• 締切済み

宗教に走る人

現実の世界で、 もっと金持ちになりたい、もっと高い地位につきたい と思って、懸命に頑張る人と、 宗教に走って、 幸せになれるようにと懸命に祈願する人は、 両者とも、願いを叶えるために行動しているだけなので、 似たり寄ったりということでしょうか?

みんなの回答

回答No.14

似たりよったりかどうかわからないですが、 自分の経験から申しますと、宗教をやっている人でも生まれた時から親がある宗教をやってたら理由はなく、やるしかないんです。  小さい頃からその宗教の集会へ連れて行かれ、こここそが唯一真だと言われる。ここを去ると不幸せになる。この教えを全世界の人に広めなさいと神が言っている、それをしないと罰が下る。そういわれて私の場合は育ちましたので。教団の駒となって働くしかないんです。   もちろん、仲間と一緒にキャンプに行ったり、人助けしたり、楽しいこともあります。が、2世、3世となっていくとその世界しか知らないわけで、他にもっと素晴らしい教えがあっても、もっと有意義で自由な生き方があっても、それを知るすべを知らないことが多いのです。結婚も同じ宗教の人としなければならない。なにかのきっかけで外の世界をみてそちらに行きたいと思っても、家族を悲しませたくないし、白い眼で見られたくないからそこにいすわり続けることもあります。  私の場合、実家はモルモン教です。私が疑問に思ってモルモンを去ろうとした時、父からひどい脅迫を受けました。 一度は死ぬしかない、と思った程、ひどいいやがらせを受けました。モルモン指導者は全く私をたすけてくれず、最後に警察に通報してやっと父の魔の手から逃れることが出来ました。   だから、願いを叶えるっというよりはその世界でうまくやっていくしかない、というのも現状ですね。 私はモルモンの悪事を自分で見つけ、父に逆らって去りましたが、真実を知ろうともせず、又、知っても逆らうことさえ出来なくて無理して苦しい目に遭ってもその宗教にとどまっている人っていると 思います。  その点、自分の力で生きて行こうとする人の方が強いのかな、と思います。  

回答No.13

 質問から時間が経ってしまっているので、Kindergartenさんはもう見ていないかもしれない(笑)。  他の方の回答を読ませていただきましたが、抜け落ちている視点がありますので書きたいと思います。  私は、知っている人に宗教に走った人達が何人かいます。で、その人達に共通しているのは、虚弱体質で困っていたり、不幸事が連続して起きていたりすることです。  よって、宗教に走る人は、「幸せになれるようにと懸命に祈願する人」ではないのですね。少し違う。純粋に生きていくことが辛かったり、なにかにすがっていないと辛いから信仰を持つようになるのであって、願いを叶えるためではないのですね。

noname#3772
noname#3772
回答No.12

質問者の短い文章では判断しかねる部分があるのですが 質問文だけの情報でいうと、後者は神仏に「願い」「思い」を祈念している訳でして・・・。 よって、両者の《思い》は同じであっても「行動」は別物だと判断しました。

  • Den_Zuk
  • ベストアンサー率40% (4/10)
回答No.11

「懸命」するのなら両者は同じだと思いますよ。 ただ結果を問うならそれは様々なので話が別方向に行くと思います。明るい見通しが結果暗くなる事もあるでしょうから。 ですので「行動」は両者同じ。「願い」は両者明暗分けるが適当だと思います。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.10

>両者とも、願いを叶えるために行動しているだけなので、 似たり寄ったりということでしょうか? 目標は同じだと思います。 そしてどちらに偏っても ダメなんでしょう。 >もっと金持ちになりたい、もっと高い地位につきたい と思って、懸命に頑張る人と、  そう思って本当に金持ちになった人、いるんで しょうか?  結果的に金持ちになるだけで・・・ ただ一つ確実なのは、考えることができない人、 考えることをやめたくなった人が宗教に 走るんですね。 ですから、お金儲け考えるのに疲れた人は 宗教に走りますが、逆はない。 宗教集団のトップにいる人はもうけて ますが・・・

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.9

No.7の返答についてのコメントです。 >>まともな宗教は奉仕と博愛の精神を説いていますから、 > >カルトと呼ばれるようなものでも、大抵はそれら >説いていると思います。表面的には。 ですので最終的には、個人や団体の行動と実績をみて判断 するしかないですね。 まぁ大宗教といえども、創始期はたいていカルト呼ばわり されていたみたいです。 それが時がたつにつれ本物は発展し、偽者は問題を起こして 沈んでいきます。 キリスト教なんて最初はひどいもんですよ。 人の生き血をすする、人肉を食べるなど、無茶苦茶なデマ も広まりました。 そしてローマ帝国の大弾圧にあって処刑されたり、ひどい のになるとライオンのえさにまでされました。 けれども地道な活動を続け、ついにコンスタンチヌスが皇帝 の時に公認され、以後2000年かけて世界中に広まった わけです。 お釈迦様だって布教する段階では、群集から石を投げられ たり、他の宗教の信者から無茶苦茶に悪口を叩かれました。 けれども最終的にはインドのあちこちの国の王が仏教に帰依 する結果となります。 ビジネスや政治の世界だってそうですよ。 みんな口ではいいことを言います。 けれども、自分の金儲けや立身出世のためだけに働いている のか、それとも世のため人のために働いているのかは、その人 の行動と実績を見なければわかりません。 偏見や色メガネをかけて物事を見るのをやめ、冷静に事実を 見極めることが重要ですね。

Kindergarten
質問者

お礼

>まぁ大宗教といえども、創始期はたいていカルト呼ばわり >されていたみたいです。 >それが時がたつにつれ本物は発展し、偽者は問題を起こして >沈んでいきます。 本物の範疇に入ると思われる宗教であっても、宗教の名 のもとに戦争を起こしたりと、本当に教祖の教えを引き継 いでいるのかどうかは、はなはだ疑問ですが。 >偏見や色メガネをかけて物事を見るのをやめ、冷静に事実を >見極めることが重要ですね。 カルトと見られていたものが大宗教として発展している例 があるとのご指摘でしたので、アーレフ・統一教会・ライフ スペース・ 法の華なども、偏見を極力排除して長い目で 見つめる必要がありそうですね。 >けれども、自分の金儲けや立身出世のためだけに働いている >のか、それとも世のため人のために働いているのかは、その人 >の行動と実績を見なければわかりません。 それはいろいろな人がいるでしょうね。 俗世で生きる人をトータルで考えるならそうでしょう。それ ゆえに私は、質問文に明記されているように、対象を以下 の人に限定していたのですが。 >>もっと金持ちになりたい、もっと高い地位につきたい >>と思って、懸命に頑張る人と、

  • aiaiahiru
  • ベストアンサー率17% (16/89)
回答No.8

>現実の世界で、もっと金持ちになりたい、もっと高い地位につきたいと思って、懸命に頑張る人と、 懸命に頑張るのは、純粋に自分の仕事に対する興味・ 探究心・愛着や自己実現のためでもある、という人も多いと思いますよ。 >宗教に走って、幸せになれるようにと懸命に祈願する人は、 宗教は何かを祈願して叶えてもらうためのものではなく、本来は信仰することそれ自体に救いや安らぎがあるものであり、自分の信念や価値観を支えるものだと思います。 特にご質問にあるような人たちに限定して比較するならば、「幸せになりたいと求める気持ちは同じかもしれないですね」ということだけですね。人それぞれ色々な経緯でその状況に至っているのでしょうから、似たり寄ったりとひとくくりにしてしまえるとは思えませんし、ひとくくりにする意味もないように思います。

Kindergarten
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >宗教は何かを祈願して叶えてもらうためのものではなく、 そうだと思います。 ただ、祈願すれば病気が治る・出世するなどと謳って いるものが多いのも事実でしょう。 >本来は信仰することそれ自体に救いや安らぎがあるものであり、自分の信念や価値観を支えるものだと思います。 その通りだと思います。 ただ、中には、信仰に支配されて己を無くしてしまっ ているような人がいるのも事実だと思います。 >似たり寄ったりとひとくくりにしてしまえるとは思えませんし、ひとくくりにする意味もないように思います。 おっしゃることはよくわかります。 ただ、宗教的なものは世俗的なものより上にくるという 思考の延長線上で、数十台の車両で公道を平気で占 拠したり地下鉄でサリンをまいたりする者達がいるも のですから、宗教をやっている者が偉いわけでもなん でもないことを、知らしめる必要があると感じていると ころなのですが。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.7

自分の願いを叶えたくない人が、世間に何人いるでしょうか? だから似たり寄ったりと言われると、そのとうりだと思います。 けれども、ビジネスで成功するために社会によい商品やサービスを 提供したり、高い地位につくために人のために尽くすなど 結果として世のため・人のためになっていれば、何の問題 もありません。 宗教を信じる人も同様で、まともな宗教は奉仕と博愛の精神 を説いていますから、宗教を信じて世のため・人のために 尽くす人が増えれば、結果オーライです。

Kindergarten
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >まともな宗教は奉仕と博愛の精神を説いていますから、 カルトと呼ばれるようなものでも、大抵はそれら 説いていると思います。表面的には。

  • fuchikoma
  • ベストアンサー率17% (82/466)
回答No.6

 宗教性を重視するか、経済性を重視するかの異なりでしょう。宗教的価値観を重視する人が経済的に成功しても満足感は無いでしょうし、経済的価値観を重視する人が宗教的に成功しても、これまた満足感はないでしょう。  その意味では、人はみな自分の価値観に沿った行動をするわけで、あらゆる人が利己的でしょう。宗教的権威も経済的権威も似たり寄ったりだと、私は思います。ただし、社会的にどちらが評価されるかは別問題でしょう。  現実的には経済的価値観のために宗教性を利用するなんてこともありますか。その逆も。

Kindergarten
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >その意味では、人はみな自分の価値観に沿った行動をするわけで、あらゆる人が利己的でしょう。宗教的権威も経済的権威も似たり寄ったりだと、私は思います。 同感です。 ただ思うのは、本来イエスや釈迦は、利己的であること から脱却すること説いていると思うのです。 その意味では、現存するあらゆる宗教は、イエスや釈迦 の本来の教えとは隔絶したものであると思えてならない ところです。

  • lilact
  • ベストアンサー率27% (373/1361)
回答No.5

自信なしですが。 自分の考えた目標を達成するために自分の考えた手段を実行しているという点で見ると似ていますね。 手段を実行した結果の受け入れ方に違いが出てくるように思われます。 また、結果の確実性も異なると思われます。 お金や名誉を目標にした人はそれを得ることによって幸せを感じるかもしれません。しかし、幸福は保証されていません。友人をなくしたり、働きすぎて病気になったりして不幸を感じることもあるかもしれません。お金や名誉を得られないかもしれません。 結果も、どう受け入れるかも不確かです。 宗教は、貧しくても病気になっても家族が亡くなっても、それは神様が与えてくれた試練なのだという思いがありますから、悲しさは感じても不幸だとは思いません。信じれば信じるほど目標に近づくのです。 例えば、お金持ちは不幸、貧しい人は幸福というような思いは、信じれば信じるほどその思いがが強くなります。 どんな未来になろうとも、信じれば信じるほどそれを受け入れる、つまり結果が確実になるのです。 (宗教には詳しくないので、ある宗教を想定しています)

Kindergarten
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >宗教は、貧しくても病気になっても家族が亡くなっても、それは神様が与えてくれた試練なのだという思いがありますから、悲しさは感じても不幸だとは思いません。 不幸だとは思わないように努めているだけのような気がするのですが。心底から不幸と感じない人はほとんどいないのではないでしょうか。 宗教においても、経済的に裕福であることに関しては、懸命に祈願した「功徳」の表れあるいは前世の善行によるものなどとみなし、「試練」に相当するマイナス的現象とは区別をしているのが普通だと思います。 このように「功徳」と「試練」を区別していること自体が、ほとんどの宗教において、実は世俗的な「幸福」「不幸」の価値基準となんら変わりのないところで右往左往しているに過ぎないことを、証明しているように思えるのですが。 >どんな未来になろうとも、信じれば信じるほどそれを受け入れる、つまり結果が確実になるのです。 たとえ実感が得られなくても、信じることによって「幸福」を得ようとするのが宗教であるからこそ、自爆テロのようなことも可能になるのだと思います。 それに比べて、宗教に頼らない人は、己の実感こそが唯一の価値基準なので、自爆テロなど荒唐無稽以外の何物でもないと判断できるのでしょう。 >友人をなくしたり、働きすぎて病気になったりして不幸を感じることもあるかもしれません。お金や名誉を得られないかもしれません。 結果も、どう受け入れるかも不確かです。 目標を柔軟に転換できる人もいるでしょうし、また、宗教に走った場合においても、病気等を「試練」の一言で必ず受け入れられる、ということでもないと思います。

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