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これは何ですか?(再々)

何故か何度やっても画像がアップロードできないので、リンクを張ることにしました。 以下のURLからご覧ください。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43033582&VOL_NUM=00001&KOMA=35&ITYPE=0 この画像は、時代にして明治末期と思われる永田町二丁目の地図です。 ページ左上のメニューからズームができますので拡大してご覧いただけますでしょうか。 「大サイズ画面」で「75%」ぐらいに設定すると見やすいです。 よく見ると、日枝神社の右下にある56番地より少し下に、細かく番地がつけられたエリアがあり、左上には拡大図があります。 この拡大されたエリアは何でしょうか? 拡大する必要があるぐらい極端に狭いこのエリアが何なのか知りたいです。 形状から町屋かとも考えましたが、それにしては狭すぎるので違うように思います。倉庫か何かの施設か店だと思うのですが、よくわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください。 因みに当該質問の画像は国立国会図書館Webサイトの近代デジタルライブラリーから、大正1年出版の「東京市及接続郡部地籍地図 上巻 35/647ページ」です。 著作権は既に保護期間満了ですし、以下のページに画像へのリンク自由と記載されておりますので、なんら違法性はありません。ご安心ください。 http://kindai.ndl.go.jp/information/aboutKDL.html#link

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

ご質問の場所は何度か通ったことがありますが、江戸時代の切絵図で確認すると、 (gooの地図で見ることができます。 http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=2) 「山王門前町」とある区域かと思われます。 江戸時代は小さな店舗が並んでいたような区域が、明治になってもそのまま商店街で残ったか、宅地になったのではないでしょうか。 現在では外堀通りのほうが栄えていますので、日枝神社参拝には横から登ることが多と思いますが、本殿の向きからしても本来は現在の国会議事堂方面が正面ですので、そこに門前町があったのですね。

zki-yumi
質問者

お礼

ふむふむ…なるほど。 当時は門前町側が栄えていたんですね。 しかし、周りは大きなお屋敷ばかりの中で、門前町の一角だけ普通の町屋(商店街?)なのですね。 参拝客用の土産物屋か何かがあったのでしょうかね。 とても興味深い内容で面白かったです。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.5

No.4です。   昨日はあてずっぽうで書きましたが、はずれました。 手元にあった明治20年発行の二万分の一の東京測量図を見たところ、軍馬局は別の場所でした。 永田町二丁目には陸軍省、参謀本部がありましたが、少し離れており関係ないと見られます。 該当地区の道路の向かいにフランス公使館、その先に清国公使館がありましたが、これも関係ないようです。 地図上の建物で見る限り、単なる町屋に見えます。 ?

zki-yumi
質問者

お礼

やはり町屋でしょうか? 周囲が大きなお屋敷ばかりですが、使用人や神社関係者の方が住んでいたのでしょうか? このように戸数の少ない町屋もあったのですね。 当時の日枝神社辺りの写真でもあれば良いのですが。 ご回答ありがとうございました。

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.4

あてずっぽうですが、軍馬局があったあたりなので、その関係の建物か厩舎ではないでしょうか。

  • Mumin-mama
  • ベストアンサー率45% (1140/2503)
回答No.2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B こちらに長屋の一軒の大きさが分かる記載があります。 (更地にすると乗用車1台分?) 両国の大江戸博物館には実物大モデルがありました。

zki-yumi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本当に狭いのですね。 両国の大江戸博物館には今も実物大モデルがあるのでしょうか? 機会があれば行って見てみたいです。

  • Mumin-mama
  • ベストアンサー率45% (1140/2503)
回答No.1

前回回答した者です。 現在のその場所をストリート・ヴューで見たところ今も住宅が建っていたり駐車場がありますので、おそらく、長屋の様な形の住宅が建っていたのではないでしょうか、40年くらい前の東京ではそのくらいの敷地の家が屋敷町の奥によく社宅のような形でありました。  住宅地出なければ、わざわざ地図の欄外に描いて住所の番地、号などふらないと思います。  10坪くらいでしょうか、東京オリンピック以降、家には、洗濯機、テレビ、冷蔵庫を購入、自宅に風呂を作る所も増え、隣の土地を買い取って家を広げたり多かったですよ。その後はバブルで銭湯や小さな商店街が無くなり、都心の大学は郊外に移転。郊外には団地が建ち、 大きな土地所有者は土地をビルに譲り、借地の長屋風住宅地は更地にされ駐車場になることが多くありました。

zki-yumi
質問者

お礼

こんにちは。前回に引き続き、ご回答ありがとうございます。 なるほど……番地が振ってあるということは住宅地である可能性が高いということですね。 しかし、10坪ですか! 現在の学生が住むような六畳一間のアパートでも15坪はありますので相当狭いですね。 でも大物家電がなければ案外普通に暮らせるのかもしれませんね。 長屋というと、下町に町人用の大規模な居住エリアがあって……というイメージだったのですが、このような武家屋敷(?)が立ち並ぶエリアの一角にもあったのですね。

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