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生きるとは

生きるとは  何の為に生きているか。息をして、ご飯を食べて、綺麗にして、苦労して、遊んで、愛して、妬んで、いろいろな感情を持って、一日一日が過ぎていく。 不自由はなく、特段に辛いわけでもない。何のために生きているのか、ふとそう思う時がある。 仕事は、意気揚々と毎日とりくみ、もちろんうまく行かないときもある。割り切ってもいない。頑張ろうと思う。しかし、何故か空虚を感じ、掴めない感情をぽっかり浮かべる。 愛に生きる。愛を感じた日々。あなたが居れば満たされる。それは紛れもなく真実である。信じあう二人はどこまでも深く結び付く。しかし、何故か空虚を感じ、掴めない感情をぽっかり浮かべる。 学生の頃からの友達と遊ぶ。気心も知れていて家族よりも自分のことを知っているような気さえする。ふざけたり、何かをしていると面白くて楽しい。しかし、何故か空虚を感じ、掴めない感情をぽっかり浮かべる。 偉大なことをし、社会に認められる。 ひととの繋がりに感動し、沢山の出会いに囲まれ、共に生きている喜び。 愛する人と共に歩む幸せな日々。 輪廻の一部であることを認識し、教えを守り、生を全うする。 何故だろう、生きるがわからない。 大切なものは沢山ある。守りたいものもある。 理解していないのか、その重要さを。自分が一つ限りであることを。 自分はどうでもいいと言っていて、しかし自分が成っていないことへの苛立ちが、そうさせている。 仕事でもあなたは必要とされているんだよ、いつも期待しているよ、でもそれだけじゃ足りないんだ。 あなたを愛していて、私の世界の光だよ、ずっと愛しているよ、でもそれだけじゃ足りないんだ。 こんなにバカになって遊べるのはあなたぐらいだよ、また遊ぼうな、でもそれだけじゃ足りないんだ。 きっと、とびきりのお金持ちになっても、偉大なことを成し遂げて評価されても、大切な人が沢山になって、愛されても、何故か空虚を感じ、掴めない感情をぽっかり浮かべるんだ。 その原因は何なのか。それを私は知りたい。 ひととは欲望に満ちている。 いいものが、たくさん欲しいのだ。 欲しいものを手に入れてもさらにいいものが欲しくなる。 そして欲しいものが増えていき、捨てるものも出てくる。 「もっと、もっと」ときりがない。 その探究心は褒められるものでもある。 うまくいっている時、そのことには気づかない。 うまくいかなくなった時、自分の愚かさに気づく。 幸せを、自分で捨てているんだなと。 自分が一つ限りであるように、それらも一つ限りであることを。 怠けている自分をいやがって、それでもやる気が起きてこない。 もう全部、なくしてしまった方が楽なのか。 そんなことも考える。 そんな空虚をもちながら、生活をする。 社会に生きるということが、生きるということなのか。 生理的に生きるということが、生きるということなのか。 前向きに、ポジティブに、できるだけ明るく、楽しく・・・ したいことは沢山あって、何がしたいのかもわからない。 自分自身の使命を忘れてるだけなのか。 鬱ではない。 生きるということ。 なんなのだろう。 なんなのか。 何かうっかり見落としがあるような。そんな生活を送っている。 なんなのだろう。 なんだ? なんなんだ! なぜ生きているんだ。 こんなこと考える、知能が与えられているのは! どうして? 超科学的なものが欲しいわけではない。 真理なのか? 本当は、本当は、なぜ生きているの? 明日がくるのを待つの? 何を積み重ねているの? 自分の正義も汚らしい部分も、すべてがどうだというの? 表現することが大事なのか。社会貢献、人の為が大事なのか。 何故宗教には教えがあるのか。教えられなければ生きられないのか。 無宗教な日本にいるから、そう思うの? 自分で答えを出したい。 答えを出し、生きたい。

みんなの回答

回答No.9

物質に「目的」はありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 (あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする) 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。 (「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます。 世界を変えろということですね。

  • kyhr1688
  • ベストアンサー率20% (100/489)
回答No.8

病気をしたときに健康の大事さを知るのと同じだと思いますよ。 結局、中途半端に満たされているだけじゃないかな。 いま自分が持っているモノ全てを捨ててしまえば、生きる意味が判ると思いますよ。 絶対にやらないと思うけどさ。

pafenirnir
質問者

お礼

なるほど。それは捨てるということ?

  • nasu2355
  • ベストアンサー率16% (134/835)
回答No.7

人として生まれてきたその瞬間から、人は死へ向かっています。 ある宗教では輪廻とか永遠の命とか・・・いろいろ言ってますが 信じていません。 人は塵から生まれて(作られて)塵にかえるものでしょう。 生きるとは=呼吸すること 生きるとは=自我・意識があること 生きるとは=入れて出すこと(食してフンを出す) 生きるとは=「死」まで与えられた地上に立つ数十年間の期間の生活 生きるとは=人によって全く違うオリジナルな劇場

pafenirnir
質問者

お礼

生きるとは=人によって全く違うオリジナルな劇場 そう思うと素直に楽しめるのかもしれません。 生を客観的に演じきる。

  • galapa
  • ベストアンサー率50% (3/6)
回答No.6

えらく長い質問ですが・・・ 生きる、と=(イコール)ではないかも知れませんが、 人間が生まれてきた理由は、私の結論は、  「誰かに、何かの影響を与えるため」です。 その答えを見つけるために、生きているのか(?)もしれません。 どっちにしても、重い話題ですねぇ・・・

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます!! なるほど。 それが何であれということですね。 出来れば幸せな影響を与えたいです。

  • kametaru
  • ベストアンサー率14% (339/2313)
回答No.5

長い質問ですが・・・ 個人的には生きる事を止めようと画策した人間です。(失敗でしたが) >その原因は何なのか。それを私は知りたい。 それは冨と栄誉と素敵な人がいる人間の言葉で質問者さんにはまだ早いような気がします。 まずは冨と栄誉と素敵な人を手に入れてそれから嘆き悲しんでくださいね。 順番が間違っているよ。

pafenirnir
質問者

お礼

それは自覚しとるんですがねー。 それに対する欲?が虚しくてわかないんですね。 ある程度のそれぞれは持っているんですが。 もう少し自問自答してから世に表現するべきなのかもしれません。

  • kyokusinn
  • ベストアンサー率21% (28/133)
回答No.4

生物的に言えば子孫を増やすって言えるんですけどね(^_^;) 哲学的に考えたら特に意味は無いのかなって思います。宇宙から考えたら人間って小さな物です。 だからそれなら好きに生きようと自分は楽しく生きること、好きな人や物事に生きようと四苦八苦しながらも頑張っています(^0^)/

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます。 うん、そうなんですよねー。 基本、超ポジティブなんですけどねw 答えが見つかるまでは、そう、とりあえず思いっきり好きに生きる気です。

  • aitsh
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.3

空虚を感じることも人生の一つではないかと。 死んだらそれすらもない。 死について考えてみてはどうでしょうか。 自分はいずれ消えて無くなってしまう。何も無くなる。 そう考えた時、恐ろしくなりませんか? 生きる意味を見出すことなどどうでもよくなる。 ただ生きたい と願う。

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます。 うーん、そんなに自分がなくなることへの「怖れ」はないんですよ。 ただそれを考えたときに、何か残したい、という感情はあるんです。 それが「生」ということなのでしょうかねー。 もし私がパッといなくなったとして、悲しむ人が出てくるのは想像できます。自分が何も無くなることはわかります。 でもそこには私がいないので、結局関係のないことと思えます。 大事な人がいないわけではありませんよ。悲しむ姿を考えると私も悲しいです。 例えばピカソは、死後その価値を認められた。 でもその感情はピカソには伝えられません。 いないわけですから。 「死」は自分が無くなることと、残すことを生み出す様な気がします。 うむー。

  • namekko
  • ベストアンサー率26% (57/214)
回答No.2

生きるっていう事は、あの世に行く為の修行です。 あの世に行く為の試練です。 ですから、辛い事の方が多く感じたりするのです。 でも、辛い事ばかりですと頑張って行けないので少しのご褒美がもらえる訳です。 私も悩んだ時期がありました。 悩んで四国の八十八か所も廻った事もあります。 僕は、その時いっぱいの本を読みました。 あらゆる本です。 なかでも、心を動かしたのは、仏教の本です。 是非、読んでみてください。 答えが見つかるかも知れませんよ。

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど悩まれたのですね。ちょっと安心します。 宗教の教えはやはり心動かされるモノがあります。 好きです。 手塚治の「ブッタ」をあるカフェでぶっ通しで読んだことがあります。 (漫画喫茶ではないwww) その時もこういうことに悩んでいたのかもしれません。 仏教での、悟りを啓く、意味もわかります。自分なりにw ただ、合点がいかないのが、修行とか、あの世、天国、そこなんです。 天国に行きたいからお祈りをする、良い行いをする。 イスラム教ではジハード(聖戦)は良い行い。 だからタブーももしかしたらタブーではないかもしれません。 マリリンマンソンはきっと悪くはありませんw 人も動物もきっと基本的には同じです。 ただ人は考える機能が多すぎたのかもしれません。 欲を求めるだけ、すこしの理性で良いのかもしれません。

回答No.1

両親が愛し合って、生を受けてこの世に誕生したときから、 命あるものを食してここまで生きてきたのだから、 自分を育ててくれた命のためにも生きなくてはいけないんだと思います。 生きる目的ではないかもしれないけど、 今日もまた命を食して生きている限り、 精一杯生きなくちゃいけないんだと思います。 私も生きる目的や、理由や、意味がハッキリとわからないので、 私を生かしてくれている命に感謝しながら、 この瞬間をただ生きるだけです。

pafenirnir
質問者

お礼

ありがとうございます。 感謝の気持ち大切ですね。 たくさんの奇跡の結果、自分が存在していることがわかります。 でもやはり感じてしまうのです。

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