• 締切済み

高村光太郎詩集の中で『人類の泉』がありますが、何度読んでも理解できませ

高村光太郎詩集の中で『人類の泉』がありますが、何度読んでも理解できません。 だれか、解説をお願いします。 それと、「この孤独さに満足しようとする」とありますがこの中で孤独とはなんですか?

みんなの回答

  • zephyrus
  • ベストアンサー率41% (181/433)
回答No.1

そんなむつかしい詩ではないですから、いま一度ゆっくり丁寧に読み返してみてください。 まず、呼びかけられている「あなた」とは、どうやら作者の恋人のことらしいと見当がつくと思います。 詩の冒頭にある「世界がわかわかしい緑になって」という詩句はなかなか大事で、たとえば7行あとの「づんづんと私を作つてゆく」という実感を秘めた語句とよく呼応し、「青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに」という直喩を自然なこととして読む者に受け入れさせます。さらにそれから17行くらいあとの「私の正しさは草木の正しさです」とも遥かに呼応するものですし、さらにその13行あとの「此は自然であり 又必然であるのですから」の断定を違和のないものにしています。 つまり冒頭の、自然に触発された心情は、同時に作者自身の内面から湧き上がってくる心情でもあって、この詩の縦糸の一つになっていることが、読むときに特に意識にのぼさなくても感じ取れるのではないでしょうか。 5行目の「私を堪らなくおびやかす」の「おびやかす」は半ば反語的な表現で、というのは、「おびやか」されて萎縮したり卑屈になるのではなく、逆に雄々しく決意し立ち向かおうとしていると、詩全体から読み取れるからです。新しい事態に対する、しなやかさを感じさせる、繊細な、とてもいい表現だと思います。 さて、この詩における「孤独」とはどういう孤独かということですが、それは28行目だかの、「私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です」によくあらわれていると思います。ピオニエエとはたぶん仏語のpionnier、英語でパイオニアのことですね。 「万人の通る通路から数歩」別のところに足を踏み込み、「共に手を取る友達はありません」 おそらく芸術家としての(別に「芸術家」に拘らなくてもいいのですが)未踏の道を歩みはじめたパイオニアとしての孤立、人から理解も共感もされにくい立場、それを「孤独」と言っているのでしょう。 そうしてそこに「あなた」がいる。 「私は人から離れて孤独になりながら  あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します」 「ヒユウマニテイ」、すなわち人間性を回復すると言うのです。 現代から見ればいささか理想主義的に過ぎた、いかにも高村光太郎らしいマッチョな詩。けれども心情を素直に歌い上げた詩らしい詩、すてきな恋愛詩になっていると思います。 もちろんここで呼びかけられている「あなた」は、この後すぐ婚約し結婚する智恵子のことなんでしょうが、文学史的なことは一切省いて、なるべく書かれてあることだけに準拠して自分なりの観賞を試みてみました。 ご参考になれば幸いです。

gskenny
質問者

お礼

本当にありがとうございました。すごく助かりました。 もうひとつ聞きたいことがあるんですが、よろしいですか? 「この孤独さに満足しようとする」の孤独はなんですか? それと、この詩が書かれた時期と発表された時期には隔たりがありますが、その事情についてなんかわかりますか?