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自然な日本語に添削していただけないでしょうか。(是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」)

 日本語を勉強中の中国人です。文章力をつけたいので、作文の練習をしています。次の文章を自然な日本語に添削していただけないでしょうか。    是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」  中国の大晦日に、是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」という映画のDVDを入手した。以前美しい邦画について日本の方に尋ねたところ、この映画をすすめてくれたことがある。DVDの表紙に書かれた「静謐な木陰、漂う郷愁を通して、人生の中のささやかな機微をとらえ、漣のような感動を起こす」(原文は中国語である)という紹介文に引き付けられた。  しかし、大変残念なことに、二時間で外国人の私に伝わってくるものがあまり感じられなかった。日本の方に失礼かもしれないが、この映画は私にとって、おさゆのように無味で、終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」とさえも思った。監督はたぶん平凡な日常生活を通して、何か哲理を伝えたいと思うが、とても曖昧にうまく表現できなかったような気がする。インターネットでこの映画の評価をいろいろ読んだが、好評ばっかりで苦笑するしかできなかった。たぶん私は外国人で、日本的な感じがまだ理解できていない。  でも、「歩いても 歩いても」はいいところは一つもないというわけではない。映画の中に心地よく、淡々と流れている音楽が好きだ。また、子供たちはつま先たって、小さな手で高いところにある薄桃色のさるすべりに触るというシーンの撮影が印象深かった。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

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  • hakobulu
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回答No.3

1、 > 中国の大晦日に、是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」という映画のDVDを入手した。以前美しい邦画について日本の方に尋ねたところ、この映画をすすめてくれたことがある。DVDの表紙に書かれた「静謐な木陰、漂う郷愁を通して、人生の中のささやかな機微をとらえ、漣のような感動を起こす」(原文は中国語である)という紹介文に引き付けられた。 →添削無し。 : ほぼ完璧な日本語表現です。 2、 > しかし、大変残念なことに、二時間で外国人の私に伝わってくるものがあまり感じられなかった。 → しかし、大変残念なことに、【この二時間の映画で】外国人の私に伝わってくるものがあまり感じられなかった。 : 原文は「二時間で~伝わってくるもの」という構文になっています。 「(この)二時間の映画で~伝わってくるもの」とするほうが文が落ち着きます。 3、 >日本の方に失礼かもしれないが、この映画は私にとって、おさゆのように無味で、終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」とさえも思った。 →日本の方に【は】失礼かもしれないが、この映画は私にとって、【白湯】のように無味で、終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」と【さえ】思った。 : a.「日本の方に」は、「日本の方に対して」という意味なので特に問題はありませんが、 「日本の方【には】」とすると、「日本の方にとっては」という意味になり、より自然になります。 b.「おさゆ」は漢字にしたほうが良いでしょう。 また、この丁寧語は不要です。 c.「日本の方に失礼かもしれないが」は、 「【白湯】のように無味で」と、 『終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」と【さえ】思った。』 の2つに掛かっています。 ただ、この2つは、 「【白湯】のように無味なので」、 『終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」と【さえ】思った。』 のようにつながります。 つまり、【ひとつの要素】と捉えることが可能です。 この場合、「さえ」のほうが適切です。 ここでの「さえ」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/74687/m1u/%E3%81%95%E3%81%88/の (3)そればかりではなく、さらにつけ加わる意を表す。 です。 つまり、「も」のニュアンスも含んでいるわけです。 「さえも」という使い方が間違いとまでは思いませんが、「重複」の印象が否めないため、よほどのシチュエーションでなければ不自然になるような気がします。 4、 >監督はたぶん平凡な日常生活を通して、何か哲理を伝えたいと思うが、とても曖昧にうまく表現できなかったような気がする。 →監督はたぶん平凡な日常生活を通して、何か哲理を伝えたいと【思ったのだろうが】、【あまりにも曖昧すぎて】うまく表現できなかったような気がする。 : a.ここでの「伝えたい、と思ったこと」は、過去形として表現するのが妥当です。 「何か哲理を伝えたいと【思ったのだろうが】」 または、 「何か哲理を【伝えたかったのだろうと】思うが」 とします。 b.「とても曖昧に」の掛かっていく先が示されていないため、不自然な表現になっています。これを生かすのであれば、 「とても曖昧に表現されているので理解しづらい映画になっている」 などのようにする必要があります。 「うまく表現できなかったような」に掛かっていく表現としては、 「あまりに曖昧で」 「あまりにも曖昧すぎて」 などのようにするのが妥当でしょう。 5、 >インターネットでこの映画の評価をいろいろ読んだが、好評ばっかりで苦笑するしかできなかった。 →インターネットでこの映画の評価をいろいろ読んだが、好評ばっかりで苦笑する【しかなかった】。 : 特に大きな間違いはありませんが、「しかなかった」で「それよりできなかった」という意味になります。 つまり、原文は重複表現になっています。 「苦笑するしかなかった」 とするほうが自然です。 6、 >たぶん私は外国人で、日本的な感じがまだ理解できていない。 →たぶん私【が】外国人で、日本的な感じがまだ理解できていない【からだと思う】。 : a.「ここで一番言いたいことは何か?」 ということに留意する必要があります。 1mizuumiさんは、「私」について何か語りたいのでしょうか? そうではないと思います。 一番の要点は、 「日本的な感じがまだ理解できていないということ」でしょう。 「誰がか?」というと、それは「私」なので「私が」と特定するわけです。 b.この文は、前段の「好評ばっかりで苦笑するしかできなかった」という箇所を受けています。 なぜ「好評ばっかりで苦笑するしかできなかった」のか? という説明をする文ですから、「~だからだと思う」という理由や原因を示す表現があったほうが自然です。 7、 > でも、「歩いても 歩いても」はいいところは一つもないというわけではない。 → でも、「歩いても 歩いても」【に】いいところは一つもないというわけではない。 : 「いいところはひとつも【ない】」という述部につなげるためには、「は」ではなく場所を示す「に」を使う必要があります。 8、 >映画の中に心地よく、淡々と流れている音楽が好きだ。 →添削無し。 9、 >また、子供たちはつま先たって、小さな手で高いところにある薄桃色のさるすべりに触るというシーンの撮影が印象深かった。 →また、子供たち【が】つま先【立って[だって]】、小さな手で高いところにある薄桃色のさるすべりに触るという【シーン】が印象深かった。 : a.「子供たち」を主題にして何かを語ろうとしたのではなく、 「つま先立ってさるすべりに触るというシーンが印象深かった」ということが最も言いたかったことだろうと思います。 1mizuumi さんがこの文を書き始める時は、 「子供たち【について】」語りたかったのではなくて、 「印象深かったこと【について】」語りたかったはずです。 印象深かったことの対象は「さるすべりに触るというシーン」でした。 さるすべりに触ったのは誰かということを特定するために「子供たちが」と表現します。 b.印象深かったのは、「シーンの撮影」というよりも、「シーン自体」と捉えるほうが自然です。 「シーン」だけでよいでしょう。  

1mizuumi
質問者

お礼

 ご丁寧に添削していただき誠にありがとうございます。詳しく説明してくださり、大変助かりました。とても参考になりました。一箇所まだよくわからないのですが、もう一度教えていただけないでしょうか。

1mizuumi
質問者

補足

>また、この丁寧語は不要です。  日本人の家を訪問する時に、お茶を入れてくれる日本の方に対して、「白湯で結構です」という意味を表す場合、「お白湯」にする必要があるでしょうか。

その他の回答 (7)

  • hakobulu
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回答No.8

#7です。 >>男性の場合、よほど敬意を払う必要のある相手に対してより使わないはずです。  ここの「より」はどういう意味でしょうか。 : http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/200506/m1u/%E3%82%88%E3%82%8A/の、 (3)(打ち消しの語句を伴って)ほかのものを否定し、それと限る意を表す。「よりほか」「よりしか」などの形を用いることが多い。 「ことわる—しかたがない」 です。  

1mizuumi
質問者

お礼

 よくわかりました。何度もご親切に回答していただき誠にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

#5です > 以前日本人の先生に「ぬるめのお白湯をお願いします」という文を教わったことがあります。その先生は女性で、もしかして、女性は「白湯」の前に「お」をつける傾向があるでしょうか。 :現在では白湯という言葉を聞く機会も少なくなってきましたが、一般的に言って女性のほうが「お/ご」などの丁寧語を使う傾向が男性よりもあると思います。 たとえば「何のご本をお読みになっているのですか?」の「ご本」という表現。 男性の場合、よほど敬意を払う必要のある相手に対してより使わないはずです。 女性の場合は、ごく親しい相手に対しても使う方がいらっしゃるでしょう。 良く受け取れば上品な表現、悪く受け取れば気取った表現と認識されます。   もう一例あげると、 「私はお魚が好きです」「早くお家[うち]に帰りたい」 などには違和感を覚えませんが、 「私はおみかんが好きです」「寒いからお外には出たくありません」 などにはやや違和感を覚えます。 別に間違いとまでは言いませんが(また実際に使われる方もいるでしょうが)、よほど上品な育ちなのか、よほど気取っているのかどちらだろう? と普通は訝るでしょう。 よほど特殊な状況(気取ることがむしろ自然に要求されるような改まった席など)でなければ、「お白湯」に対しても(たとえ女性であっても)私はそのように感じると思います。  

1mizuumi
質問者

お礼

 度々ありがとうございます。よくわかりました。これから「白湯」と「お」とつなげないように覚えます。回答文に一箇所意味不明なところがありますが、教えていただけないでしょうか。

1mizuumi
質問者

補足

>男性の場合、よほど敬意を払う必要のある相手に対してより使わないはずです。  ここの「より」はどういう意味でしょうか。

noname#111034
noname#111034
回答No.6

No.1の再訪です。 >なぜ「原文は中国語である」の「である」がいらないのでしょうか。「原文は中国語」は不十分な構文ではないでしょうか。 単独の文章としてなら,不十分な構文です。ここは「注記」ですので,意味が伝わるだけの最低限の表現をぼくは好みました。もちろん,「である」をつけても,なんら間違いではありません。

1mizuumi
質問者

お礼

 再びありがとうございます。よくわかりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

#3です。 > 日本人の家を訪問する時に、お茶を入れてくれる日本の方に対して、「白湯で結構です」という意味を表す場合、「お白湯」にする必要があるでしょうか。 : 「白湯で結構です」という表現で問題ありません。 「お白湯」は、たとえば「おご飯」と言うのと似ていて、不自然な丁寧語になると思います。  

1mizuumi
質問者

お礼

 再びありがとうございます。まだすっきりしていないので、もう一度お願いできますでしょうか。

1mizuumi
質問者

補足

 以前日本人の先生に「ぬるめのお白湯をお願いします」という文を教わったことがあります。その先生は女性で、もしかして、女性は「白湯」の前に「お」をつける傾向があるでしょうか。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

好評ばっかり ↓ 好評ばかり 全体が丁寧な表現なのに、この部分の「ばっかり」というのが急にくだけた表現になるので、違和感を覚えました。

1mizuumi
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.2

 中国の大晦日(日本でいう「旧正月」の前日である)に、是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」という映画のDVDを入手した。以前、美しい邦画の作品はないかとある日本人に尋ねたことがある。その時に、この映画をすすめてくれた。DVDの表紙に書かれた「静謐な木陰、漂う郷愁を通して、人生の中のささやかな機微をとらえ、漣のような感動を起こす」(原文は中国語である)という紹介文に引き付けられた。  しかし、大変残念なことに、二時間で外国人の私に伝わってくるものがあまり感じられなかった。日本の方に失礼かもしれないが、この映画は私にとって、おさゆのように無味で、終わりの字幕が出た時に、「これで終わり?」と思ってしまった。監督はたぶん平凡な日常生活を通して、何か哲理を伝えたいと思ったのだろうが、とても曖昧で、うまく表現されていないように感じた。インターネットでこの映画の評価をいろいろ読んだが、好評ばかりで、苦笑するしかなかった。たぶん私は外国人で、日本的な感じがまだ理解できていない。  でも、「歩いても 歩いても」という作品にいいところは一つもないというわけではない。映画の中で、心地よく淡々と流れている音楽が好きだ。また、子供たちがつま先立って、小さな手で高いところにある薄桃色のさるすべりに触るシーンが印象深かった。

1mizuumi
質問者

お礼

 ご親切に添削していただきありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

noname#111034
noname#111034
回答No.1

細かな説明ぬきで訂正だけ入れます。  中国暦の大晦日に、是枝裕和監督『歩いても 歩いても』のDVDを入手した。以前,美しい日本映画として,ある日本人から紹介されたからだ。DVDの表紙に書かれた「静謐な木陰、漂う郷愁を通して、人生の中のささやかな機微をとらえ、漣のような感動を起こす」(原文は中国語)という紹介文にも引き付けられた。  しかし、大変残念なことに、二時間の映画を見終わったとき,外国人の私に伝わってくるものはあまりなかった。日本の方に失礼かもしれないが、この映画は私にとって白湯のように味がなく、終わりの字幕が出た時には「これで終わりか?」とさえ思った。是枝監督は,平凡な日常生活を通して、何か哲学的なものを伝えたいと思ったのだろうが、とても曖昧でうまく表現できていなかったような気がする。インターネットでこの映画評をいろいろ読んだが、好評ばかりで私は苦笑するしかなかった。たぶん外国人である私には、日本的な感じがまだ理解できないのだろう。  でも、『歩いても 歩いても』にいいところが一つもないというわけではない。映画の背景に心地よく、淡々と流れている音楽が好きだ。また、子供たちがつま先だち、小さな手で高いところにある薄桃色のさるすべり※に触るシーンが印象深かった。 ※「サルスベリ」とカタカナ表記する方法や,「百日紅」と漢字表記する方法もあります。これは著者の好みです。

1mizuumi
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。大変参考になりました。一箇所よくわからないのですが、もう一度教えていただけないでしょうか。

1mizuumi
質問者

補足

>DVDの表紙に書かれた「静謐な木陰、漂う郷愁を通して、人生の中のささやかな機微をとらえ、漣のような感動を起こす」(原文は中国語)という紹介文にも引き付けられた。  なぜ「原文は中国語である」の「である」がいらないのでしょうか。「原文は中国語」は不十分な構文ではないでしょうか。