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新田義貞の鎌倉攻めの自然状況
新田義貞が鎌倉に攻め込んだとき、伝説的には稲村ガ崎を渡って進入したと言うことらしいですが、そういうことができると言う根拠はあるのでしょうか? やはり、鎌倉は、天然の要害であり、陸方面からは切通しを通るしかなく防御が万全である。ゆえにそれ以外のルートをと言うことになって、海からと言うことになったのだと思うのですが、これは真実味があるのでしょうか?しかも夜襲ですよね。 これができるためには、月明かりがあることや、干潮であること、あるいは当時の地形の状況、そういったものが検証されるべきだと思うのです。記録による日時と、現在の天文学を駆使して当時の月齢、干満の状態を調べることは可能なのでしょうか?また、当時世界的寒冷期だったと聞いていますので、海岸線は多少後退していたことも考えられます。 そういった、事前条件的な考証と言うのはなされているのでしょうか?
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お礼
これは、大変参考になるご考察、ありがとうございます。 地形はこれだけ時間がたつとずいぶん変わりますから、今のでは判断できないところがあるのでしょう。こういう伝記というのは、往々にして、事実をよりドラマチックに脚色して定着すると言うものですから、実際は奇襲と言うよりも正攻法に近い状況だったのでしょうね。攻めるにはそこしかないとすれば、とうぜんそのような攻め方を取るものですし。