆく事が人間としての『道』という事です。 真実が見えた生き方と、妄想を見た生き方がどういうに違うかを書いてみます。真実が見えた生き方とは『自我意識が無い状態です』言い方を替えたなら、自我意識が必要以上にでしゃばらなくて『無意識の自分の任せた生き方』の事です。 妄想で世の中を見ると言う事は、『自我意識の計らいで』世の中を見るという事になります。自我意識のフィルターを通してみると言う意味です。この時には自分の中の『真実を見ている者に封印をした形になっています』 無意識のもう一つの意識の出番を奪ってしまった、と言う意味になります。その時にもう一つの意識は『言葉ではない抗議をしてきます。』其れが不安であり、恐怖という事になります。 従って死を恐れるうちは『自分自身が判っていない』と言う意味になります。 自我意識がない状態、『没我』の時に働く働きが働く時に人間は一番充実をしています。其の無の境地が判った時に、貴方には『相手に対して恐れがないように』出来ると言う事です。そうなるためには『弛みない努力が要求されると思います。』 その姿は全身全霊で生きてゆくという意味が有るからです。

realistkn
質問者

お礼

質問に答えていただきありがとうございます。 生と死の話まで出てくると、とても複雑ですね。たとえ、僕が武道をやっても、時間も限られてますし、無の境地とまではいかないと思います。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.3

殺人剣が消えたのは、他人を斬るからだ。 剣道が残ったのは、弱き己を斬るためだ。 武道が消えたのは、他人を殺す為だからだ。 残ってる武道は、弱き己を殺す為だ。 恐れているのは相手ではない。 恐れているのはいつも己だ。

realistkn
質問者

お礼

質問に答えていただきありがとうございます。 自分で自分の敵を作っているだけですね。武道はそれを克服する手段なのでしょうかね。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.2

>武道と対人関係について 私は、人に対して怒る際に、よほどのことがないと相手に言えないタイプなので、その性格を直そうと、相手に対して恐れがないように何か武道を習おうと思いました。                ↓ 私は、柔道を長くやっておりましたが・・・すべからく○○道と名乗り、称されるものは、心技体の充実・向上を目指すのが本分であり、勝負&結果のみを求めるのは賛成しません。 その為に、柔道の場合は受け身(防御)から始めるのですし、練習そのもは礼に始まり礼に終わる。 決して、上から目線でお説教めいた事を申し上げる積りではありませんが・・・ 対人関係で自分を表現・主張する事は、関係してはいるが全てではないと思います。 それは、自信(克己心・矜持・見識)と表現力(慣れ・プレゼン&ディベート&コーチング等の研修や鍛練)と熱意(思い・意義・意図)の積算だと思います。 どれかの要素が突出していても、それだけでは結局は自分の主張・思いが上手く伝わるかどうか不確実です。 思いを表現し自信&熱意を持って語る事で相手の琴線に響き共感や理解や感動を呼ぶのではないでしょうか・・・。 私は、空手・拳法・合気道・剣道・柔道etcも、弁論も突き詰めれば同じ境地に至ると思っております。 自分を磨き、他者に優しく接すれば、おのずと道は開ける。 それでも理不尽に襲いかかる者に、力で対抗すれば、さらに目的の為には武器を使われエスカレートするばかりである。 リスクを回避し、防ぐには、基本通り、自分力を磨き、防御の及ばぬ狂気には、もはや逃げるにしかずである。 以上、勝手に思いを述べましたが→回答に成らぬ、ピンボケ私見、余計なお世話であったら、何卒お許しください。

realistkn
質問者

お礼

質問に答えていただきありがとうございます。 自信(克己心・矜持・見識)と表現力(慣れ・プレゼン&ディベート&コーチング等の研修や鍛練)と熱意(思い・意義・意図)の中で言うと、空手では自信のなかの克己心だけを含んでるだけですかね。 私は社会人で結婚してますので、あまり空手に時間を割くこともやれる時間もないです。 あと、その自信ががつけれるかもやってて疑問にかんじてます。なぜならば、練習時間が少ないですし、 ずっと小学生とやっているからです。

  • ho_orz
  • ベストアンサー率13% (209/1603)
回答No.1

それは人それぞれだろうなぁ。 自分には合わなくても、武道のおかげで克服できました!って人はどっかに居るだろう。 まぁ折角始めた事なんだし、ここは一つ 空手とはそもそも何なのか? 覚えた型は本来どういう流れと場で使うものなのか? どこまで極めたらやめるという目標。 そこらへんを探ったり決めたりしたらどうだろう? まずは精神の鍛錬からっしょ。

realistkn
質問者

お礼

質問にこたえていただきありがとうございます。 自分の中の空手の目標は、とりあえず、たしなむ程度にやれればと思ってました。 ただ、なんか達成感がないんです。 やはり、精神の鍛錬なら、他の自分の好きな趣味でもマスターできるのかなと。

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