既得権益や規制こそが社会の活力となるのでは?
先ほど
「既得権益の打破こそが新しい世の中、未来を創るのだ」
と叫んでいる、新興勢力の人たちは、いざ自分たちの都合の良い新しい社会の仕組みを手に入れたら、それを自分たちで独占して、他社・他者の参入を許さず、自社や自分の一族郎党だけが社会や業界を支配できるようにするのではないか?
との質問をしたところ、おおむね賛同の回答をいただきました。
ところでふと思ったのですが、既得権益とか、こうすればこうなる、という社会の予定調和がなくなったとしたら、この社会は成り立たないのではないか? と逆のことが頭をよぎりました。
たとえば、今までよく言われたように
「勉強して、上の学校に進んで、いい学校を出て、いい会社に入れば一生安泰」
というのは、今ではなかなか通用しない世の中になりました。
しかし、今までは上記の法則が生かされたからこそ、学生は
「勉強し、進学し、少しでもいい職に就こう」
と努力をしてきたわけです。それが社会全体の能力を上げ、他国に産業で打ち勝つことができたわけです。
資格試験などもそうです。より困難な資格、より社会に求められる資格を得るために社会人になった後も勉強し、また企業もその費用を一部負担したり補助したりすることで、その会社が他社に打ち勝つ力となった、あるいは外国企業とも渡り合える力となった。
しかし、今までの
「この資格を取ればこういう仕事が独占的にできる」
「●●の販売や業務は●●取扱い免許を取得したものだけに許される」
「こういう資格、技能を持った人が企業から重宝される」
「こういう学校を出ると、こういう職業に就ける」
「●●免許試験に合格すると、必ず●●の業務ができる。免許の書き換えはなく、一生くいっぱぐれない」
「外国企業が日本で業務を行う場合はこれこれこのような制限を加えられる。これによって国内産業は守られている」
などの法則、規制、社会のお約束が、これからは
「規制緩和」
「既得権益の打破」
「抵抗勢力の排除」
という美しい言葉、錦の御旗のもとにどんどんと破られていくとなると、一体何を信じてこの世を生き抜いて行ったらよいのか、迷うことになります。
やはり、規制や免許、新規参入障壁や既得権というものがあるからこそ、社会行動、経済行動をするにも、「それを乗り越えよう」とする努力やパワーが生み出されるのではないでしょうか?
たとえば、極端に言えば各業界の免許や規制や販売免許などが全部取っ払われたら、完全に資本力のある企業だけが生き残り、小資本の会社は全部つぶされ、全員が大資本企業の社員となって、少ない給料で60歳まで働かされる、という事態が起こると思います。
大資本企業で雇ってもらえない人は全員浮浪者になることでしょう。
日本には会社は1社だけとなり、国民1億人のうち、10人の取締役と9999万9990人の従業員となるかもしれません。9999万9990人の従業員は全員最低賃金で働かされ、10人の取締役がすべての富を独占することでしょう。
また未成年の人たち、学生たちは
「勉強して大学行っても企業に就職できるかどうかもわからない、
今までは学歴以外で頭脳勝負するには資格取得という手もあったが、弁護士も司法書士も会計士も医師も薬剤師も、何もかも資格は撤廃され、自分が自称すればどんな職業も名乗れることになった。
こんな世の中、お先真っ暗だ。立身出世という言葉はどこに行ったんだ?」
と嘆いて、勉強なんかしなくなり、未成年のうちに酒やたばこにおぼれ、麻薬や犯罪にも手を出すようになるかもしれません。
やはり、
「この業界・分野に入ってくると、一定の利益を保証します。
ただしこの業界やこの分野は、努力した人しか加入・参入できません」
という分野は残しておくべきではないでしょうか?
お礼
天下りでしたか どうもありがとおうございました!