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感情について

遥かな中東の地でも、罪のない子供の悲惨な死を知らされることは、悲しみや・怒り・哀れさなどの諸感情が私の中にも発生します。しかし、同時に写真週刊誌に代表されるような過激な場面の報道には、ある種の嫌悪感が私の感情を支配し、拒否の姿勢が支配的となります。また、夜空を染める砲火の花・ビルに激突する飛行機は、花火や映画を見るような上ずった感情に支配されがちです。 このような同様な事実対象に対する恣意的な感情の発生は私だけではないと考えますが、このことは、感情が理性に先立つ人間の根源的な資質のような気がします。 よく「喜怒哀楽」などと感情の質について言われますが、まだまだ多くの感情の種類があるような気がします、もともと物事を単純に考えたい私は、感情を「好き・嫌い」又は「肯定・否定」の二要素に還元できないかと考えてみましたが、どうも無理があるようです。 この感情の質や量をうまく説明できませんでしょうか?

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noname#5270
noname#5270
回答No.3

こんにちは!!私、want-my-pcと申します。m(_ _)m 私からは参考になりそうな本を、紹介します。 ・『人はなぜ感じるのか?』/日経BP社/2001年  (原題/"Why We Feel") Victer S.Johnston[著] 長谷川眞理子[訳] … …→性技指南本ではありません(笑)。感情について認知心理学・進化心理学者が著した本です。たまたま最近、私が読んだのですが、なかなか面白いですよ。文系人間の私にも読める内容です。勿論、書いてあること全部を鵜呑みにしてしまったら、哲学の入る余地がありませんが、多分に考えるヒントにはなるでしょう。 余談ですが、最近このサイトで「荒らし」が問題になっているようです。この本を読んで改めて思ったンですが、生きる上で「感情」ッて、とっても重要な物なんですよね。ヒトとヒトとの意思疎通において、感情のぶつかり合いはシバシ、必要だった訳です。ところが、ネットでのコミュニケーションは、かつての人類史上、例をみないものです。そこでは既存の人間的な感情が障害となる場合すら、起こって来るのです。 それでも誠意を持って、次々と良回答を生み出される方には、本当に敬意を感じますね~。ネットは言わば(カッコつけて言うと)超越論的コミュニケーションですから、こちらが誠意を持って回答を続けるには、やはり超越論的な 物の見方を身に着ける――宗教の力を借りるしかないかなァ~等と 考えてしまう今日この頃です……(私だけでしょうが……) ちなみに以前、私は「政治家、バカヤロ~!!ッて時」という質問をしました。 多少方向は違えど、こういった感情は皆、よくあるようです。 現代に措ける、感情の位置付け……むずかしいですね。

noname#15238
質問者

お礼

余裕も感情でしょうか。そんな疑問が生まれるような大人のご回答有難うございます。 見ず知らずの人の役に立ちたいという誇りや、共感が大切な気がします。 反対に、嫉妬や軽蔑が不本意ながら私たちの心の中から無くなりませんね。 でも、バカヤロ~はいけません。国会が解散になって無駄な労力が増えてしまいます。 年寄りの冗談、年がばれてしまいます。 参考図書探してみます。

その他の回答 (5)

noname#5270
noname#5270
回答No.6

それから、もう1回だけ続きを!!(すみませんホント……ポイント要らないンで、これだけ!) …… …… 感情を考える際に よく例に引っぱり出されるのが、ロボットですね。 ロボットに感情はあるのか……? ということ。 SF漫画に出てくるロボットには2つのタイプがありますね。 「鉄腕アトム型」と「鉄人28号型」です。   (前者の例はドラえもん、アラレちゃん、‥)   (後者ならマジンガーZ、エヴァンゲリオン、etc‥) ここでは前者を考えてみます。(後者はもうイイでしょ) 彼らの振る舞いは、あたかも人間並みの感情があるかのように思わせます。 しかし、実際はどうなのかな~、と考えてみます。 人文系の考え方では、「高度な伝達回路を持っていても、機械は機械」とか 「人間は機械じゃないから、機械は人間じゃない」 という結論に落ち着くことが多いようです。 人間だからこそ、人間の感情が成り立つのだと。 しかしそれは結局、ヒューマニズム(人文主義)の横暴に過ぎない気も、またします。 人間の【心】ひとつ、いったいどれだけが理解できたというのでしょう。 その全てを誰も知らないまま、われわれはこうして今日も生きています。 車1台 作るのに、全ての構成元素を説明できる必要はありません。 それと同じように いつの日か、人間の心も解明されないまま 「鉄腕アトム型」のロボットができてしまうかも知れません。 そうなった時、いったいロボットのそれは感情ではないということを いったい誰が証明できるのでしょうか――?  「人間はなぜ生きるのか……」 分かりません。ですが、人間は生きています。 だから感情も【ただ、そこにある】――私が言えるのはここまでです。 進化論的起源からしても、哲学的な存在論からしても、 結局は人間そのものを問わねばならない事になります。 デカルトではないですが、【ゆえに「感情が理性に先立つ人間の根源的な資質」でありえる】 のではないでしょうか? 「生への問いと、不可分である」という事です。 …… ……あ~疲れた……(笑) ホント長々と、大変失礼をしました。 もうしませんから、どうかお許ください。m(_ _;;)m ▼え~最後にチョット余談です、ロボットと人間についての。ロボットは量産できますね。いまの所はまだ、人間は量産できません。双子・三つ子も、まったく同じに育つ事はないですね。これは わが故郷の名産、備前焼とよく似ています。うわぐすりを使わない 素朴な焼き物なのですが、焼き上がりは何1つ 同じ物ができないのです。それはもう「釜(カマ)」のみぞ知る領域なのです。 人間も、持って生まれる物は みな違います。さらに出来た器に入れるものさえ、【花】だったり【酒】だったりと違うのですから、もう無限のバリエーションですよね。われわれが焼かれた備前焼として産まれてくるならば、それにうわぐすりを塗るなんて不恰好なコトせずに、中身ですね。器にあった中身を、これからも探して生きたいものです。 逆に言ったら、ロボットは 生まれる前にうわぐすり塗ってもらう事ができるので 人間以上の綺麗な器にはなれますが、備前焼にはなれないってコトではないでしょうか。

noname#15238
質問者

お礼

漸く梅雨も開け、夏祭りも大方終わってしまいました。夏の太陽の下で悩むのは似合わないですね。 イソップの狐とブドウの話は、自分の手に入れることのできないブドウは酸っぱくて食べないほうが良いと、自分を納得させる、賢明な感情のすり替えかもしれません。 ロボットの話を少しさせてください。 たとえばロボットに、利他的な感情を組み込むとどうなるのでしょう、自己保存の能力を持たないロボットたちは、互いに破壊しあうことになるのでしょうか? 人間は利己的な遺伝子のおかげで進化してきたらしいですが、さてさて、どんな未来が待っているのでしょうか? 有難うございました。

noname#5270
noname#5270
回答No.5

その後 いかがお過ごしですか……★ No.3です。m(_ _)m 再び おジャマします。。 あれからいろいろ考えました。 結論から言いますと、感情は二要素に還元できます。それも容易に。 【二要素に還元できる】と言ってしまえば良いのです。(←タコ殴り) いたいいたい!!(笑)でも、前に紹介した本などは、この部類に入ると思いますよ~。 もっとも、こんな場合もあります。  ・怒りにも似た哀しみ  ・不安と期待の入り混じった入学式  ・切なくも甘い恋(キャー!!(笑)) ……こんな場合でも、感情の枠組みを2つしか用意していなければ、 やはりどちらかに分けられてしまうでしょう。 ボキャブラリーの豊富な方なら もっと沢山の複雑な例を挙げられます。 (貧困で、ゴメンナサイ!!) おのおのの感情に名前を与えてあげられれば 無限の要素を見出すことも また出来るでしょうし、 それもまた正しいのだと思います。 問題はその【起源や原因に由来するむずかしさ】にあるのではないでしょうか。 人生は言うまでもなく、複雑でさまざまです。 かの中東の地など、「神様」でさえ1つの真理を導き出せずにいます。 私も【感情が理性に先立つ人間の根源的な資質】だと考えております。 感情の旅――これは言葉を変えると、人間の根源的な資質を探求する旅でもあります。  「人間はなぜ生きるのか……」 ここですね。ある者は進化論から考え、 ある者は神に生かされているのだと悟る、 ある者にとっては「幸せになるため」であり、 ある者にとっては「われ思う、ゆえに」なのであり…… 私の答えは、まだ見つかっておりません。 おそらく頭のどこかで、一生考え続ける事でしょう。 しかし、凡そこんな事考えなくても 人生やってけるのは確かです。(←オイオイ) それもひとえに年中無休の心臓ありき、感情ありきだからです。 (そして周りの協力ありきでもあります。ありがたや~……)

noname#15238
質問者

お礼

予期せぬご回答に、感謝の感情であふれています。 ところが、前回のご回答より今回のご回答が、予期していなかった為、より大きな感謝の感情があるはずだと感じることは、もはや感情ではないような気がします(理性では)。 なぜなら、前回のご回答をいただいたときの感謝の感情をすでに忘れてしまっているのです。忘恩と言う事ではなく、量的比較ができないということです。このように悩み多き日々を楽しんでいます。 ご紹介いただいた本は、早速調べました、残念ながら行き付けの図書館には蔵書がなく、他の図書館で拝見しましたが、結局、行き付け図書館にリクエストすることとなりました(残念ながら1.2ヶ月待たねばなりません)。 代わりに、遺伝子と感情に関係のありそうな本を読ました、たとえば、泣くのは(感情)人間だけ?感情は化学反応?(人はなぜ泣くのか…)感情は絶対的でない?(いじわるな遺伝子)等々疑問を増やして喜んでいます。 感情を要素還元できるかどうか? 大胆なご提案を受ける前に、最近はこんなことを考えていました。「言葉の発生以前に感情がある以上、言葉を通じた思惟で感情を考えるのは不合理では」と、弱気になっていたのかも知れません。(←ヨッパラッタカナ)本日はここまで長々と大変失礼しました。次回をお楽しみに?

noname#5270
noname#5270
回答No.4

No.3です。m(_ _;)m 些細な事ですが、チョット訂正を…… >「政治家、バカヤロ~!!ッて時」という質問 ―→正しくは「政治家、コノヤロ~!! ッて時……」でした。 大変、失礼いたしました……(汗!・削除可)

noname#15238
質問者

お礼

こちらこそ失礼しました、バカヤロ~にお礼を書いてからこちらに気が付きました。 感情の前に、知覚や対象の把握を間違えることもあります、ますます難しくなりますね。 またよろしくお願いします。

  • majimekun
  • ベストアンサー率20% (14/68)
回答No.2

感情の質についてですが、論理学を高校の数学レベルで考えて見ますと、命題は、真(正しい)か偽(正しくない)かがはっきりと決まることを述べた文ということになります。つまり正or負ですね。でも正負のほかに現実にはもう一つの選択肢があります。どちらでもない(ゼロ)というものです。また真偽だけでなく物事の反対を考えていくときにも、二者択一では説明できないこともあります。例えば賛成と反対。両者は逆の関係にあるようですが、実は違うのです。賛成の賛成。これはつまり賛成。賛成の反対。これは反対。反対の反対。これはたぶん賛成かもしれません。反対の賛成。意味が通りません。逆と裏、待遇は全て二要素からの説明であり、論理学は三次元上で二次元の説明をするのには適していますが・・・。これも言葉の遊びのようですが、あなたの心は平面図形では説明できないものだと思います。また、立体の中で感情の位置を説明するときにも数学のような点で座標は指定できるものでしょうか。仮に三軸の座標にあなたの心の空間を表すとしてみましょう。この場合でも点や線は三次元の人間には言葉で説明できない質のものですので、数字で特定するしかありません。ずっと後からになって、意識が当時より高いものになったときには感情は言葉で説明できると考えますので、範囲を指定することはできますね。 感情の質や量は範囲を特定することに努力、から、始めてみてはどうでしょうか。

noname#15238
質問者

お礼

有難うございます。 範囲を決める…質の面では、知覚・感情・理性の混在で難しそうですね、厳密に考えると愛など感情ではないのかもしれません(良い感情の繰り返しが永続する錯覚)。「自信なし」 量の面も難しいです、たとえば、このようなわけのわからない質問にご回答いただいたことに、どのようにお礼を書けばよいのでしょうか?回答以上のお礼の文章は逆に私の意見を押し付ける結果になりがちですし、有難とうの一言では不義理の否定的感情をmajimekun(さん)に与えてしまいそうです。 ゼロの問題も考えていました、感情に関心を持ったのは行為の原因としての事です。感情の面ではおそらく無関心・当然の存在といったところでしょうか?(これが全行為のほとんどでは) 梅雨の終わりにはある程度は晴々としたいところです。謝々。

  • hishow
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回答No.1

 感情を二要素に還元できない理由を、肯定と否定がそもそも感情の中では対極化しておらず、二つの感情が同時発生することがありえるため、だと思っています。そのため、単純に考えやすい一平面の座標軸、もしくは1直線状で表せないため、少なくとも三次元以上の座標軸で表すことになってしまうと思います。  ここで私の考えですが、感情を脳の電気信号と表現すれば感情は一過性のものではなく連続的であることから時間軸が関係し、感じた瞬間は感じたときには過去のものとなり、改めて感じることの出来ないものであることから、結局は例えば怒りの感情にも混沌としたものが周りに付加することから質や量が生まれるのだと思います。  例えるなら、色んな感情(例えば喜怒哀楽と呼ばれるもの)の混沌としたスープがあって、起こったときは「怒」を多くすくおうとするのですが母集団としての「怒」はすくえるが他の物もすくってしまう。何回も起こっている間は何度も何度も気が済むまですくうが、こぼれたりすくったスープの濃さや量が毎回違うので質や量の違いがおきる。濃さが違うと厳密にはかる人にはもとのスープとは違うと言う人もいる・・。  だらだら文章が長くなってすみません。私なりの説明でした。

noname#15238
質問者

お礼

有難うございます。 感情に時間の要素を加えるのは難解ですね、感情の繰り返しが反省を伴って理性の部分に移る可能性があるかもしれませんし、難しいですね。それにしても、怒りや悲しみの入り乱れた不味いスープを何度いただいたことでしょう。 混沌として複雑ですが、喜びと悲しみのように対極的に理解できそうなところもありますが、普遍性までには至りませんね。感情をひとつずつ分析を始めて、喜びの研究・怒りの研究・悲しみの研究・・・大変なことになりそうです。 参考にしていろいろ考えて見ます。