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地蔵信仰について
地蔵信仰は平安時代に高まり、鎌倉時代には下火になり、室町時代で修験者・山伏によりまた盛んになりますがどうしてなんでしょうか? 一度下火になったものがまた流行ったのは何が原因なんでしょうか?
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地蔵信仰の変遷はなかなか複雑で、簡単に書くといろいろと誤解を招きがちなのですが、注意しながらできるだけ単純化してみることにします。 まず、鎌倉時代に地蔵信仰が下火になったように見えるのは、念仏専修が広まったためでしょう。 平安時代の地蔵信仰というものは、10世紀以降の浄土信仰が興隆する中で強まりました。つまり来世信仰が高まると同時に堕地獄の恐怖も切実になっていく中で、貴族と違って現世で作善もかなわず極楽往生の確信が得られない一般民衆の間で高くなったのです。 わが国では本来、地蔵は地獄を棲家とする菩薩として説かれました。『今昔物語』にも見えるように、地蔵菩薩の力によって地獄から生還した話があったり、さらには地蔵菩薩と閻魔大王が同一視されたりことからもわかるように、地蔵は民衆の間では主として地獄で活躍する菩薩として信仰されたのです。 要するに、死ねば地獄に落ちることを前提とせざるを得ない一般庶民にとっては、地獄で救いをもたらしてくれる地蔵は誠に頼りになる存在で、言わばこの時代の地蔵信仰は阿弥陀信仰を補完するものとしてあったと言えるでしょう。 しかし、鎌倉時代になって法然が登場し阿弥陀念仏専修を説き始めたことが状況を変えて行きます。阿弥陀一仏の御名を唱えるだけで堕地獄を免れる、という易行が人気を博せば、堕地獄を前提として衆生を地獄で救済する地蔵のウェイトが軽くなっていくことは自然な成り行きでしょう。 また念仏専修の立場からは、念仏以外の行を行う事は地獄に落ちる雑行である、といった調子で先鋭化が進み、地蔵信仰も公然と批判されるような状況が生まれていました。これに対して旧仏教側からは無住の『沙石集』など、地蔵菩薩の功徳の有効性を説いて反撃に転じようとしましたが、もともと地蔵信仰は地獄で真価を発揮するという専門性に意味があったわけで、地蔵の功徳をあれこれ説くことは却ってその存在価値を薄めてしまう面があったかも知れません。 もちろん、地蔵にも現世利益的な信仰がなかったわけではありません。もともと『地蔵菩薩本願経』や『大乗大集地蔵十輪経』など代表的な地蔵関連経典では、地蔵信仰の功徳は病を除いたり、土地に豊穣をもたらしたり長寿をもたらす、といった数々の現世利益が説かれています。また、今昔物語にも疫病消除などの功徳は幾つも出てきます。 地獄救済の功徳が薄まるにつれ、徐々にこういった地蔵の現世における功徳がいわば先祖返りのようにして復活していくようになってきます。既に鎌倉時代には地蔵が田植えを手伝ってくれる「泥付地蔵」の話など、農耕と結びついて地蔵の現世利益が盛んに説かれるようになっていくのです。 また徐々に武士に浸透したことも地蔵信仰の特徴です。地蔵が戦場に現れて武士を救う、という話は既に今昔物語にもあるのですが、中世には『太平記』はじめいろいろな説話に採り入れられて広まりました。東国の武士の間では早くから地蔵が信仰されていたようで、それは足利尊氏に至って熱心な信仰になりました。 修験道との関係ですが、これは既に平安時代からあることで必ずしも室町以降に限ったことではありません。よく知られているのは験者の一大聖地であった鳥取の伯耆大山との関係で、理由は定かではありませんがこの山は既に平安時代から地蔵が本地仏として信仰される場所でもあり、ここを行場とした修験者によって地蔵は蘇生・延命を司る仏として信仰されました。 もともと奈良時代には地蔵菩薩は虚空蔵菩薩と対になって信仰されたのですが、空海が学問研究のための呪仏として虚空蔵菩薩を重視したことから真言密教に地蔵が採り入れられる端緒となりました。古くはここに修験道と地蔵の接点があったといえるでしょう。 このような関わりを契機として、平安時代の民衆への地蔵布教にも修験者の里での交流が大きな役目を果たしたとされます。修験者を通じて都である京都の愛宕山に地蔵信仰が持ち込まれたことも、信仰が拡大する契機になりました。後に尊氏が尊崇することになる勝軍(将軍)地蔵は、愛宕明神の本地としてわが国で独自に信仰された地蔵です。後の江戸時代には愛宕明神は武士には軍の神、庶民には防火の神として広まるのですが、それとパラレルに地蔵菩薩の信仰には現世利益の色彩が強まり、特に疫病治癒のいろいろなバリエーションが生み出されて行くことになります。 ちなみに「六地蔵」の信仰は『地蔵菩薩本願経』などに説く、「六道どこにでも衆生の救いのために姿を現す」という地蔵の請願が具体的な姿をとって造像されるようになったもので、恐らく平安中期ごろから、当時盛んだった六観音信仰に刺激されつつ成立したのではないかとされています。古くは単に六体の地蔵を並べるだけでしたが、平安末期頃にはそれぞれ異なる持ち物を持つようになり、権威づけのための偽経もつくられていますが、盛んに信仰されるとまではいかなかったのではないかと思います。 今回の質問とは直接関係しませんが、過去に地蔵と子供の関係について回答しています。意味があると思われればご参照下さい。 「どうしてお地蔵さまは子供に?」 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=460642
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- kyu_chan
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足利尊氏が熱烈な地蔵信仰者だったからだと いう事になっています。 地蔵の絵を描いて、民衆にくばっていたとか。 それからは、地蔵はむしろ現世利益的な面で 民衆に信奉されるようになり、浄土に住まず 人々の間に交わり 大悲をもって罪人の苦を代わり受けるという 地蔵の利益は,地蔵が信者の欲する力を もった人間となって現れたり, 危難を被りそうになった信者の身代りに なってくれるといった,〈身代り地蔵〉の 信仰へ発展したみたいです。 鎌倉時代から室町時代には,地蔵が僧の姿になって信者の看病をしてくれる話とか,信者に代わって田植をしてくれる〈泥付地蔵〉の話などが生まれ,地蔵の治病神・農耕神的性格もみられるようになった。また武士の間では,地蔵が戦場に現れて危急を救う〈矢取地蔵〉や〈縄目地蔵〉の話がもてはやされたみたいです。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、足利尊氏が熱烈ファンだったんですね。 「六地蔵」とかもそのころに生まれた話なんでしょうかね。
お礼
詳しくどうもありがとうございます。 大変参考になりました。