こんにちは。
そうですね。
個人の信仰について 組織において権限のある他人が 信仰は成っているかどうかや まだ浅いとかいや深いとかというふうに裁定することができるという仕組みであるとすれば それはすでに組織をつくる時点で 個人の信仰の自殺行為だと考えます。
信仰が成り立つときの条件としての信教・良心の自由は 布教や勧誘といった表現や結社の自由よりも いっそう内的であって 内面のこころとその判断にゆだねられているものと考えます。信仰の度合いには 階級はないし あり得ないという理由からです。
つぎのような投稿をもらったことがあります。上の見方をその事例としておぎなってくれると考えます。
◆ (【Q:《われはブッダなり》と宣言する人は】回答No.31) ~~~~~~
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3843320.html
もう一度言いますね,仏法はあくまで実証主義(勝つか負けるかの勝負)ですから貴方がいくら屁理屈な種々設問されてもそんなものは枝葉の問題で取るに足らないものであるということです。
以前私がお答えしましたように日蓮大聖人御書全集に貴方が問われていることがらについては全て解答され,破釈されておりますので,勉強してください。勉強されてから問いをされてくださいね。
時間の無駄ですから,無知な人には仏法の本質は到底理解はできませんから。
末法の御本仏は日蓮大聖人のみであり,これは歴史が証明している事柄です勉強してください。
人本尊開顕の書である「開目抄」の最も大切な請願の部分を参考に記載しておきますね。貴方には到底理解はできないでしょうけれども貴方を救済する意味で書かせていただきます。
「詮ずるところは天も捨てたまえ諸難にも会え身命を期とせん,身子が六十功の菩薩の行を退せし・乞眼の婆羅門の責めに耐えざるゆえ,久遠大通の者の三五の塵をふる・悪知識に会えるゆえなり,善につけ悪につけ法華経(南無妙法蓮華経)を捨つるは地獄の業なるべし,大願を立てん日本国の位を譲らむ,法華経を捨てて勧行等について後生を期せよ,父母の頸を刎ねん念仏申さずば,なんどの種々の大難出来すとも智者に我義破られずば用いじとなり,その他の大難風の前の塵なるべし,我日本の柱とならむ・我日本の眼目とならむ・我日本の大船とならむ(主師親の三徳)等と誓いし願い破るべからず」,
貴方が可哀想ですから再度言いますね,理論の遊びをしていないで,実践をしてください。今のままでは貴方は無限地獄に堕ちますよ。
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☆ ひとことで言って 心が盲目の状態に落ち入っている。相手の人間としての存在をないがしろにしている。
こういうことをゆるしているか そのように仕向けているかだと考えますから 個人の信仰が 権限関係をその運営や活動の仕組みとする組織において掲げられ持たれるということが 人間の存在の条件にとってその自由を侵すものと考えます。
◆ (同上 回答No.18) ~~~~~~~~~~~~
補足の解答を致します。釈尊も五百塵転功という過去に仏になったと書かれています。では何を持って仏になれたのでしょうか?サンスクリット語でナムサダルマフンダリキャソタランガその答えで,それ以外には無いのです。
法華経は今はその功力はありませんから,いくらやっても成仏は出来ません。
これについては日蓮大聖人御書全集に全ての事が書かれておりますので勉強されればいいと思いますよ。信心は疑わざるを信と言うとおり理論や屁理屈ではありません。現証が全てであり貴方も何も得ていないのに得た様に思う人にはならないようにしてくださいね。
私も49年間信・行・学をしてきましたが,機根には上・中・下根があり私は下根なのでしょう。この事についても書かれていますので参考に,誤った信仰をすれば地獄に堕ちますからくれぐれも御用心を,それではこのあたりで失礼しましょう。
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☆ ハンコをつくって それを捺すだけの人生ですね。それを 本人とともに組織がつくったとすれば 人道に対する罪であるかと考えます。
お礼
なるほどお、全体的に納得できない箇所もありますが、 要するに、「拡大勢力への恐怖と嫉妬からくる嫌悪または憎悪」なんでしょうかねえ ちなみに、学会へのあらぬデマは非常に多くあることを承知しております。反面、また学会信者への刑事裁判、民事裁判も非常に多くあることを承知しております。 ありがとうございました。