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劣位を誇示しすぎると優位を誇示しているようになる
例えば、低血圧、病弱など、本来は経済活動上では劣位であるのにもかかわらず、あまりそれを言うと、なんか優位を言っているかのように見えるのは何故なのでしょうか。松葉づえや包帯をかっこいいという心理と同じだと思いますが。
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お礼をいただいて、「難しい」とおっしゃっているので、もう一度ご質問を読んで考えてみましたが、やはり、 > 松葉づえや包帯をかっこいいという心理と同じだと :ここで引っ掛かるんですね、わたしは。 感覚が違うのか、どうにもピンと来ない。 なぜだろうかと他のご回答も読んでるうちに、区分けというものがキチンとできてるかどうかということの検証が必要じゃないかと思いました。たとえば、 実際、笑い話ではなく、本当の話なんだそうですが、 ある人が、電車のなかで、優先座席に座っていた若い男を、本来、優先して、座席利用できるはずの人のために譲ることを促したところ、男は渋々立ち上がった。 で、ちょうど停車した駅に降りて行くのを見たら、男は足を引きずってたんです。 座席を譲ることをせかした人は、アレ、足の悪い人だったんだ、と驚いた。 ところが、電車のドアが閉まり、なおも窓から、若い男の姿を見守っていると、なんと、改札に向かって走り出したというんですね、その若い男。つまり、足は何ともなかったんです。 わたしも電車のなかでウトウトしていて、いきなり肩叩かれ、目の前に障害手帳らしきものを突き出されて、若い男性に、席を譲れと要求されたことがあります。 車内は、かなり空いてたから、なんでワザワザ、と一瞬むっとしたけど、わたし自身が、その時、優先座席に座ってたんです。もちろん、すぐに立ち上がりました。 こういう話もあります。 片腕がないとかいう障害者がサッカーか何かのスポーツをやるんですけど、天気が悪いなかで練習試合などをやったあと、ぬかるんだグラウンンドのせいで、シューズは濡れて泥まみれで、靴ひもをほどくのが大変だ。 片腕がないから、もう一つの手だけで懸命に、ほどいていくんだけど、そばで見ている仲間たちは、見ぬふりしてる。一切、手を出さない。 なぜって、時間さえかければ、本人自力だけで、最後には必ず、ほどけるから。 手伝うと、かえって本人のためにならないからです。 だけど、何かの事情で、あと3分以内に、ひもをほどいて、他の靴に履き替えなくてはならないときは、どうするんだ。 さて、質問者さんは、これらの話をどう考えられますか。 こういうとき、本人が、誰にも何も頼まないで、一人必死に解決しようとしてる姿は実に健気で、そういうことなら、と手伝ってあげたくなるのが人情です。 だけど、手伝ってはいけないときと、手伝わなきゃならないときの、妥当な区別が必要なんです。 そこをゴッチャにしてると、むやみに、要らぬ苦痛を生じさせることになります。このへんは、分かりますか? それと、どちらにお住まいか存じませんが、関西の方なら、昔から 「くれくれ乞食には、やりとうもない」 という言葉を知っていると思います。意味は、だいたい分かりますか。要するに、もの欲しげにするやつは、かえって、やりたくなくなるぞ、くらいな意味らしいですけど、人間の心理が出てますね。 どうですかね、これなら、共感を感じますか? さて、だけど、ケガもしてないのに包帯巻いてたら、そりゃあ、何かの演出でしょう。 視力十分なのに、わざと伊達メガネをかけるようなことと似てるかもしれないけど、そういうことを聞きたかったんですか? ケガをしたから包帯しているのに、かっこよく見せようとしやがって、と思う?そんなのは変です。 必要だから、危険だからという理由がある。 それでも、ええかっこしやがって、おい、包帯なんか取ってしまえよ、と言いますか? あのね、ハンデをつける、っていう言葉もありますね。 これは、つけて、やっとこさ、通常レベルでおれる人と対等のラインにつけるからなんです。 必要ないのに、ハンデつけるみたいなことをやるのは、それは、エコヒイキと言うんじゃないですか。 むやみに感情的な視線で見るから、相手も同じように感情的なんじゃないかと疑うのではないでしょうか。 甘えない姿が健気で美しいから、という理由は、それこそ感情や主観的な判断に堕しかねないです。 そういうことに惑わされず、今、自分が、 質問者さんに言わせると「劣位」ですか、それだから手伝ってくれ優遇してくれ大目に見てくれという要求・請求は、それは単なる甘えなのか、必要なことなのかを、大局的に見るようにすることです。 自分自身の問題で考えた方がいいんで、 たとえば、質問者さんが何か障害と言えることを、 そういえば、たしかアスペルガーのことを、ここで訴えておられましたか、 その「訴え」自体が、大いに甘えだと判断する人も、現にいるでしょ? アスペルガーだから、どうしても支障が生じることがあるのを、そんなことにお構いなく、問題を抱えていない人と同じようにやれ、と命令されて、歯を食いしばって無言で耐えて、結局ダメダメだった、と周囲からダメ人間の半人前というレッテルを貼られても堪え続けますか? たしかに、確かに、自己正当化等々といった甘えはあるでしょう。しかし、 何かの緊急事態が起きた時、一人で頑張ったために、それが周囲の足を引っ張り、巻き込むことになっても、そんな自分をウットリと、健気で美しいな、わたしは。と思うなら、それこそナルシストですよ。 それが、もっと酷い段階になると、どうせ、わたしの辛さなんか、世界中の誰にも理解できないのよ、とフテクサレが始まり、 やがて、誰彼なしに辛辣な疑惑の目で見つめ始めるようになってしまうかもしれませんよ。 そうなってしまうと、今度は自分から積極的に、他人に無用の苦痛を与えて鬱憤晴らしするような者になってしまいますよ。 そうやって、ご同類的人間が増えていくかもしれませんよ。 誰が「優位」で、誰が「劣位」と決めていることに、 その位置づけの言葉の内実と、 そこに正当性、妥当性は確かにあるのか、 まずは、自分が立っている視点から先に、それを問うてください。 そのうえで、本当に「必要なこと」と、「甘え」の区分けをしてください。 他人に対して、ご自分視点からの健気さなど美意識を要求するのは、そのあとのことでよろしいと思います。 それも、自分自身のためですよ。
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- yosiochan
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優位を言ってるように見えるのは、言ってる人が優位と思ってるからでしょう。 なぜそんなことになってるのかというと、色々言えます。一つには「差別化」による「優越感」の心理があると思います。 自分は他人とは違う、どーだすごいだろう、なれるもんならなってみろ、的な?書いていて、変な心理ですね。勘違い野郎に多い心理でしょうか。 劣位を理由に何かを放棄できたり、加護されているなら、この心理の奥には「自己正当化」があると思います。 例えば、正々堂々と戦うと、「負けるかもしれない」という恐怖や不安、「負けは認めない」という否認など自分に不都合なコトからの「現実逃避」で、「いっそ戦うのを棄権する、しかも正当な理由で」。 「仕方ないよね、低血圧だから」とやるべきことの放棄・免責に対し自己を正当化してる。そしてそれで終わればいいのに、調子に乗り、他人まで巻き込み、自分に価値をつけ、優位にしている人は他人から疎まれます。優越意識、差別意識、度の過ぎる不幸自慢など。 包帯や松葉杖、病弱などで差別化してる人は「自己愛」の現れでしょう。ナルシストで、寂しがりやです。「私を見て、大事にしてね」という心理です。過度にそれを表現する人は「自己顕示欲」も入っているし、美意識の差別化や優越感もあるでしょう。「見て見て、私の美意識、ちょっと変わってて面白いでしょ」ってわけです。 劣位を優位にするテクニックは「自己愛」「甘え」という心理に思いっきりのっかってますね。 自己顕示欲が強く、甘えた人間なので、よけいなコトをたくさん書きました。
お礼
ありがとうございます。なんかとても微妙で複雑な問題にみえてきました。 多様な能力を生かすことは、経済や文化の発展には良いことだと思うし、ただそれが客観的に見て「自己正当化」に見えてマイナスに見えて排除につながる可能性もある。 他方で、’努力を避けるという甘えにもつながる恐れがある’ しかし、’努力を避けるという甘えにもつながる恐れがあるという考えから個性や可能性ををつぶしかねない’ 本当に分かんなくなっちゃいます。
自分の弱点をさらけ出しても相手に勝てるというような、一種の余裕が圧力になっているのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。参考にしたいと思います。
- CTAB
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不幸自慢というやつですね。 「俺今日全然勉強してないぜー」とか「大怪我しちゃってまいったよー」「俺子供のころから事故に合いやすくてさあ」てきな。 これはなんか一般にイメージされてるのと違うのですが、自己顕示欲に分類される感情から出る行為らしいです。 つまり人と違うところを強調することで、自分の特別性を相手に意識させたい。という感情ですね。 そして、俺は凄いんだぜ、という内容を言うと反発を買われるというのは言うほうも分かっているわけで、それに比べて、自分の辛さを言う行為は自分の特別性を告げるとともに、自分が劣位であることも含んでいるわけで、相手に悪い感情を与えにくい(と口にする側が思うので、口にしやすい)わけです。 そして人間というのは、当然それくらい無意識で理解できるわけです。 相手が劣位であることを強調しようがどうしようが、相手が自分自身の特別性を強調していることを理解し、その行為に対してムカつきを感じてしまう、というわけですね。
お礼
ありがとうございます。このことは人間において複雑で難しい問題だと思いますのでよく考えてみたいと思います。ご意見ありがとうございます。
>松葉づえや包帯をかっこいいという心理と同じだと おっしゃることは、私には、どうもピンと来ないものですが、それはともかく、質問者様にとって、 > なんか優位を言っているかのように見える としましたら、そこに、ご自分側にとっての、何らかのプレッシャー感あるいは場合によっては、後ろめたさ的感情を呼び起こされるのであろうかと思われます。 いくつかの例を、こちらで探し、挙げてみるとしますと、 体力の衰えた老人なのだから労れ、とか、 妊婦に席を譲れ、とか、 たとえば、アスペルガーなどの障害者に対し、これを理解し優遇せよ、とか、 そういった「劣位」者からの主張を、「優位」に立っていると、つまり、自分は「劣位」者に該当しないことであると思っている場合には、「優位」側の者であるという、それは多分に無根拠で無自覚な思い込みがあることによって、自己の「優位」性を「劣位」者側に責め立てられている気分になるのが一つではないですか。 あとは、まあ、親が「勉強せよ」と煩く言うと思った子どもが、「今やるとこだったのに、かえって、やる気が失せた」というような感覚に近いものがありますかね。 人間とは、捻くれたところが大きいのかどうか、自発性を待たずに先回りされたというような感覚を覚えますと、相手の主張が妥当にして必要な事がらであったとしても、とたんに、奇妙な反発心を持ちがちです。 つまり、意外に思われることでしょうが、むしろ、無自覚な「優位者」側意識だったはずが、望まぬはずの被害者意識を呼び覚まされているように、そこに、一種の内的逆転を感じさせられることから、不快感の類を催されているのではないかと考えられます。 > 本来は経済活動上では劣位である という、これも、よく考えれば実に掴み難いご発言であるように思われますが、 「劣位」とか「優位」ということが、その基準たるや、はたして誰によって設定づけられて発言されているのであろうか、また、「誇示し過ぎる」という多かれ少なかれの感情を含んでいるかに思われる形容判断も、それは、はたして誰によって行なわれているのかを考えてみられることだと思います。 とりあえず、こんなところで。
お礼
ありがとうございます。なかなか難しいです。よく考えて建設的な見地を得るように試みたいと思います。
テストで同じ95点でも「熱を出してた」ほうがすごいと言われがち。 ハンデを背負ってるほうが評価に上乗せがある。
お礼
なるほど、ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 >他人に対して、ご自分視点からの健気さなど美意識を要求するのは、そのあとのことでよろしいと思います。 >それも、自分自身のためですよ。 この言葉にちょっと、やられちゃいました。逆説の逆説ですね。まいりました。 確かにそうですね、自分自身、結局最善策を選んでいます。 例えば車の運転においてでも、息子に話しかけられるとハザードを押して、バックミラー確認、左によせて、一時停止、「で、何?」、「もういいよ着いてからで」と息子、この習慣は人にずるいと言われようと何だろうと、押し通してますからね。 考えてみれば風邪ひいて熱が出るのも、体が社会に対してずるっ子している様なものですからね、それでも体は押し通して熱を出す。自分のずるっ子を受け入れることも逆説的には大切なのかもしれません。